そらねこカフェ・店主ゆぎえみ

そらねこカフェ・店主ゆぎえみ

日々の思いを書いてます。

猫のボランティアチームそらねこ会です。 日々の活動や思いを書いています。 不思議な空間、そらねこ会アジトより発信しています。 猫のこと そらねこ会アジトのこと 不思議空間 癒し空間 隠れ家ダイニングカフェ・そらねこ屋
ねえ、お母さん、月見える?

見えるよ。


綺麗だね。




耳に焼きついてる母の声は、今もいるように、かえってくる。


良く見えるよ。って。  





私が実家から帰ろうとすると、もう行くの?そう聞いた。

正直、鬱陶しくてならなかった。
毎日会ってるのに。

遠くに離れていて会えない親子だっているのに。


私は毎日帰宅前に様子を伺いに実家に寄った。

湯呑みに、白湯を淹れておいてくれる母。

私が手をつけないと

お湯のまないの?って。


そんなものいちいちいらないからって、口に出してしまったことがあった。
そんなことばっかり。

少しずつ感じた最後の時を、決して派手じゃないことをしながら私との時間を持ってくれようとしていたのに。

本当に無くさないとわからないことがある。あの時だっていつだって、頭ではわかっていたのに。
もしなくしてかなかったら、今もわかっていないんだろうか。

どうにもならない大切なもの。

欲しくて欲しくて、もう絶対手に入らないもの。


恋しくて恋しくて、どうすればそばに行けるのかと、ネット検索したりもした。

そうするとね、必ずでてくる命の電話の番号。


大丈夫。
決してそんな道をたどらないから。


お母さんに会いたいだけ。

ありがとう。
ごめんねって言わせて欲しかっただけ。


親が先に行くのが当たり前だなんてわかっている。

逆じゃなくてよかったじゃないって言われても、そうですねって言うしかないから、もう誰にも話さない。



理屈じゃない。
私がお母さんに会いたいだけ。


恋しくて恋しくて、ただ恋しくて、でもわかっている事はもう戻れないこと。
お彼岸だからなのか、お母さんの事ばっかり考えている。

誰にもいつかくる別れなのに、寂しくて、恋しくて、まだ現実が受けられない。

車に乗って、何か珍しい景色や、思うことがあるとつい話しかける。そうすると本当に答えが返ってくる。


子供の頃、お墓参りに行った時、振り向くと霊がついてきちゃうから
お参りが済んだら、家まで後を振り向かないで帰るようにって言われたことがある。

私はなんだか怖くて、決して後を振り向かず、家までまっすぐ戻った。


でも大人になった今、何度も何度も振り向きながらお墓を後にする。



何なら、後ろ向きで歩いてみたり、ついてきてくれて、何か言ってくれるなら、それほど嬉しい事は無い。


コロナ禍でお別れがきちんとできなかったから、こんなに辛いのだろうか。

有り余る程にあった、たくさんの時間を粗末に過ごしたから、これほど後悔するのか。

伝えられなかった思いがいっぱいありすぎて、お母さんに会いたくて仕方がありません。


人は、失って初めてわかると、いやと言うほど言われてきた。自分でもわかりきっていたことだったけれど、頭でわかるのと、心で分かるのは全く違うものだった。


そして、母がどんな思いでいたのか、何を求めていたのか、もう何もできなくなった今、嫌と言うほど、それがわかる。


大切な人をまだ失っていない人はうらやましい。でもきっとわからないだろうなぁ。

私もそうだったから。


 母の後を追うように、父がすぐに行ってしまいました。


 私の予定としては、介護の状態にあった父を母と2人で見送り、それから少し、ゆっくりしたいと思っていました。母と一緒に。

 全く逆になってしまった現実に対して、何よりショックを受けたのは父でした。

 私が実家から帰るよって言う時、必ず「あれ、あれどうした?母さん」と言う。「死んじゃったじゃん、先行くよって、今頃おじちゃん達と一緒に天国で楽しくやってるよ」と。私は何とか泣かないように伝えました。それでも父は毎日、毎日、事あるごとに私に言うもんだから、私も切なすぎて嫌だった。あ、また言うな!って、わかる瞬間に、他の話に変えたり、「じゃあね」って、大急ぎで帰ったりする。

 わかっている癖に、100万回言ったら、もしかしたら、一回だけでも奇跡が起きて、「もうすぐ戻るよ」とか、「庭にいるよ、呼んで来ようか」とでも言うことを期待しているのが良くわかりました。


 腹立たしいやら、切ないやらで、でも介護に必死で過ごしたわずかな月日の後、意識も朦朧として、お医者様にもあまり長くないと言われる日がすぐにきました。

 旅立つ日、それでも何かを一生懸命言おうとしていることが母の事だと分かりました。100万回目ではなかったけど、私はお父さんに、言えることにほっとした。沢山答えてあげられる。お父さんが一番いってほしい答えを。

「お母さんに、もうすぐ会えるよ。こっちに来るって」そういった時、表情も作れない位衰弱していたのに嬉しそうだった。

 やっと言ってあげられた。

「お父さん、お母さん来るよ。美容院から帰ってくるよ」「詩吟の教室から帰ってくるよ」「庭の草むしりなんかしなくてもいいのにね。もうやめなって、言ってくるよ」「ご飯食べようって呼んでくるよ」「ゆりかに会いに行ってるから、そろそろ戻ってくるよって」

