新海誠監督作品、「君の名は。」、私の物語のおはなし。 | 野坂ひかり official blog “Sing with Piano”

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ピアノ弾き語り“切実系”シンガーソングライター

映画の中の世界から抜け出ると、世界が違って見える事がある。


昨日は地上波テレビ初放送となった「君の名は。」を家族で見て、一人暮らしで帰って来ていた妹を駅まで見送りに行く時に、見上げた星空も、見慣れた風景も、駅のホームも、とても優しく美しく、いとおしく、綺麗な思い出に見えた。

物語の中の世界に入って、私達の体の中まで物語が届いて細胞まで染み入り、現実の元の世界に戻って来てもまだ、物語が私達の中に息づいている時、世界は違って見える。

見慣れた風景が、見上げた星空が、いつもよりいつも以上に輝いて美しく見える。何でもない毎日の繋がりが愛おしく思える。

――

時たま、私は私の中に在る物語に支配される。
物語はまるで手に負えない獰猛なモンスターのようで、あっという間に私の中身はそれに占拠される。
あれ、どうしよう、あれ普通に出来ない、ふつうって何だっけ、何かすごく、大切な人を、誰かを何かを忘れてしまっているような気がする。そうして心細くなって、あちこち中を探す、見慣れた景色に居るのに、普段の毎日なのに、そこはまるで異世界で、私の知らない日常みたいだ。
そこで私ははた、と気付く。
あれ、私はいつの間に迷子になったのだろう、と。
心細くて、寂しくて、誰かに何かに心は一直線で、“それ”を見つけようとする。
只一つの“それ”を見つけられたら、もう大丈夫なのだ。
寂しくても何とか押さえきれる、こんな風に上手く出来なくて取り乱したりしない、何かを、“それ”さえ見つければ、それを持っているのは、どうしても大切な誰かは何かは、何だっけ。思い出せない。
思い出さなきゃ、忘れたらだめだ、ここは何処だっけ、これは何だっけ、私は、あなたは、誰を忘れたくなくて、誰と出逢って、此処まで歩いて来たんだっけ、思い出さなきゃ、私の心を守ってくれる、壊れないようにしてくれたのは、一体、

そんな風に思い出す時、私は「君の名は。」の場面を思い返す、
ああ、こんな風に必死な気持ちだったのかと、あの二人、あの子たちも、きっと。

私の少し他人に言えない性質で、物語の中の登場人物の人間を、自分の中で実際の現実の人間よりも近く感じてしまう、と言うのが在る。

そう言う時、私の頭の中には絶えず映像が流れる、どっぼーんっと深い水の中に落ちて行くような感覚、まるで時間の波のような、水に落ちてしまう事は多くの物語の中で、異世界や別の次元に通じる一種のトリガーとして用いられる。

私の中の一種のトリガーは音楽だ、在る音楽の中に私はどっぼーんっと落ちる、落ちて落ちてすごく深い所まで行く、沈んでいって、見なければいけない景色があって、それにはいつも痛みを伴う。
何でこんなにずっと、痛いままなんだろうと思う、こんなに頑張って向かい合って来たのだから、少しは報われても良いものの。
これが私の体験してる実際の現実でなくて、創られた物語であったなら、ちょっとはそこの痛みをはしょって語られたりしたのだろうか。  

――

―ああ、ねえ、全然、大丈夫じゃないよ。
私はもうこんなのいやだ、迷子のままで、ずっとひとりで、どこかに行かなきゃいけないなんて、本当に嫌だ。いやなんだ。
そんな悲しい気持ちになりたくなくて、ずっと、一生懸命がんばって来たはずなのに。
もうどうしよう、ひたすら冷たくって、体が動かないや。
私ひとりで、もう疲れちゃったのかもしれない。

迷子じゃなくなりたくて、やっと見つけた暖かかった手を離したくなくて、色んな場所を歩いて、色んな景色を見て、一緒に歩いてきたはずなのに。

何処にも行かないで、って言えばよかった。
もうひとりはいやだって、泣ければ良かった。
一緒に泣けばよかったんだ、二人で、あんなに一緒に居たのに。私だけが、あなたの世界に入ってしまったのに。私だけが。わたしだけ。

魔法のような起こり得ない奇跡を、こわしてしまったのは一体誰だったんだろう、何だっただろう。

もう戻れない、もう取り返しが付かないからきっと、こうして私は最後に届いた紙飛行機を広げて、そこに書かれた言葉に呆然としている。

―これがあなたの答えなの?

