昨日は、毎月楽しみにしている「舞扇道」のお稽古日でした。
古武術の流れを引く身体作法を学ぶことができる魅力の講座で、地味な部活(?)なのに、毎回満員です!
藤本 かなめちゃんが「老師」とお呼びする小用茂夫先生の指導と深いお話がいつもたまらなくて、不器用ながらも参加させていただいております。私にとっての昨日のキーワードは「シン」。老師のお言葉「シン(芯)のない脱力に意味は無い」と「シンジンは踵(きびす)から呼吸する*」に痺れたのでした~!「シンジン」って「真人」と書くらしい。
舞扇を使って流れるような連続運動をくり返すうちに、今までバラバラの体の一部としてしか意識していなかった指先から腕へと電線のように意識が通り、背筋をまっすぐに通り、重心は腰から内くるぶしへ垂直に降りていきます。このとき、天から吊るされた人形のように、頭から踵まではまっすぐに芯が通っていて、なおかつ、腕や肩は力の抜けた状態でいなければなりません。ただグタ~っと力を抜いてもダメ。中心に芯が通った状態での脱力…これに意味があるのです。座禅に近いような境地と言えばわかるかな?
力の抜けた状態での扇の連続運動と前傾した骨盤を垂直に立て直す運動がつながっていくと、いつの間にか呼吸が連動して来るのです。これも「呼吸」を意識してはダメ。呼吸を先に意識すると、体の動きが間違ってしまうのだそう。そりゃそうだ!呼吸が目的ではないもの。呼吸はあくまでも副産物。
*「真人の息は踵を以てし、衆人の息は喉を以てす」by 荘子
ここからは私の感じたことなのですが、一連の動きの結果として、フッと気がつくと呼吸がついてきている気がする。吸い込むときは踵から地中の空気をスーッと吸い上げるかのように。吐き出すときは丹田から踵へ向けて深く…。自然にそうなっていく。老師いわく「真人は踵から呼吸する」と言うのだそうです。う~ん、わかる気がする。
この呼吸の感じが、ラマーズ法の呼吸法での発露の後(赤ちゃんの頭が子宮口から出た後)に使う「おすまし」の呼吸に似ている。どこも力まないで、すーっと自然に下に力が引かれていく感じ。まだオムツをしているような小さな子が立ったままおすまし顔でウンチしているときも、この呼吸なのだと助産院で習ったな~。力まないで、静かな呼吸で、すーっと丹田から下に力が向かうような感じ…。
そして、一連の動きをくり返していくうちに全身はつながり、動きは美しくなり、全身を気は流れ、無我の境地になっていく…そんな感じがしました。これ、体のパーツしか診ようとしない西洋医学から、全身を診るホリスティック医学にもつながるような気がして。これは深いわ~
”昔の真人(道理を悟った人)は、逆境のときでも無理に逆らわず、隆盛のときにも勇み立たなかった。失敗があってもくよくよとせず、うまくいってもそこで自分で満足してしまうことがない。こういう真人の心のありようを象徴するものとして、荘子は、深々とした息の仕方をあげている。
衆人の息の仕方は、喉でするように浅い。対照的に、真人の息は、踵(かかと)から吸って息を全身に行きわたらせたあとに、ふたたび踵からゆっくりと吐き出していく、深く静かな呼吸法である。からだに力みがなく、全身がリラックスしている必要がある。
赤ちゃんのからだは無駄な力みがないので、息が深く、一息ごとに全身が息のリズムで波打っている。踵を通して息をするイメージで呼吸をしてみることにより、小さなことにくよくよしない、ゆったりとした真人の心もちに近づくことができる。”