 やっとお父さんに言ってあげられました。



母が逝ってから、父の落胆ぶりは激しく、見ていられないくらいでした。

100万回聞いたら、一回くらい、「お母さんは、ちょっと美容院いってるよ。もう時期帰るよ」とでも言うかと期待しているかのように、おっかさどうした?って、毎晩毎晩聞くもんだから、私は怒ったりしていました。


無視して帰ろうとすると、ちょっとまて、あれどうした?かあさん。

とか言って。分かってて聞く。

お父さんの弟、私にとってはとても親しくしている叔父が、見かねて父に言ってくれたことがありました。



「兄さんばかりが切ないんじゃない
姉さんが、急に逝ってしまって、みんな悲しいんだから、我慢しろ、な、」って。


叔父は、子供を諭すように優しく言って、父は子供のようにうなずいていました。



もう、お母さん、迎えにきてあげてよ。なんて、私は満月の夜、空に向かって言ってみたりもしました。


私だってどうしようもなく悲しいのに、父の前ではそんな姿を見せられず、父の手放しで落胆する様子をみながら月日を送っていることが、あまりに切なくどうしていいかわかりませんでした。

母の生前、父は、具合が悪くなって入院することがあっても、あっという間に良くなって退院してきました。それは母のもとに戻りたくて、母に会いたくて、復帰してきたんだと思います。だから母の居ない今、また具合悪くなっちゃった時は、もうその力がなかったのかな?またいつものようにすぐ元気になると思っていたのに。



5ヶ月目の、母の月命日に急に意識がなくなり、はっきりしないまま、本当に眠るように、導かれるように逝ってしまいました。

あんまり恋しがるから、仕方なく母が迎えに来たって感じでしたが、父の魂はほっとしているみたいでした。




父には申し訳ないけど、お父さんにお願いしたい。
私は、まだお母さんが恋しいです。お父さんに伝えて欲しいです。


お父さん、散々お母さんを困らせたり心配させたりしたんだから、今度は大事にしてよね。


お父さんはいつも窓から、高速道路や自分が関わったテーマパークを見ていました。


私も実家の裏から父が眺めていた景色を時々見ます。ちっとも変わらない景色です。ただ父と母がいない、いつか来るだろう日々が急に来た2022年でした。



普通に当たり前に続くと思っていた幸せが、当たり前ではなかったと、お父さんとお母さんにこれでもかと言う位思い知らされました。



私は2人の娘であったことを誇りに思っています。今はそれだけしかわからないけれど、いつかこの気持ちが何かに結びつくのかな?お父さんお母さんありがとうございます。
丈夫だった父が弱った時、母は介護保険などのサービスを受けながら自宅で過ごしてもらいたいと言った。私もそうしてあげたいと思った。しかしそうは言っても母も高齢なので、負担は当然私にかかってくる。だからうまくいかない時間のやりくりに追われて、母に当たり散らしてしまったりした。後悔して次の日に謝るのだが、私と喧嘩したことなど全く気にしていなくて、またそれが腹立たしかった。今思うと娘との喧嘩なんてどうでもいいんだと思う。どんなに意気込んでも、母から生まれてきた私は、所詮母の子供であり、その愛を超えることなどできないのだと思う。今ならわかる。
 
 コロナ禍で、施設にお世話になったり、入院したら全く会えなくなる。友人たちの何人かに、そのまま親に会えずに後悔した話を聞いた。だから私は、母と一緒に父をフォローていきたいと思った。
 父と母は基本、非常に仲が良い。寡黙な父と、子供のようにはしゃぎ、まっすぐに向き合う母。そんなバランスがうまくとれていた。年齢的にも充分高齢である母ではあるけれど、おっちょこちょいと言う言葉が当てはまるような、少し子供っぽくて可愛らしく、どうしても元気にみえてしまい、あちこちの体の不調を訴えていたが、そのSOSを無視していた。なにより、気持ちの根底に、母はずっと元気でまだまだずっとそばにいてくれると言う全く意味のない確信があったからだった。
 ある日いつものように父の様子を見に行ってみたら、母の方が明らかにおかしかった。お世話になっているかかりつけの先生に相談すると、すぐに救急車を呼ぶようにとの事だった。「私は入院しないよ。救急車は乗らない」抵抗する母を説得して病院に入ったときにはもう夕方だった。検査をしてもらい入院となった。病名は間質性肺炎。外からのウィルスとか菌とかからではなく、自分の体の中で作り出してしまうので、原因も治療法もわかっていないものだと言う。母の場合は突発性で、肺の半分以上にひろがっていた。私は本当に驚き絶望した。母には何の恩返しもしていない。小さな時から叱られた事は無い。私がやりたいと言う事は何でもやらせてくれたし、背中を押してくれて反対されたと言う事が無い。父の介護をするようになり一緒にいる時間が長くなると喧嘩と言うより私が一方的に反抗ばかりしていた。けれど私は母が大好きだった。いつかその時が来て父を見送り、母だけになった時、ゆっくり温泉に入ったりご飯を食べに行ったり、父に尽くしていた母をねぎらい、母の人生の愚痴を聞いたり、でも今、幸せだねって言ったり、そんなビジョンを持っていた。おこがましい。たとえ親であっても、人の命に対するビジョンなんておこがましいにもほどがあるのに。
 