そう聞きたくても、もうきっと声は届かない、届かないから、この場所で動けないまま呆然とするしかないのだ。
あれどうやって息してたっけ、歩いてきたっけ、歩いてたんだっけ、うずくまって時々訪れる夕焼けをひとりで眺めている。独りで。

終わらせたくなかった。
終わりにしたくなくて、こんなにがんばったのに。

――

観客が見たい、物語の結末は絶対にハッピーエンドだ、
誰もがみんな、バッドエンディングを望んで、お金を払って映画館の椅子になんて座らないだろう。


新海誠監督の「秒速5センチメートル」と言う作品が好きだ、「君の名は。」のずっと前の、10年以上前の作品を、私は友達から教えてもらって新海誠を知った。
この物語の結末はバッドエンドだ、それも、格別な。初めて見終わった時は悲し過ぎて、寂しくて穴が開いたようだった。
新海誠監督の言葉でも「終わってショックで椅子から立ち上がれなかった」と言う観客の感想が多かった、と言っていたから、皆私と同じ気持ちだったのだろう。

物語を見ていると言う事は、実際に近くでそれを体験してしまうと言う事だ、私たちは主人公の一番近くで、それを見、感じ、時には観客として、時には主人公として、客観的に、主観的に、物語に関わり作用してしまう。
自分の中身がそこで創られ、そこで作り替えられ、新しい何かに、まるで蛹が蝶に羽化する過程のようにどろどろに溶かされ、再構築される。
私たちは登場人物に自分を当てはめ、投影してしまい、その姿に自分を重ねて、物語の中で成長してしまう。
本当にすごい作品と言うのは、見終わった後と前とじゃ世界が違う、もうその作品を見る前には決して戻れないのだ。それくらい、物語を語る作品には、魂や時間、人生や経験が込められている。その中で生きてしまう。

――

初めて「君の名は。」を見たのは、映画が大ヒットした一昨年(もう二年前か…)2016年の夏の終わり、音響がやたら良いと全国でも有名な、地元の映画館だった。
「極音上映」と題された名前に相応しく、とてもダイレクトに映像と音が届き、物語は進んでいく。
「秒速」の新海誠監督だから見に行かなきゃ、と言うふつうの気持ちだった。


しかし物語を見進めていくに連れて、私はふつうの心持ちで見れなくなっていってしまった、
心の中に『 お ん な じ だ 』と言う信じられない声が響く。
―私、これ、知ってる…。
目を見開いて、動けなくなってしまった。

――

物語はコミカルな部分も含めた、男女入れ替わりと言う見ている人が楽しめる設定を生かした作りになっていて、絵も親しみ易く、背景は相変わらず素晴らしく美しく、音楽も声もストーリーも良い。
でも違う、
―これは、私の物語だ。
私は、そう思ってしまった。


その人の事を私は知ってる、とても親しくて、誰よりも近くて、でも何も知らない、でも本当によく知っている、他人に言われて見せられる証拠も無い、でも、確かに在った事。
失くしたくない事、忘れたくない人、忘れちゃダメな人、思い出したい、憶えていたい、ずっと、ずっと、あなたと一緒に居たい。

―あなたが、あなたの事が、会った事も無くても、証拠も何も無くても、私はずっと好きだった。

映画の中の三葉のその気持ちに、私は胸が壊れそうだった。

忘れない、忘れたくないとどんなに思っていても、記憶は消えてしまう、消えて無くなって思い出せなくなる、夢は終わる、いつかは夢から醒めてしまう、でも、それでも、
私も、あの物語のように、誰かの中で、一緒に夢を見ていた。ずっと、ずっと確かに一緒に居たのに。

貰ったものも、渡したものも、共有したものも、上手く思い出せなくなっていってしまう、このままだと、風化すると。

――

夢のような魔法は終わったんだよ、と繰り返し繰り返し何度も、よく知っているのと同じ声が歌う、夢はいつか醒めるように、魔法は消えてしまうんだと、当たり前の事がまだ、私は信じられない。

――

真っ白い何もない世界の中で、精神と時の部屋の様な場所で、私はひとりで途方に暮れているしかない、
消え失せたのなら、しょうがないのかもしれない。
でも、何とかならないのか、未だ私に出来る事はないのか、必死に探している頭が、冷たさで手足がしびれてだんだん上手く働かなくなっていく。

