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少年犯罪事件史

2013年11月からスタートしました。少しずつ記事を書いていきます。

山地悠紀夫 生育暦


「何のために生まれてきたのか、答えが見つからない。人を殺すため。もっとしっくりくる答えがあるのだろうか。ばく然と人を殺したい。」



1983年8月21日生。山口県の出身。

建設作業員の父と
パート勤めの母との間に生まれる。


母親は再婚であり、前夫との間に子供がいるが、引き取ってはいない。
また、発達障害の傾向があると、ある書籍にかかれてあり(私もそう思う)
息子とのコミュニケーションが上手くとれていない生活環境であった。

両親共働きのため、山地の幼少時は父方の祖母に育てられていたが
その祖母も山地に対して暴力傾向があった。

また、父親はアルコール依存症であり、矛先を母親に向けて暴力を振るっていた。
顕在的な記憶があるかどうかは別にして、山地はこの暴力行為を日常的に見ていたことになる。


楽しい思い出が全くなかったわけでもなく
遊園地や父親との釣りに行った思い出が書籍には載っている。
しかしながら、それが打ち消されるぐらいの日常であったのだろう。


母子家庭だからということではなく、
父親が健在のころから生活は困窮していた。


小学校では家庭科の教材費も払っていないことから
調理実習で作った料理を先生に食べさせてもらえなかった。

この教師は
「この中にマドレーヌ食べれない人がいます!」
と言い放ち、逮捕された後の嘆願書の署名すらも断っている。


1995年1月、小学5年生のとき、父親が亡くなる。
ウィキなどでは、肝硬変のためとしか書かれていないが、
実際はアルコールによるものである。



「死刑でいいです」池谷孝司編著より

・・・・・・・・・・・・・・・

ある日の朝、登校前に枕元の洗面器に血を吐いた。

慌てて山地が母の勤め先に電話すると
「いいから、放っておきなさい」と言われた。

それで言われたとおり学校へ行き
学校が終わって帰って来ると父は動かなくなっていた。

再度、母に電話すると
「吐いた血を掃除して」「死んだらええ」
と言い放つ。ようやく深夜になって
救急車で病院に運ばれた父は


間もなく息を引き取った。

「その時の母の言葉は、いつまでも山地の耳から離れなかった。
それ以来、長く母を恨むようになる。」

そして山地は
「『母が殺した』という思いを後々まで引きずることになる。」

・・・・・・・・・・・・・・

この家庭では、愛や慈しみを
知ることは出来なかったであろうから


言い方を変えれば

「犯罪を犯すための家庭」

の中で育ってきたともいえる。

小学校に引き続き、中学でもいじめにあっていた。
悪魔と呼ばれ虐められ、不登校の末に修学旅行も行かなかった。

自分を出せる場所がどこにもなかった状態である。

学校ではいじめにあい
家庭では、自分と向き合ってくれない母親。

唯一、
世話をしてくれて多少なりとも
自分と向き合ってくれていた祖母は
施設に入ってしまった。


母親を殺すしばらく前
バットで庭の木を何度も殴るという
異常行動があった。

出せない自分の本心がたまり
このような行動に出ていたことは
本人すらも気づいていなかったのであろう。


事件があった月には、山地にとって
不快な出来事がいくつか重なって起きている。

このことが、犯罪を加速させていた要因である。


母親の借金のこと。
いくら聞いても使い道は教えてくれない母親。
そのくせに、山地のお金は黙って持ってく始末。

この月も
「家賃待ってください」って
お願いされたと大家はテレビで答えている。


また、母親の再婚話は、山地にとって
おめでたいことでは全くなかった。
自分の居場所を奪われる出来事だからだ。

「出て行け」と日々言われるが
先立つお金がなく、プレッシャーばかりがのしかかる。


このような状況は、
通常の思考回路を持っている人であっても
かなりのストレスフルな状態だと思う。

精神的に未熟な部分がある、
山地にとっては、どうにもならないほどの
心理状態だったのだろうということが
想定できる。

そこへ交際女性への無言電話攻撃。
しかも、それを認めるどころか
しらを切る母親。

山地の心のマグマは爆発してしまった。
爆発せざるを得なかった。



本人は、自分のこのような
心理状態を意外にも把握している。

中等少年院にいる時に


