奈良登大路の日吉館の思い出 | 奈良 聖林寺ものがたり

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奈良の聖林寺 国宝十一面観音立像の光について
四十年来光背(光)の研究をしています。

直ちゃん、荷物届きました❤️今は九州なので、お寺に無事預かって頂いてます。ありがとう。大人になった直ちゃんから贈り物を受けとることが、胸が熱くなるほど、感激です。まあちゃん、しゅう、ゆうだい、皆、大人にまで、大きくなってくれて、若かった私が、命のいとおしさを小さな赤ん坊を抱っこすることで、どれ程、感動させられたことか、その赤ん坊達が皆、立派に大人になったことを万歳🙌したいくらい感動しています。

ところで、中学生のまあちゃんに、「破れ鍋に綴じ蓋」と言われた、家の叔父さん、やっぱり、かなりの変わった人です。今さらですが。

先日、偶然に、聖林寺にて、奈良登大路の、あの有名な写真館、飛鳥園の小川社長にお会いしました。
お寺さんも交えて、小川社長達、私の付き添いである家の叔父さんも交えて、お茶を頂きながら、しばし、楽しい会話をいたしました。
いつものことながら、小川社長に初めてお目にかかった興奮で、病人とは思えぬ勢いで、私のおしゃべりが加熱、いつも通りやや、恥ずかしかったです。
ところが、その会話に一番乗りそうにない、家の叔父さんの話が一番のヒットでした。

彼は、理工学部の院生の頃、安藤更正先生(1900~1970、美術史家)のゼミに参加していて、ご一緒に奈良登大路、日吉館に泊まり、唐招提寺などに通ったそうです。

その頃、安藤先生から直接伺った話、若い頃、体格も良く乱暴者だった、先生に向かって、会津八一先生(1881~1956、歌人、書家、美術史家)が、「更正せよ❗️」と、叱られたそうで、その言葉を名前にされたのだとか。
師弟愛からの名前だったのですね。この話には、会津先生や安藤先生と、ご縁の深い、飛鳥園社長も、喜んでくださいました。
話の流れで、日吉館名物女将キヨノさんの思い出など、今は、取り壊された日吉館の思い出などで、全員で、話に夢中でした。

家の叔父さんは、別所のおばあちゃんが、とても気に入って、私に引き合わせたのですが、当然、日吉館に泊まっていた、「奈良病」の人とは、おばあちゃんも私も知りませんでした。

やはり、観音様のお計らいで、こ縁があったようです。

安藤更正先生が、国立癌センターに入院された時、叔父さんが一人でお見舞いに行くと、今日は、気分が良いから起こして欲しいと言われ、抱いて起こして差し上げ、しばらく、抱いたまま、起きておられたそうです。
また、ベットで、マッチに火を灯して、炎をみるのが、心癒されると、言われ、マッチの炎はすぐに燃え尽きると、嘆かれたので、叔父さんが、「こんど、火が長持ちするライターを持ってきますね」と、お約束して、間なしに亡くなられたので、ライターは、間に合わなかったと、言うことです。

初めて聞く話でした。
安藤更正先生が、病に臥せって居られる時に、炎、(焔)を見つめられていたことに、感慨深い思いがあります。
仏の「ひかり」の造形の縁回りは、必ずや、焔が、表現されます。

いつかも、書きましたが、仏像の造形は、ろうそくの焔そのものです。

私は、大学生の頃、昭和40年代初め、吉井先生に連れられて、同級生達と、日吉館に泊まっています。40冊残されているという、宿泊者名簿に私や同級生達の名前が残されているのか、とても興味があります。今は、早稲田の会津八一記念館にあるようです。






私は、安藤更正先生に連なる、日吉館党の一員であり、家の叔父さんも、日吉館党の先輩であるとは、まあちゃん❗️確かに、破れ鍋に綴じ蓋、深いご縁に間違いなしです。

写真は、奈良の庭のカエルです。叔父さんが見つけました。