―こんなにがらんどうで、寒かったっけ。
今まであなたが居たから、誰かと一緒だと気付かないもんだな。

見上げると星空が見えるけど、綺麗すぎてとても見ていられない。
足を抱えて体育座りでうずくまっていた方がいい、このまま一体、どうやって生きよう。

だんだん、上手く泣けなくもなってきて、眠る意味も為さない。
仕方無いか、終わってしまったんだもの、ねえ、面倒臭くても、向き合って欲しかった。向き合いたかった。時間を懸けて、時間を費やして、何度でも。

うずくまっている私は、まるで夢の中から独りでずっと目覚めない、新海監督の「雲のむこう、約束の場所」のサユリみたいだ、とぼんやりほくそ笑んだ。
―私はああ言う女の子ヒロインが苦手だと言っておいて、結局自分に似てるから、同族嫌悪のようなものじゃんか。

このままずっと眠っていられたらと思う、夢の中でまた何か言ってくれないかな、
「あと二、三年は音楽やるんでしょ」とか「やんなっちゃったんならしょうがないと思った」とか、「本当に嫌なら手なんか繋がないよ」って、もう一度言ってくれないかな。
もう夢さえも、あの人と繋がってもいないのか。

『三葉、お前、夢を見てるね』と「君の名は。」に出てくる三葉のおばあちゃんは言う、私も、夢を見ていて、夢から離れられない、離れたくない、無くしたくないのに、夢は終わりだと、迷子のままで何処へでも行くんだと言う、もう、そんなのあんまりじゃないか。

観客は誰もバッドエンドなんか本当は見たくないんだ、心のどっかで、本当は期待してるんだ、この物語の、幸せな続きを見たいんだよ。

――

とてもじゃないけど自分と重なり過ぎて正気で見ていられなかった「君の名は。」で監督は、『行動することで、未来は変えられる』とメッセージを込めたんじゃないかと私は思った。

その為に、彼は、彼女は、三葉と瀧くんは、走る、走る、走った、何度転んでも、ふたりで。

私は伝えようとして、上手く伝えきれてなかったのか、物理的な距離が遠過ぎて誤解を招いたのか定かでは無い、
そう、ちゃんと会えていたら、あの映画の中で誰そ彼れ時のシーンのように、物理的に近い距離で伝え合っていたら、伝え合えてたらきっと、こんなに寂しい気持ちにはならなかったかもしれないのに。

現実は物語のように上手くいかない。

でも、物語の中に現実も宿っているはずだ、「事実は小説より奇なり」の様相で。

――


知る人ぞ知る存在だったかもしれない(知っている人は勿論知っていた)新海誠監督の「君の名は。」があれだけヒットしたのは、物語の終わりが、誰もがほっとするハッピーエンドだった事もすごく大きかっただろうと思う。

映画館の中でもう途中からずっと号泣していた私は、ラストの瞬間に嬉しくて安堵して、さらに涙が込み上げて、泣いた。
「秒速5センチメートル」で悲し過ぎてショックの一筋の頬を伝う涙ではなく、本当によかった、嬉しい、と込み上げて止まらない大粒の、胸を満たす暖かい、涙だった。

結局私も、苦手だと言った「雲のむこう、約束の場所」のサユリのように、夢の中でひとりずっと待っているのだ、
サユリがあの寂しい夢で飛行機が飛ぶのを、ずっとずっと待っていたように、
私も、まだかろうじて残っている夢の残像のような世界でひとり、もう一度紙飛行機が届くのを待っている。

私が紙飛行機の返事のために飛ばした、沢山の沢山の蝶々たちは、無事に辿り着いただろうか。
私の手紙で伝えきれなかった、言葉にならなかった行間の言葉まで、私は怖がりながら上手く伝えられたのだろうか。

――

彗星が地球に近付く周期のように、二人の軌道が重なる瞬間が、映画の中だけじゃなくて確かに在って、歌を聞いたその日は、夜中の3時まで帰ってからずっと、ずっと泣いていた。涙が止まらなかった。
伝えたい誰かが居て、それを伝える事が、こんなに怖い事だとは思わなかった。それが届いているのかも解らない、不安も。

昨日の地上波初放送で「君の名は。」をもう一度見て、作品から何かのシンパシーを確かに受け取ってしまったように感じて、今日もまた新しい歌を書くのだろうと思って、言葉を書き留めた。
向き合うのはとても、痛みが要る事だ。
本当に誰かと、向き合う事も確かめ合う事も繋がる事も関わる事も。