 入院して6日目で母は、あっけなく逝ってしまった。少しコロナが緩くなった時とは言え、そばに寄って手をとって話すことはできなかった。
 ここ1年、父の介護があるのでいつも実家に行った。そこには必ず母がいた。また明日来るのだから、帰る時しつこく見送らないでくれと言ったのに、母はいつも鬱陶しい位、庭に出てきて見送ってくれた。2人で月を見た。三日月が満月になるまで、何回も続くと疑わなかった。母の方が1日1日の大切さをわかっていたんだと思う。私はどんなに求めてもこの鬱陶しさをもう二度と手に入れられない日が来ることを頭でわかっていても心に落ちなかった。毎日来るのにいちいち見送らないでと悪態をつき、プンプンしながら帰っていた私。今は恋しくて恋しくてこれが夢であってくれたならと、泣く力さえもない。私はどうしてこんなに愚かなんだろう。
 病院から戻ってどう父に伝えればいいのかひどく迷った。「検査入院だったのに、なんだか急に眠ちゃって、先行ってるね、お父さんに伝えてって言ってすうーって逝っちゃった」と言った。父はしばらく表情も変えず固まっていた。そしてずっと泣いていた。父がこんなに号泣するのを初めてみた。
 
 親をなくすと言う事は本当に切ない。母を亡くすと言う事はこれほど体の力が抜けてしまうものなのか。私は文章書く時に時々人の死に触れた事がある。この悲しみと、絶望と恋しさとどうにもならない切なさをわかって書いていたのだろうか。
 
 
 お母さん、私はお母さんがどれだけ好きだったか、どれだけ大切だったか伝えることができていたかな?どれだけ感謝していたか。今はただただ恋しいです。





 90歳を目前にして父がだいぶ弱ってきた。幸いにして私は実家の近くに住んでいるので、毎日のように様子を見に行くことができる。
 若い頃はバリバリ働いた父だった。村のために村のためにと自然に口を突くような人だ。夕方は軽トラでゆっくり村の中を見て歩くのが日課だった。その時会った誰かと話したり、倒木や落石なども気にかけていた。だから外に出られなくなった今は、もどかしいんじゃないかなと思ってしまうが、意外とそんなこともないようで、父なりにやり尽くしたとでも言うのか、穏やかに日々を過ごしていた。
 しかしある日の夕方、1人で玄関に座って私を待っていた。車に乗り、行きたい所があると言う。認知症の始まりだろうかと思ったがそうでもなく、本当にどこかに行きたいらしい。私はとりあえず介助をしながら私の車に乗ってもらった。

 行きたいところは特別なところではなかった。以前やっていた、山の斜面にある桃の畑の跡地(よくぞこんなところに桃の木を植えたものだと感心する位急斜面)だった。ここから見る村は、ここに住んでいることを誇らしくなるほど美しかった。夕暮れに差し掛かり、少し暗いオレンジがかった光に包まれ広がる景色は、住宅が増えてきたとはいえ、ほとんどが田んぼと畑に占められている。白い花やピンクの花が土手を囲むように咲き始め、田んぼの準備が始まっている。美しいとはいえ、こんな山の中の村。先人たちは大変な苦労しながらここを守ってきたんだなとなんとなく感じた。高速道路も見える。今までは遠かった都会も、高速道路のおかげで格段に近くなった。それと同時にただの田舎の村ではなく、都心に近い場所として注目もされ始めた。新幹線も近い。「いいところだね」と私が言うと、父は何も言わずに、それでも満足気だった。

 これで帰るのかなと思ったら、中込(20分ぐらい離れた町)の方に行きたいと言う。さすがにもう夕暮れだ。帰ったら7時を回る。母に電話をすると、夕飯だから帰って来いと怒っている。しかし父は譲らない。仕方ないのでそのまま父の行きたいところに向かった。昔頻繁に桃生産者の会議を開催したホテルだった。全国から関係者が集まり父はそれをしきっていた。今はもう寂れてしまったホテル。中に入る?と聞いてみても「入らない」と言ってホテルを見上げていた。「古くなったなぁ」と言うので、「お父さんだって十分に古くなったよ」と言ってやったが、笑いもせず、懐かしそうに見上げたままだった。さあそろそろ本当に帰りたいと私は思った。しかし父はまだ帰らない。「了さん家に寄っていく」と言ってまた譲らないので仕方ないから父の友人である了さんのお宅に向かった。時間はもう7時半。絶対ご迷惑だと思いつつも、了さんちの前に着いた。了さんも90歳を超えている。今どうされているのかさえわからない。父はしばらく明かりのついている了さんの家を見ていたが、「さぁ、家に帰るだ」と言った。私はほっとして車を家へと走らせた。「どうしたの、今日は?」と聞いてみたが「どうしたってこともない」と一言だけで、帰り道は何を思っているのか何も話さなかった。「満足した?」と聞くと「うん」と本当に満足げだった。こんな時間に連れ回された私は少し意地悪な気持ちになり、「お母さん怒ってて中に入れてくれないよ、鍵かかってると思うよ」と言うと急に不安そうな顔になって、私はおかしくて、父が可愛らしくて、笑いをこらえるのに必死だった。だまったままの帰り道、なぜだろう?私も満足感でいっぱいになってきた。
 そんな私のわびさびな気持ちをよそに、案の定、母は普通に怒っていた。「こんな時間に何やってるの?」といいつつも、中に入れてくれたからよかった。父は明らかにホッとしていた。そしてそれからは何事もなかったように、パジャマに着替え食事をし、父はベッドに横になった。全く迷惑な話だ。そして何ということもない時間だった。だけどかけがえのない時間だった。実家を後にして車の中でなぜか涙が溢れて仕方なかった。幸せだと私は感じた。こんな時間は誰にでもきっとあるのだと思う。私の父はたまたま農業にいそしんだ人間だったからこんな流れだったけれど、本屋に連れて行ってくれと言った友人の父親を思い出した。何軒も何軒も本屋さんを回ったそうだ。だけど足が不自由だったため本屋の中には入らない。本屋の明かりを見て満足したって言っていた。そんな時間を一緒に持てたことはやはり幸せだと思う。見逃なければ、きっと誰にでもいろんな形であると思った。

