琉球史について私見あれこれ | うぃんどふぇざぁ

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【琉球語、うちなーぐち、沖縄方言の発音】

琉球王家尚氏紋章の左御紋(フィジャイグムン)、首里城正殿の別名・唐破風(カラファーフー)などから分かるのがハ行がファ行になっていること。
沖縄独特なのかと思いきや実はそんなことはなくて、日本も室町時代や戦国時代頃までハ行はファ行でした。たとえば羽柴筑前守秀吉をファシブァチクヂェンノカミフィデヨシと発音したであろうことが宣教師たちの記録から分かっています。
また、花をパナというようにハ行がパ行だったりするのも日本では平安時代以前のことなのでこれも繋がりがあります。

グスクは年配の方や少し昔の表記だとグシク、発音だとグスィクだったりしますが、15世紀の碑文などでも平仮名で「ぐすく」と書かれています。他に今帰仁はおもろそうしに「ミやきせん」と書かれていたりします。ミヤキセンは当時の平仮名に拗音や濁音の表記法が無いことを考慮すると、ミャーキヂェンなどと発音したかも知れないですね。ミャーがナーに、ヂェンがヂン、ジンに転訛するのはうちなーんちゅならなんとなく納得できるんじゃないでしょうか?
こういうところから考えると、うちなーぐちの発音の仕方や母音がアイウイウになったのは近世になってからじゃないでしょうか。


近世つまり日本では江戸時代になると渡航が大きく制限されたので、それまで多くの日本人や文物が渡ってきたことで影響されていた言語がより琉球独特のものに変化していったように思います。
ファ行がハ行に取って代わった日本に対してファ行のまま変わらなかったのもそういう証左になるのかも?


【グスク時代の按司たち】

察度と尚巴志の若年期のエピソードに村の刀鍛冶に作ってもらった立派な刀と引き換えに鉄製品を手に入れる話がありますが、これはまさしく中継貿易そのままじゃないでしょうか?

日本刀のうち現代まで含めて最も優れているとされる古刀は鎌倉室町期のもので、ちょうどグスク時代から古琉球の時代です。
喜界島には製鉄炉跡も見つかっていて、刀が輸入品でなくても鍛冶技術は伝播していたでしょうからそうやって手に入れたのでしょう。
察度の弟で何度も渡明した泰期(たいちー)は実は弟ではなく太刀(たいちー)という刀鍛冶という説もあります。察度の財源を初期から支えた義兄弟や懐刀だったのかもしれないですね。

沿岸部の按司たちは交易を通して農具などを木器骨器石器から鉄器にすることで民百姓たちの支持を得て按司となっていったのでしょう。


ちなみに山北の按司・攀安知(ハンアンチ)は羽地按司の、怕尼芝(ハニジ)は羽地の転写ですが…
察度は里前(サトゥメー)、里主、里之子(どちらもサトゥヌシー)で使われる里(サトゥ)の転写、尚巴志は小按司の転写説やサハチという童名の転写説がありますが、尚が本来姓氏ではないのは父の苗代大親こと思紹に尚が付かないことから分かります。