少し前から何故かこの言葉が内側で共鳴して
ちょうど山羊座の満月になる時間くらいに
まとまった呟き(眠れなかったともいう)
わたしたちはどこから来てどこへ行くのか
By ニーチェ
Who am I
「Who are you」あなたは誰ですかって、
私たちの日常の会話の中で使う可能性が
場合によってはあるかもしれないけれど、
普段なかなか「Who am I」私は誰かって聞かないものね。
下手したら、記憶喪失だと思っちゃうよね⭐︎
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(※今日はちょっと「下ネタ」表現があります)
Who am I...
私は、小さい頃「私はどこから生まれてきたの?」
ってよく親に尋ねていた子だった。
親は、性教育的な質問だと思い苦笑していて、
ある日、口の悪い父親が「お前はノォ!
わしの◯ンチ◯の先から生まれたんよ!」って、
面倒くさそうに言ったんだよね。
私は「何言ってんだこいつ!
(今だったらタントラ的真実な答えだというのは
もちろんわかるけど。っていうか
父に当時コイツとは思ってないけどね 笑)」
って思っていた。
ちっが〜う!😓って笑
そうではなく、私が聞きたかったのは私の存在
(魂)はどこから来たのかの答えを知りたかったんだよね。
小さい時から、
ニーチェのツァラトゥストラのような事(人間はどこからきてどこへ行くのか)を
考える子だったなーって、最近の朝に夢と目覚めの狭間で何かのメッセージのように思い出した。
(そうしているうちに、程なくしてシンクロが起きて
その答えのヒントになるであろうワークショップに気づいたら申し込んでた🐬)
私たちは、「どこからやってきて
何故ここに生まれたのか」を思い出そうとしながら、
「どこかへ向かって旅に行く」「自由」をもって
地球に生まれて、そして死んでいく。
死んだらどこへいくのか?
大切なのは答えを見つけることではなく、
問い続けること。
多くの人は、答えを「掴み取る」ために取り組むけど、
そうすると、そこで学びが止まってしまうんだよね。
その時その時が必要な答えで、
終わりのない(自分に対しての)無数の答えと出会う旅。
下手したら変な宗教かと思われるかもしれないけれど 笑
生きていること自体、言ってみれば宗教みたいなもの
自分独自の
あ、でも崇拝する偶像は無いので、マイ哲学だよね。
みんなにもある?内なるマイ哲学。
因みに父親の父、わたしの祖父の回答はこう。
「お前がカカァのお腹に入る前はなぁ、
葉っぱの上におったんよ」
だった。
今思えば、この祖父もタントリック的見事な回答だった。
さすがお寺の子 笑(って関係ないかもだけど)
わたしも少なからず似たような血をもらっているようだ。
「わたしは誰か」
「わたしたちはどこから来てどこへ行くのか」
こう問うということは、小さい頃から生きにくいと感じていた私がいたんだと思う。
けれど、生きにくいと感じる「痛み」は、
私らしく生きるための味方であり友達だと知った時は、
衝撃だったと共に安心感がやってきた。
わたしたちは、日頃は自分の「痛み」を隠したり、感じないように追いやろうとする。
「痛み」があるのに無いように見せたりね
そうやって、「痛み」と不毛な闘いをしている(プライドという形で)。
だけど、自分の「痛み」と闘うのをやめることで、その「痛み」からギフトがやってくるということも、わたしは深いところで知っているの。
闘うのを辞めるのは勇気がいるけどね
自分のタイミングとペースで痛みと向き合う(友達になる)ことで、
私たちが、「痛み」から少しでも自由になれますように
山羊座の満月だけに、ロイヤルブルーのメッセージをつらつらと思ったまま書いてみた。
最後まで読んでくださってありがとう