 大好きな俳優が主演を務めた映画が、日本でも世界でもアカデミー賞を獲った。タイトルは「ドライブマイカー」。車で何でもなく街を流すそんな作品だった。シュールで、ロマンチックで、素敵な作品だ。授賞式の時に、主演の俳優が、「映画を観て、感想を言い合って、こんな幸せが普通にあるような世界に早く戻れば良いと願う」と語った。
 夕暮れの父とのドライブは、本当にくだらないことかもしれないし、聞く人によってはつまらないことだと思う。でもこんなどうでもいい普通の日常が幸せなことなんだとしみじみと思う。今、戦争が起きている場所でも、そんな風に生活していたのかもしれない。それが突然悲惨な酷い悪夢のような現実に投げ飛ばされる。大切なことを見逃さないようになんて言っている時間も考える時間も何もない。「だからこんな幸せは普通にあると思ってはいけない」なんて言うことも聞くけれど、何を望むわけでもなく普通にあってほしい。ささやかかも知れないけれど、この地で頑張った父を誇りに思う気持ちと、誰にでも、それが普通であることを心から願った。


私たち夫婦には子どもがいなかった。



私はそれ程、子どもが欲しいとは思わなかったけれど、夫はどうだったんだろうかと思ったりもしたが、聞いたことはなかった。

夫は、小さい頃から動物を飼ったことがなかったそうだ。そのまま、動物に興味も縁もなく大人になった。


そんな彼が猫ボランティアにどっぷりはまった私を嫁にしたものだから、我が家にはいつもいつも沢山の猫が保護され、もらわれ、病気の猫が静養していたり帰ったり、嫌でも猫だらけの生活に陥らされた。

特に文句も言わない代わりに、それ程協力的でもなく、しかし最低限のフォローはしてくれていたと思う。




縁あってうちに来た猫たちへの彼の接し方はぎこちなく、しかし微笑ましく、私はそれを楽しんでいた。





ぴ吉と名付けた茶トラの猫は、子猫の時に来た。



物凄く我が強く聞き分けがなく、暴れん坊で、2回の譲渡にも失敗した。


2回とも返され、3回目はあきらめ、うちの子になった。


しかしぴ吉は暴れん坊で我が強くわがままでどうしようもないように見えて、とても頭の良い猫だとわかった。


不思議な相性ってある。

だからだめだとおもったら無理する必要はない。

私の家とぴ吉はたまたま相性が良かったのかもしれない。


ぴ吉は人の言葉を聞き分けるし、生活のリズムが合ってくると、それ程大変でもなくなってきた。

ぴ吉自身も大人になったんだなきっと。


1年経つ頃には、普通に家族になった。
当たり前かもしれないけど、家族。いて当たり前。


私の家は茶系の家具が多いから、ぴ吉は同化していた。



ぴ吉は夫に良くなついてて、ぴ吉と夫を見ながら、もしも子どもがいたら、夫はこんなふうに子どもに接するんだな。。なんて重ねたりしていた。



私の家の前に父の畑がある。木にも登れる。だから最近になって、少しの時間、外で過ごすようになった。


今日も夕方の10分くらい、ほんの少し、外に出た。


私が用事で出かけ、帰って来てから入れようと思った。本当に10分。


び吉は木戸の所で車に跳ねられ、死んでいた。


今、たった今、死んだんだってわかった。


家の中に運ぶまでの数メートルも、ドロドロとした血が、口から止まらずに流れていた。



私はほんの一瞬で私の大切なものを失った。ひどい悲しみと、夫の愛しているものを守れなかった申し訳なさと、ぴ吉が当たり前にいてくれた日々がもう二度と戻らないんだと恐ろしくて、泣くこともできなかった。


