本当の意味での殺処分ゼロを目指して | そらねこカフェ・店主ゆぎえみ

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日々の思いを書いてます。



秋のある日、犬猫合同の譲渡会が行政と一緒に行われた。最近は新聞やテレビでも取り上げていただく機会が多くなり、譲渡条件や、譲渡した後のチェックも厳しいことが浸透しつつあるためか、希望者側の心構えも高い。

譲渡条件の主なものは、

①終生飼育。


②飼えなくなった時の請負人がいること


③先に飼ってる動物がいる場合の飼育環境等のチェック(近隣に迷惑をかけていないこと、また動物を飼える環境下にあること)先に飼ってる動物の不妊去勢手術がなされていること。

④その動物の習性を理解したうえで、家族として迎えられること。(ケージに閉じ込めっぱなしにしない)


⑤お届けは譲渡希望者のご自宅まで、担当が行かせていただくことを了承してもらえるか、などがあり、一見うるさいチェックではあるが、現在、日本の愛護団体のほとんどが当たり前に実行している項目である。




お届けに伺った時に初めてわかることのひとつに、ケージに猫を入れっぱなしにしたままにしている人がいる。


近隣への猫の問題が絶えない昨今、苦情トラブルへの行政指導の基本は、とにかく餌をやらないことと、餌をやったら自分の猫として室内で飼育すること、この2点である。


この傾向は益々強くなっているが、棄てられて外で育った猫や、外で生まれ育った猫の中飼いの難しさは、関わった者でないとわからないのかもしれない。

そのあたりも含めてのことかもしれないが、完全ケージ飼いをしている家に出くわすと悲しくなる。何かが違う。理解がちがう。

家人がいる時も出さない。毛が散る、机に乗るとの理由ではあったが、何のために飼っているのだろうか?鑑賞用なのだろうかとも思ってしまう。疑問だ。それなら飼わないで欲しい。



それに関して今、まさに直面しているお宅がある。


譲渡会に来てくださり、2匹目が欲しいと、ご家族みんなで一匹の子猫を選んでくれた。

ここまでは何の問題もなく、良いご縁だと喜んだ。しかし子猫を連れてご自宅に伺ったら、先に飼われている猫は、トイレと寝床だけがはいった狭いケージの中に静かに横たわっていた。身動きできるスペースはない。しかし子猫の時から一度も出したことがないとのことだったから、遊ぶという感情も、動くという欲求も捨てているように感じた。猫の習性としてとても重要なのは上下運動である。また何より、犬も猫も感情が非常に豊かで頭も良く、人と一緒に生活する生き物だと私は思っている。小さなケージの中にトイレと寝床があるだけの状態にして飼っているその方に、かわいいから2匹目が欲しいと言われても、渡せるわけがない。理由を説明し、改善をお願いしても、それぞれの人の持つ価値観のラインは本当に難しい。意見が一致しないままに、毎日くる催促のメールを断りつづけているのがなかなか苦しい。閉じ込められっぱなしの子も気になるから、関係を断ち切る勇気もない。

私たちが関わる動物たちは、ほとんどが一度人間に飼われていて、棄てられた経験のある子たちだ。風邪をこじらせている。傷をおっている。怯えている。それでも助けて欲しいと人の前に姿を見せてくれた、縁あったものたちばかりだ。だからこそ、これからは幸せになって欲しい。しかし、この幸せと思う価値観も違うのかもしれないが。



このうるさいチェックを、本当に責任を持って飼いたい人は当たり前のこととして受け止めていただける時代になりつつあることがありがたいが、実際に行動してみると上記のようなトラブルが沢山ある。また、基本的に、まったく理解していただけない方も多い。「たかだか犬や猫にうるさいことを言うな」と罵倒される。「不要なものや適合しないものは殺していいじゃないか。それが何故悪いのか、豚や牛の肉を食べるだろう」と言われ、「害獣は殺すことが許されているだろう」とたたみかけられる。「お前たちのような団体が快適な生活を邪魔するんだ」と大声で怒鳴られたこともある。そんな時はどんなに言葉を尽くしても伝わらない。伝える術がない。感情論だけではこじれるだけだ。ただ、人として人間としてどうなんだろうかという疑問は残る。手術して、もう増えることもなく、その繋がらない一代だけの命も許されないのだろうか?その思いの明確な位置付けと説明が、感情論以外で私にはできない。裏を返せば、私たちの考えや活動を罵倒する人たちの気持ちにまったく共感はできないが、言ってる意味を理解出来る部分もあるからだ。



「人はみな価値観がちがう。けれど最低ライン、人としてどうなんだろうか」という漠然とした思いに動かされているだけの私は、いつも困惑して黙るばかりだった。



今回の譲渡会では一時間という短い時間だったが、東京で愛護活動をなさりつつ、4軒の動物病院長である、飯塚修先生が講演をされた。テーマは、『本当の殺処分ゼロを目指して』というものだった。全国的に行政による殺処分を減らそうという動きは広がりつつある。しかし保健所での殺処分は数字上なくなっても、理由は引き取らないからとか、行政が積極的な介入をしないからということもある。結局、形通りの指導を受け、持ち帰られた動物は、飼い主の手によって誰に知られることなく遺棄されるか、殺されている。私は行政に本当のゼロの意味を一番考えて欲しくて、話せる機会は逃さないようにしてきたつもりではあるけれど、やはりどんなに言葉を尽くしても、心が交わらないことばかりだった。しかし今回の飯塚先生のお話はわかりやすかったと思う。9割が理論的で、統計的な説明だった。手術して増やさなければ必ずのらねこは少なくなる。あとは飼う方の意識を高めるなど、数字で示した。そしてほんの一割だけ、いや、もう少し少ない割合で、飯塚生が声のトーンを高くしてこう言った。『地球の中で、人間は一番強いと私は思う。強いものが、弱く虐げられ
ているものを守ろうとしたり、殺さずして共生することを考えるのは当然のことだ。寒ければ寒くないか気にかけ、痛くないか、腹はへってないかと思えないことは恐ろしいことだ。ましてや日本は先進国と言われているのだから、もの言えぬものを守ることは当たり前で、人としての大切な基本だと思う。それは、好きだからとか、嫌いだとかは関係ない次元の話だ』
気持ちに光が射した気がした。少し背中を押された気がした。そして少し元気になれた気がした秋の日だった。