自分は、また犯罪を繰り返す
それはとめられない


ということを何度も口に出している。



冒頭に出した

「何のために生まれてきたのか、答えが見つからない。人を殺すため。もっとしっくりくる答えがあるのだろうか。ばく然と人を殺したい。」


という言葉は、
私には自己弁護にしか聞こえない。

それですべてが済むわけではない。



痛みでバタバタもがいていた母親を見て
殺人の快楽に目覚めたと言われているが

一般的な考え方の持ち主であれば

そこは不快に思うところ。
それが「快楽」の方向にいってしまったのは

それ以前に、その要素があったからではないか。



だとしたら
それは幼少期にまでさかのぼる。


父親の暴力を常に見ていた山地。

それを規制する人もいなければ
人を傷つけることだと教える人すらもいない。

母親を痛めつけて、
喜んでいる父親を当たり前のように毎日見る環境。

アスペルガー、発達障害という
枠で話をまとめられることではない。



※ 山口母親殺害事件 概要
山口母子殺害事件とは、別件である。
犯人の山地悠紀夫は、すでに死刑が執行されており、もうこの世にはいない。
死刑と確定されたのは、この事件によってではない。母親殺害後、刑期を終えた後に犯した大阪姉妹殺人事件の裁判によってである。母親殺しの時にも一時ニュースで話題にはなったが、その時期あまりにも少年犯罪が多かったため詳しくクローズアップされなかったことと、その生い立ちと殺害の動機があまりにも悲惨であったため、時間の経過とともに薄らいでいってしまっていた。母親を殴る蹴るとした残虐な殺し方をしたにもかかわらず、当時の別の少年犯罪にうもれてしまっていたともいえる。

《当時話題となっていた少年犯罪》
 豊川市主婦殺人事件
 西鉄バスハイジャック事件
 岡山金属バット母親殺害事件
 大分一家6人殺傷事件
 光市母子殺害事件
 歌舞伎町ビデオ店爆破事件
※ 非常に残念なことに、これ以外にもまだ事件はある。


~~概要~~

山口県山口市で母子家庭でアパートで生活していた山地は、高校へ進学せず、就職も決まらない状態で中学卒業を迎えたが、時間を経て、市内で新聞配達のアルバイトの職を見つけた。生活は非常に苦しく、困窮していた。母親はスーパーで働いていたが浪費癖があり、山路の収入をも無断で使っているありさまだった。当然、生活保護は適用されず、水道光熱費を滞納している状態。このころ母親に再婚話がでてきて、山地は母親から直接「邪魔」「でていけ」と言われる様になる。借金のこと、母親の結婚のこと、自分の好きな女性に対しての母親からの監視など、いろいろな要因が重なっていたある日の夜、親子ケンカの時に金属バットで母親を殴り殺した。1日おいて自ら「母親を殺した」と110番通報し、緊急逮捕となった。


~~時系列~~

2000年(平成12年)
4月中旬
就職が決まらず家にいたが、知人の紹介で新聞販売店のアルバイトをするようになる。

6月
母親の借金を知り、その額の大きさに愕然とする。

7/27
仕事を無断欠勤する。

7/28
同僚が迎えに来てくれ、遅刻して仕事にはいる。母親の借金について悩んでいることを話す。
また同時期、母親の再婚話に「自分は邪魔者だから、家をでる」ということも話す。
家を出て自分でアパートを借りるために、配達量を増やし給料を上げてほしい旨を勤務先にに申し入れている。

7/29
21:00ころ、母親と口論になる。山地が好意を寄せていた女性の携帯電話に、母親が無言電話をかけていたことがわかった。それをとがめるも母親は認めず「出て行け」とまで言い出す。
頭に血が上り、その場で金属バットで母親を殴る蹴るの暴行を加えた。執拗に繰り返して殴っており、後頭部から脳が飛び出てるほどの状態であった。
その後、返り血を落とすためにシャワーを浴びており、その時に自分が射精していることを知る。(後の大阪姉妹殺害事件で検事に話した)

7/31
01:00ころ、一晩空けて、自ら110番する。山口署員が急行し、緊急逮捕となった。

8/2
弁護士との接見において「弁護士は必要ない。自分はどうなってもいい。」と発言する。

8/21
山口地検から山口家裁に送致される。

9/14
岡山の中等少年院送致となる。
山口家裁は「動機に酌量の余地があり、計画的な非行ではなく、家庭環境に大きく起因していることなどを考慮すべきだ」とし「長期間の矯正教育を受けさせるのが適当であり、年齢的に見ても矯正は充分可能」とした。