ぴ吉はあまりに当たり前にいたから。


威張ってたし、わがままだけど、そっと寄り添うような雰囲気を漂わせていた。

ぴ吉にかぎらず猫はそんなものだと思う。



夫が帰って来た。


「もう少し一緒に居たかった」とだけと言って、いつもつかっていたブラシでぴ吉をとかした。それから、子猫の頃、よく遊んだ夫手作りの玩具を紙で作ってやった。


誰にも話したくなかった。


話す気力もなかった。


誰にも言いたくない。

ぴ吉がいないなんて言いたくない。



だけど、小さいときからぴ吉を診てくださってた獣医さんと看護師さんに話しに行った。この時点で私は錯乱している。どうかしている。病院には大変なご迷惑をかけた。


けれど、私が驚く程、看護師さんが驚いてくれた。



泣けない私の代わりに泣いてくれたのがわかった。


先生にも状況をお話して、即死だったか聞いた。苦しまなかったと思うって言ってくださった言葉は救われた。


ぴ吉は幸せものだね。


先生にも看護師さんにもすごく感謝している。
ありがとうございました。


私はまだ泣けない。

だからいっぱい思い出して、ありがとうって言って眠りたい。

ぴ吉、大好きだよ。うちの子になってくれてありがとう。


また、おかあちゃんとこ来てね。



おとうちゃんもまってると思う。


色がかわってもぴ吉だってわかるよ。



ぴ吉は神様がくれた私たちの子どもだった。










日が代わり、少し落ち着いた私は夫に言った。


「よく、虹の橋の向こうで待ってるって言うけど、また会えたら、ピ吉、怒られると思って目をそらすかな?」


「置いてかれた僕らがどんだけ寂しい思いしたか、ちょびちょび飛び出して事故にあっちゃってさ、やばい~怒られる~とか、思ってるな」

少し笑った。
そして思った。


本当に我が子をなくしたなら、たった一晩で、こんな会話をしながら笑うことはできないだろう。


どんなに寂しくても辛くても、やっぱりぴ吉は猫なんだ。



それでいい。

けれど私にしかわからない私の子供。


それでいいと思う。


まだまだぴ吉の気配が消えない家の中で、大切なものを突然失う切なさと、当たり前に続くことなんてないんだって思い知らされている。











自宅近くにあるコインランドリーで、洗濯の乾燥のあがりを待つ間に、オカリナを吹き始める男性がいる。私は、たまにしかコインランドリーを使わないのに、かなりの頻度で遭遇するのだから、きっとほぼ毎日オカリナの演奏会は行われているのだと推測される。


時間は決まって午前の10時から12時あたり。


椅子は五つあるが、大概の人はそこで待たずに、洗濯物があがった頃を見計らってやって来る。だから誰も居ないことが多い。


オカリナ奏者はどうしても誰かに聞かせたいわけじゃないらしい。自分の洗濯物を洗い、仕上がるまでをオカリナの時間と決めているようだ。私が入って行くとサッと止める。それでも私が知らん顔で居座ると、ピッ、ポーッって、ちょこちょこ音を出しながら様子を伺う。そして、私がまったく気にしていないと判断すると演奏が始まるのだ。


年齢は70歳位。トレンチコートと山高帽を被り、オカリナを吹く。場所さえ違えば、素敵なミュージシャンだ。


レパートリーは多い。定番の「ふるさと」から「鯉のぼり」「シャボン玉」などの童謡は、哀愁いっぱいに奏でる。私の一番のお気に入りは「東京ラプソディ」だ。


一見、しっとりしたオカリナのイメージに合わないような気もするが、テンポ良く、ご自身で踵を慣らしたりして、軽快に演奏する。これはかなり楽しい。「はーなーのみやこ♪」って部分はつい、「みやこ!」と合いの手を入れたくなるのが私の悪い癖だ。相手がどんな人なのかわからないし、また、いつものように面倒に巻き込まれてもいけない。そう自分に言いきかせて、携帯を見ている振りをしながら我慢していた。けれど、ここまで上手なんだから、駅前の公園とかでやればもっと怪しさも薄れるのに。ケーブルテレビなんかに取り上げられたりして、ますますファン(今のところ私ひとり)も広がるだろうにと、残念に思った。



しばらく晴天が続き、コインランドリーには行かなかったが、毛布を洗いに久しぶりに行った。当然、オカリナ奏者に会えるつもりで、午前中を狙って向かった。午前中なら必ず会える。けれどオカリナ奏者はいなくて、その理由はすぐに分かった。【待合室への楽器の持ち込み、音出しはご遠慮ください】とパソコンで綺麗に打った貼り紙がされてあったから。



当たり前と言えば当たり前かもしれない。無理もないと言えばそうかもしれない。けれどつまらないものだと少し腹立たしく思った。つまらない。本当につまらない。


あのオカリナ奏者は傷ついただろうなあと思う。


勇気を出して、話しかけたら良かったろうか。春なら友人主催のイベントが沢山ある。だから、イベントにお誘いすることもできたかもしれない。もう会えないと思うと、少し寂しい気がしたし、そして何より、つまらない。