――


地上波放送の前に、新海誠展を見れた事も大きいと思う。
お正月特集で深夜放送の「言の葉の庭」「雲のむこう、約束の場所」も見たのだけれど、
作品の中で「あそこはあの絵コンテだ」とか「あの風景の元の写真はこんな感じだった」とか色々浮かんで、沢山解った事で作品の理解度が深まった気持ちだった。


新海誠展で一番好きだった展示は、「言の葉の庭」の中の雨の風景の描写を集めて、ひたすら映像が流れている場所だった。
途切れず沢山の画面に入れ替わり立ち替わり沢山の雨粒が、雨が降り続いていく、それが異様に心地好かった。ずっと見ていられた。
しとしとと落ちる雨の描写は“慈雨”のようで、心の隙間を濡らして琴線に触れてしまったと思う、色んな人の、心の中の。

雨があまり好きでなかった(高校の時は雨が降ると学校に行かなかった事もあった気がする、外に出ても引き返したりとか…)私でも、あの場所で、あの雨の映像を見た事で、雨が好きになってしまったと思う。それくらい、物語の魔法は作用するのだ。

そして共振と言うか、共鳴する作品とは何度もシンパシーを感じてしまうもので、
「言の葉の庭」もすごく自分の中で大切な作品になった。
とにかく、物語終盤のマンションのシーン(一番盛り上がるところ)で、入野自由ボイスの主人公が、雪野さんに私が言いたかった台詞を全部ぜんぶ言ってくれた…。
自分の気持ちと全く同じ過ぎて、ぐわっと涙が込み上げて、号泣していた。
ずるくて嫌いになりたい、届かなくても、救われていたんだって…。
良い映画だったなぁと思った。本当に。







その時に買った図録の中で、美術チームの方のインタビューが載っていて、「絵の中でウソをつく事も、美しさに貢献するならばいいと思って描いている」と言うのを読んで、私の視界に掛かっていたもやが一気に晴れた。


私の尊敬していた憧れだったアーティストも、「その曲を最大限に生かす為に、自分達の曲が最高に格好良く作用する為に、それが一番最良の策だと決心して“嘘を吐いた”んだ」と解ったから、とてもほっとした。

ずっと自分の中で、嘘を吐く事、それを信じていた事にショックや違和感が拭えずに苦しむ部分があったけれど、とても納得のいくクリエイターの志のような気持ちを感じられたから、「私がその人たちの音楽を選んで、信じて聞き続けて来た事は間違ってなかった」と思った。

信念がちゃんと宿っていて、だからその音楽を好きになれたんだ、今も救われていて好きなんだ、と肯定出来るのは、ただ大人の事情で誰かの言う通りにしているだけの、意思の決定権を何も持っていない場合と全く意味が違う。

こうしてクリエイターの本当に触れていると、自ずと本物の真実がちゃんと見えてくる。
無理矢理言葉にしなくたって。

――


今聞いているこの曲と向き合えるまでに、恐らく一年くらい掛かった。
私はどうしたいのか、私は伝え続けるのか、怒るのか受け止めるのか、未だ少し時間は在るから。私に見える彗星の軌道が重なる日までに、ちゃんと向き合って決めるのだろうと思う。

でも、何度でも喧嘩して、何度でも仲直り出来るよ。
そんなつもりで言ったんじゃなかったのにって、急につまづいて転んでも、同じ場所で一緒に転んで同じ所が痛くって、傷をお揃いにして笑い合えたり、手を差し伸べあって立ち上がる事だって、きっと出来るよ。

――

私の中の物語が言葉になってく、それが誰かに届いてまた、イマジネーションのリレーになるかもしれない。

私の物語は世界の秘密とちょっとだけリンクしていて、それがこんな風に他の作品の物語と共鳴して現れたりする。
これだから、人生は面白いと思う。
不思議で、与えられたものに、運命のようなデイダラボッチのどろどろに、逃げたって逃げられないまま。

私の物語は、フィクションでありノンフィクションでもあると思う、
一度私の中を通り抜けてしまう時、私たちは図らずも必ずその“目撃者”になってしまうから、フィクションでもあり、ノンフィクションだと。

とても美しい世界に呼応して、まだ世界に対する美しさや希望を諦めきれずに、私たちは、僕らは生きていく。

自分を肯定してくれる世界がまだ存在すると言う事は、宮崎駿の言う「この世界は生きるに値するものだ」に繋がると思う。

―私は私の流れ星を、紙飛行機を、ずっと待っている。

新海誠監督の作品に、出会えてよかった。
本当に良かった。

これは私の物語のおはなし。











2018.01.05 深夜
野坂ひかり