2003年10月
中等少年院仮退院。これに関しては精神科の医師が更生に疑問を呈する意見を出したが、岡山県公安委員会は許可を出していた。

2004年3月
中等少年院を本退院した。しばらく親類の家で暮らした後、パチンコ屋に住み込みで働きだす。
この頃からパチスロ機を不正操作して稼ぐ『仕事師』グループの一員になる。

2005年3月
パチンコの不正行為が発覚し、窃盗未遂容疑で逮捕され、起訴猶予となった。
つてを転々としていたが、仕事も人間関係もうまくいかず大阪に拠点を移す。

11/17
大阪姉妹殺害事件をおこす。

2007年5/31
死刑が確定する。

2009年7/28
死刑が執行される。享年25歳。
自殺サイト連続殺人事件の前上博も、同日死刑執行である。


~~生い立ち~~

 >>こちら
書籍やネットで加害少年たちの生育環境を知るうちに
胸が苦しくなります。

同情ではありません。
自分に重ねてしまい、自分がかわいそうになってしまうからです。



私自身も、殺人を犯してもおかしくないような
環境だったと思います。


もし、実行していたとしたら

「あの子の家庭環境じゃ、こうなるのも当たり前」

と、周りの人は納得していたかもしれません。


私は、運よくそうならなかっただけであって
加害少年たちとの違いは、あまりないように思います。


実際、私のきょうだいは思春期の頃に警察に
お世話になっていました。

それに振り回されていた父親を見て


「私は、他人を傷つけることはできない」と

自分を封じ込めるほうに動いてしまっただけのことです。


自分に向くか、他人に向くか、それだけの違いではないでしょうか。


他人に向けば、人を巻き込んでしまいます。

人を巻き込むことで
その人の周りまで影響を及ぼしてしまいます。

巻き込むスピードと広さはとてつもないもので

罪をつぐなったから とか
刑期を終えたから とか
賠償金を払った とか

で済むことでもなく

巻き込まれてしまった人の一生にまで
影響は及びます。

恐ろしいチカラです。


じゃあ、自分の方に怒りや悲しみが
向いていれば、周りを巻き込まないのか?


というと、そんなこともありません。


私のきょうだいは、のちに自殺しました。


他虐ののち、自虐方向にむかいました。

本人はそれですべてが終わったと
思ったかもしれませんが、そうではありませんでした。


巻き込まれた身内の私たちには、それからが地獄でした。


どちらを向いても、楽なほうには進みません。

自分が苦しい状態にあることを
分かってくれている人が、ひとりでいいので

いるか、 いないか

そこだと思っています。


だから、いくら長年懲役に行ったとしても
更生プログラムを受けたとしても

再犯を繰り返す人がいるのではないでしょうか。


効果がある人もいるだろうし
全く変わらない人もいます。

それなのに、「少年法」という
あいまいな区切りでひとつにまとめても

犯罪は減らないし、根本の改善にはならないと思います。

2007年5/17の早朝、福島県の会津若松警察署にひとりの少年がやってきた。「母親を殺害しました」と自らの罪を告白した少年は、手に持っていた黒いバックを差し出す。中には切断された母親の生首が入っていた。


~~概要~~

タクシーで警察にやってきた少年は、福島県内の県立高校に通う3年生であった。自宅で眠っている母親を刺殺し、頭部を切断した。右腕も切断し、自宅アパートにあったプラスチックの植木鉢に母親の腕を指側を上に向けて差込む行動をとっている。その腕は、スプレー塗料で白く塗られていた。心理学的には「母親からの自由・解放」をあらわしているとのことである。
突発的な犯行ではなく、計画的な部分が見受けられた。頭部の切断に使ったノコギリは、数日前にホームセンターで購入している。殺害後、自分が捕まることまでを想定して物事を進めている。そのため、表面上は冷静なようすにみられた。反対の腕も切断しようと試みたが、隣の部屋に寝ている弟に気づかれるのを避けるために止めている。実際、左腕に切断しかかっている傷があった。
犯行前から不安定な部分があり、不登校ぎみであった。精神科に通院し服薬もしていた。また、自宅から数十キロ離れた学校に近いところにアパートを借りており、弟と生活をしていた。母親は毎週末アパートに世話をしに来ており、一般的ではない生活環境で過ごしていた。