書類のコピーをするために、コンビニへ行った。量が多いから時間がかかる。私の性格上、後ろに並ばれたら、焦ってぐちゃぐちゃになってしまう。だからいつでも、コピー機を2台置いてある店に行くことにしている。
その日は、作業がさくさく運んで良い気分だった。終わったらコーヒーでも買って帰ろかな?などと考えていたその時、二十歳を少し過ぎたくらいの、若い若いお母さんが、背中に子どもをおぶった状態で入ってきた。そして背中の子どもにものすごく怒鳴っていた。「車で待ってろと言っただろ!なんで付いて来たんだ」「落ちるだろ!あぶねえんだよ」背中から落ちる危険を回避しようとしているのだから、子どもを危ない目にあわせたくはないと思ってはいるのだろう。けれど罵声は続いた。「てめえがいるから重たくて何もできねえだろ!何で車にいねえんだよ」2、3歳と思われる女の子は、「ママといたい」と小さく言った。暑くて暑くて息苦しい夏の日。ただでさえイライラする。そこに子どもがおぶさってくれば尚更かもしれない。コンビニのチケット販売機で何かのチケットを買おうとしていたらしい若い母親は、おぶさった子どものために両手が上手く使えずに、購入を諦めた。「てめえのせいで何にもできない。誰のために来たと思ってんだ!」女の子は自分の名前をつぶやいた。母親は被せるようにまた怒鳴った。「てめえなんか関係ねえんだよ!○○ちゃんのお
誕生日のチケットだろ!」女の子の姉へのプレゼントだと想像した。コンビニの広さだから、罵声は店の隅々まで響き渡っているのも気付いていたはず。それでもイライラとした気持ちの方が勝るのか、日常すぎて当たり前になっているのか、店を出るまで、小さな子どもに言っているとは思えない程に口汚く罵っていた。
背中の子どもがどんな表情をしていたか見ることも、想像もしなかったと思う。女の子は、泣きもせず、力の無い目をしたまま青ざめているだけだった。それでも少しの間、車に置き去りにされることを拒み、母親の背中にしがみ付いてきた女の子と、その子をおぶってきた母親は、信じがたいほど汚い言葉を浴びせたにしても愛情を与え、愛情を受けている時間もあるからなんだと思う。夜風が吹く頃、子どもの顔を見ながら、悪かったと思う瞬間があるのかもしれない。「今日はごめんね」って頭をそっと撫でることも。しかし、それでクリアになったと思うのは大人だけで、繰り返される日常に、子どもの心は確実に蝕まれていく。 近年、虐待と貧困は切り離せない、格差社会が産んだ歪みだと言われるようになってきた。しかしコンビニで会ったこの若い母親が、車に子どもを投げるように入れ、乱暴に立ち去った姿を見て、そんなふうに一概には言えないようにも思った。

今年の夏は本当に暑かった。災害レベルの暑さという言葉にも納得した。秋も暑いとの予報が出ているから今までの四季とは変わり始めている。変わり始めたのは四季だけじゃない。母親は子どもの顔よりスマホを見る時間が長い。子どもは母親に尋ねることを諦めてスマホに問いかける。体感ではなく、文字や画像で知ったことを経験と思い込んで成長するとしたら、何か違うように思う。
そんなやりきれない思いの中にいた頃、小学校で教師をしている友人が帰省し、しばらくぶりに会った。私はコンビニでの出来事も含め、教育者の立場から彼女に聞いてみたかった。友人は、発達障害の子どもを担当している。知的に問題はなく、ただ個性が非常に強い子ども達だと彼女は言った。クラスメートとうまくコミュニケーションがとれずに孤立してしまう子どもや、ひとつのことに集中すると周りが一切見えなくなる子ども、逆に目に入るものすべてが気になり集中できない子どもと、週に一度、数時間を共にして普段の授業では足りないと思われる部分を補っている。そうやって彼女は週5日、いろんな学校を回るのだそうだ。彼らの独特な個性は、生かせれば天才的な能力となる。ただマイナスに出ることもあり、それは生まれ持ったものではなく、身体的虐待やネグレクトから起こる場合が多い気がすると彼女は言う。これは彼女のクラスの例のひとつであるが、あまりに構われず、放置されて育ったが為に、自分の中に芯がなく、どんな角度から接してもふわふわと、のれんに腕押しのような感覚しか返って来ない子どもがいた。表面をなぞるだけのようななんとも奇
妙な感触。いつもにこにこして、お行儀の良い子どもだが、心の内を表現しない。表現しようにも、心の内というそのものないのかもしれないと言うのだ。「じゃあ、どうすればいいの?身体的虐待やネグレクト、コンビニで会った子どもみたいに、いつもいつも怒鳴られ続けて育った子のフォローってどうすればいいの?」私は聞いた。「どうにもできない。どんなに頑張ってもどうにもならなかった。だって、一番大切な時期に愛情というものを知らないで成長するんだよ。心が沢山吸収する時、暴力や暴言、放置で過ごした子どもに愛を覚えなさいって言う方が酷だと思う。担当している間、私にできる精一杯のことはするけど、どうにもならないのが現実だと私は思ってる」友人の答えは、とてもつらかった。

どうしても感情を押さえられない、自分でコントロールできない人が受ける「アンガーマネージメント」なるプログラムもあるそうだ。怒りをコントロールするための講座。子どもに上手く接することができない、無意味に叱ってしまう、八つ当たりをしてしまうなど、分かっていても自身をコントロールできない親たちも受講したり相談できるそうだ。しかし、そこを利用しようとする親がどれだけいるのだろうか。私だったら受けられないように思う。もっともっと気軽に、赤ちゃんを授かった時から、母子手帳を受け取るように、当たり前に母親になるための、父親になるための教育ってできないのだろうか。親になるための教育、これも変な話かもしれないけれど、季節さえも変わってしまっているんだから、親の教育もあってもいいんじゃないかと思う。


今日、コンビニで会った子どもは今は笑ってくれているだろうか。あんな言葉を子どもに浴びせちゃだめだ。絶対に駄目だ。母親が一度も見なかった女の子の目が忘れられない。









10年前に書いた、懐かしい私の文章です。パソコンから見つけました。



ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1






実は私、自宅から1キロほど離れた所に、秘密の基地を持っています。

そこは偶然に見つけた場所で、こんな所にこんな物が!と思えるほどの異質な空間です。

住宅地を抜けて路地をいくつか曲がり、行き止まりになるのではないかと思える程の細い道を歩き、繁った木と木の間を抜けると、瓦礫や採石を置いている、以前は明らかに採石関係の作業場と思われる広場に出ます。
事実、辺りには大きな石や、砕いて形を作り始めたばかりの石、 どこかのビルを壊した時に出たと思われる大きな欠片が小山を造っていたりします。
そして、それらが不思議な現代美術のオブジェを思わせる雰囲気をかもしだしていて、決して不法投棄的なさびれた感じがしないのです。


ぐるりと何十にもケヤキや知らない雑木に囲まれた広場の端っこには、トタンで出来た小屋があります。古い木枠がはめ込まれた窓もあって、入り口は木の引き戸。意外と滑りも良くて、戸はいつでもすっと開きます。



中には埃を被ったトラクターが一台。

壁側には使わなくなったタイヤがきれいに積まれています。床はなくて、直接土です。


油と埃の混じった匂いがします。


そしてトラクターの陰には藁が積まれてビニールシートが掛かっています。

その前には以前休憩に使ったと思われる錆びた折り畳みのパイプ椅子が6脚。畳んでたて掛けてあり、錆びて持ち手の折れたスコップがひとつ。
それだけです。




昨年の春、この基地へ繋がる路地の近くで、その生物をみました。


赤茶に近い黒い色をして、首に白い紙を巻いたような柄のある痩せた生き物。


「針金細工に薄い幕を張った」という形容がぴったりの生き物が歩いていました。



どこかの小さな子供が指さして


「なんだあれ!」って声をあげた程でした。

それがこの秘密の基地の番人である、黒い猫、くうちゃんと私の出会いでした。
普通だったら動ける痩せ方ではありません。


猫生活の長い私ですが、あそこまで悲惨に痩せた猫を初めて見ました。

子供の頃から狭い路地や、あまり人の入らないところを歩く事を得意としていた私は後を追いました。

幸いにそれ程急いで逃げるわけでもなく、私はこの基地を発見する事ができたのです。

トタン小屋の西側面下には地面との隙間があって、くうちゃんは、そこから小屋へ入って行きました。

私は小屋の周りを一周して、広場を探索してから 一旦自宅に引き返しました。

猫の餌(カリカリ)、餌入れになりそうな器2個、マスク、軍手、パン(自分用)、懐中電灯、水、の7つ道具をトートバックに入れて、再度出かけました。
決して走ったりしません。


慎重にトレースを辿って、再び秘密基地に到達した時は、叫びたいほど嬉しかった。


わかっていただけたでしょうか。
私の喜び。
ここまでの作業を淡々とこなして、平静を装い、決してはしゃがず、引き返してきたのです。
声に出したりしたら消えてしまいそうな場所。


「やっぱりもう行き着けなかった!、何だったんだろね、あの場所」で、終わってしまいがちな不思議なスペースです。
私は再び戻れたんです。

やったー三 (/ ^^)/


私の秘密基地。



木の引き戸をそーと開けるとトラクターの運転席にくうちゃんが座っていました。

目をまんまるにしてこっちを見てます。

そーと入り口付近にカリカリを置いて、また そーと戸を締めました。

その日はもうトタン小屋には近付かないで、広場をゆっくり散策しました。


平たい石の上に座って、持ってきたパンを食べて水を飲みました。


静かです。
春の穏やかに晴れた日、鳥の声と、風の音だけします。
木々にぐるりと囲まれた空間に浮かぶ空は、やっぱりそこだけくり抜いたように見えました。20年位前に戻ってしまったような空間。
まるでそこだけ 時間が止まっているかのようでした。


それから私はほぼ毎日そこに通いました。

1キロ程度という距離は ウォーキングには調度良く、また微妙に面倒くさい距離です。
しかしあの子が待ってると思えば重い腰も上がると言うものです。


けれど実際には、あの至福の時を待っていたのは私の方であったと思います。


くうちゃんは少しずつ太っていきました。 そしてまた少しずつ私を認めてくれるようになりました。


私が行かれない時のために不本意ながら、2名の友人に基地の場所を教え、(また訳のわからない事を始めたと呆れつつも良くやってくれています)くうちゃんを紹介したりしましたが、くうちゃんは私以外の人間にはなつかない。
嬉しくもありましたが、突然入院の要素を抱えている私は不安でもありました。が、それがくうちゃんでした。