~~時系列~~

2007年(平成19年)
精神状態が不安定ということから、精神科へ通院するようになった。抗不安薬の処方を受けていた。


04/16(月)
不登校気味ではあったが、この日から学校に行かなくなる。

04/27(金)
学校の先生が自宅に来てくれるが、会うことはなかった。

05/14(月)
朝食後、弟が片づけをしないことに腹を立て、殺意を持つ。
午後、ノコギリ・植木鉢・土・白の塗料スプレー・ロープをホームセンターで購入する。別のお店で、包丁も購入している。この時点で、母親がターゲットにはなっていない。後に「誰でも良かった」と話している。
母親が、アパートに泊まりに来る。

05/15(火)
01:30 寝ている母親を刃物で刺し殺す。この時、母親は目を覚まし抵抗した模様で、少年の手に母親がつけたであろう傷が残っている。
布団に寝かせたままの状態で、母親の首を切断する。この時、アパートの隣の部屋には少年の弟が眠っていた。両腕を切断しようとするが、弟に気づかれることを恐れ、右腕のみ切断する。

自転車で、市内のカラオケ店に向かい、数時間過ごす。この時、かばんに入った母親の頭部は、自転車のかごの中に入れたままであった。カラオケ店内で、自分の携帯からSNSの掲示板に投稿をしている。

04:55 母親の首をかばんに入れて持ち歩いたまま、インターネットカフェに入店する。この時ビースティーボーイズのDVDを見ていたとされる。
06:21 携帯からタクシーを呼びつける。
この日は、殺害された母親の誕生日である。

05/17(木)
6:50 会津若松署に少年がタクシーで到着、出頭をする。インターネットカフェから警察署まではわずか1キロの距離であった。
父親が、謝罪文を公開する。

5/19(土)
少年の実家を家宅捜索。

05/31(木)
精神鑑定のため、8月末まで鑑定留意となる。

10月
地検支部は10月の鑑定結果をもとに「刑事処分相当」の意見を付け家裁送致した。

2008年1月
鑑定を重ねた結果がでた。明らかな精神疾患があり、刑事責任能力はないとみられるとの判断であった。

避けられない外部要因によって
誘発される場合もあるのではないでしょうか。




大人が、仕事のストレスが
溜まっていくのと同じように
(同じに考えるのもまた違いますが)


加害少年たちは、自分でも気づかない
ストレスを蓄積させて行き、
それが許容量を超えたときに
事件は起きるのだと思います。



どこを
ストレスと感じるか
感じないかは

もともとの個性もありますし
生育暦の環境もよりますが


一般の思考を持つ子供たちより
ストレス耐性レベルは低い位置に
あることが想定できます。



上記の点を踏まえて、要因のひとつだと
思われることに以下のことがあります。




神戸市須磨区の
酒鬼薔薇聖斗事件の加害少年


会津若松の
母親首切断殺害事件の加害少年



それぞれ半年~1年近く前に災害に遭遇しています。



神戸の少年は、「阪神淡路大震災」を

会津若松の少年は「自宅の土砂災害」に


被災しています。



自然災害がもたらす人間へのメンタルの影響は
かなり大きいことは周知の事実です。

「震災うつ」「震災PTSD」という

病名もメディアでメジャーにいわれるように
なりました。


どんな人だって打撃は受ける出来事です。



彼等にもかなりの打撃があったはずです。



ここで、半分しか入っていなかった
コップの水が、いきなり9分目まで
増えたのかもしれません。



だとしたら、あとは少しのストレスとなる
出来事がおきただけで、コップの水は
あふれてしまいます。


自分の感情をだせる人であったら
コップの底に穴をあけて

水をちょろちょろと放出させていけますが

彼らはその方法を知らないため
(感情を出すことを知らないため)

あふれておおごとになるまで
どうにも出来ないのだと思います。


日ごろから、感情を放出できるような
家庭環境が必要だということが
この点から分かってきます。




抑圧された真面目ないい子と

思ったことを表現できる反抗期の子と


どちらが本人にとっては

いいのでしょうか。