秋になる頃、くうちゃんは避妊手術も済ませました。
その頃になると、私の膝に乗って甘えるようにもなりました。


しかし普段はきちんとトラクターの運転席に乗っかって、秘密基地の番人らしく、凜とした日々を送っていました。

1日一回伺うだけの私も、彼女が愛おしく、心配で、なるたけそばにいてやりたいと思うようになりました。


あんなにやせ細るまでの間に何があったのか沢山の疑問もあったのですが、今は幸せにそうにしていてくれるくうちゃんといられる事が、私なりに嬉しくてなりませんでした。


秋も深まり、少々肌寒く感じ始めた頃、戸外で長時間いる事が辛く感じ始め、私はこの頃からトタン小屋に侵入するようになりました。


パイプ椅子をひとつお借りして座りました。

膝掛けも持ち込み トランジスターラジオを持ち込みました。


最初は膝の上にくうちゃんを載せて時間を過ごしていましたが、この場所の心地良さに取り憑かれ始めた私は、今度は小さなテーブルを持ち込みました。
文庫本も幾つか。

文章を書くことが仕事のひとつである私には、この電気の通ってない書斎を持ってから作業がはかどりました。

バイトのない日は秘密基地にお弁当持参で出掛けるようになりました。


偉そうな表現で申し訳ないのですが、筆が進むのです。
自宅で書くより数倍の速さで書ける。
偉い作家さんがホテルに缶詰めにされて書くと聞きますが、少しわかる気がしました。

冬は湯たんぽです。
膝の上に湯たんぽを置いて、毛布を掛け、くうちゃんを抱いて書きました。



年が明けて、また春になりました。


風が強い日はトタン屋根の剥がれたところがバタバタいって、かなりうるさく、紐で結んだり ネジでとめたり、私なりに修理もしました。

ただ雨の日だけはどうにもなりません。ブリキのバケツを頭から被って、何かで叩かれているようです。
しかし、それもまた悪くはない。
音というバリアに包まれて、本当に異空間です(変態的ですが)

そんなある時、私は藁とタイヤの隙間に古い学習ノートを見つけました。

小学校4年生
〇〇〇〇〇
男の子のものです。かなり古い。



10年前か20年前かわからないけど、本当にそれ位古い国語のノートです。

きちんとした字。
だけど後ろの方に
大きく「バカ」って書いてある。


異空間にいるせいか、私は思わずホロリとしてしまいました。

この空間だけじゃなくて、街のほうまでこのケヤキが続いていた頃に、学校帰りの少年が、やっぱりそっと、この小屋の引き戸を引いたのでしょうか。


それとも、家出を計画した少年がこの小屋で泣いていたのかと。


だとしたらかなり真面目な少年です。家出にもノートを持って来るのですから。
20年前だとしたらもう30歳近くになっている少年は、元気にやっているのでしょうか。


家出にノートを持ち込むくらいだから、きっとエリートサラリーマンになってる事でしょう。



タイムマシンとどこでもドアを使って、少年のもとへ行けたなら、「頑張ってるね」って声をかけたい。(逃げるだろうな。トラウマになったりしてあせる)


私の空想は果てしなく続きますが、いくら素敵な小屋だからといっても、忍び込むのは少年や少女であるから物語になるのであって、怪しい大人がやってるのは少しやばいかな?と、やっと少し思い始めました。そろそろ書斎は閉めないといけないかな?


街に続く今は無いケヤキ並木の先から、人の営みと話し声が聞こえてくるようです。

もしかしたら私の書斎は何十年もの間、いろんな人たちに使われてきたのかもしれません。



そう言えば、友人達に不法侵入だと脅されていますが、私は一度もここでくうちゃん以外にあった事がありません。


もう通い始めて一年以上経ちましたが、ただの一度もです。




しかしある日のこと、私の秘密基地、トタン小屋の書斎の入り口に、立て札があったんです。
心臓が止まりそうだった。

時を超えてこの書斎を使っていたのは私だけではなかったようで、管理人さんはちゃんといらっしゃることが判明しました。



「小屋を使ったらきちんと閉めてください。
夜は早めに帰りましょう」


本当に驚いた。


そして何とも寛大な管理人さんだ!!




ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1



時は流れ、諸々の事情もあり、今、くうちゃんは私の家の外猫です。




数匹の外猫たちとお姫様気分で暮らしています。



けれど随分年をとりました。


口の中が痛いのか、涎がいつも出ています。


下の歯の向きも変だし奥歯もボロボロ。顔を触られるのも痛そうでした。



いつもお世話になっている先生に相談したら抜歯をしてくださることになりました。




一泊入院を予定していたのに、凛としたくうちゃんは、日帰りで帰って来てくれました。


先生の技術が先生の処置が最高なのに、『私は不死身よ』と言わんばかりに帰ってくるなりご飯を食べて少しぼーっとしながら普通を装ってたくうちゃん。



夜中に様子を看に行ったら、今の小屋の中で、お腹を出していびきをかいて寝ていました。


今、口の痛みもすっかり収まり、以前よりもっともっと凛として、お姫様気分を加速させつつ、毎日バタバタしている私の番人をしてくれています。
これからもずっとよろしくね。







先生、スタッフの皆様、くうちゃんのことありがとうございました。


私、また頑張れそうです。