天草版平家物語で戦国時代の日本語を見てみる その3 序文 | うぃんどふぇざぁ

うぃんどふぇざぁ

歴史とゲーム好きの小人族の一人がなにやらもそもそするブログ

斯るか故に言葉の手爾波のみにあらす、此國の風俗として、一人に許多の名、官位の稱へ在る叓をも避く可しと也:故如何となれは、此れ物の理を亂すに因て、他國の言葉を學はんとする初心の人の為には大きなる妨け也。
かるがゆいぇに ことばの てにふぁのみにあらず、このくにの ふーぞくとして、いちにんに あまたのな、くぁんいの となえあることうぉも さくべしとなり:ゆいぇ いかんとなれば、これもののりうぉ みだすによって、たこくのことばうぉ まなばんとする しょしんのふぃとのためにわ うぉーきなる さまたげなり。
であるので、日本語の言葉遣いだけでなく、この国の習慣として、個人に対して多くの名前、官位の名乗りが存在することも、本書では避けた方が良いと:何故かというと、これは理解を難しいものにするので、他国の言葉を学ぼうとする初心者には大きな障害だからだ。

今此言葉を學はんと自他企る叓全く以て別の儀にあらす:貴き御主 Iesu Christoの Euangelhoの御法を廣めん為なれは、此至願の頼りと為らさる叓をは皆以て除かすんは有る可らすとの儀也。
いまこのことばを まなばんと じた くわたつること まったくもって べtの ぎにあらず:たっとき うぉんあるじ Iesu Christoの Euangelhoの みのりうぉ ふぃろめんためなれば、この しぐぁんのたよりと ならざることうぉば みなもって のぞかずーば あるべからずとの ぎなり。
さてここで日本語を学ぼうと、あれこれ企図することは、他でもない:貴き主(しゅ) イエス・キリストの福音の教えを広めるためなので、この至願のためにならないことは、すべて除かなければならない。

予退いて愚案を加うるに、此叓眞に其謂れ無きにあらす:一々以て皆然也。因て右の至願の宛所に應し、師の命に随て、嘲りを萬民の指頭に受けん叓を顧みす、此物語を力の及ふ所は本書の言葉を違えす書写し、抜書と為したる者也:伏て請ふ、博雅の君子之を読で、情深うして才の短きを嘲弄する叓勿れ。時に御出世。1592.Dezembro.10.
Fucan Fabian 謹で書す。
よ しりぞいて ぐわんくうぉーるに、このことまことに そのいわれなきにあらず:いちいちもって みな しかなり。よってみぎの しぐぁんの あてどころに うぉーじ、し の めいにしたがって、あざけりうぉ ばんみんの しとーに うけんことうぉ かえりみず、このものがたりうぉ ちからの うぉよぶところわ ほんじょのことばうぉ たがえず しょじゃし、ぬきがきと なしたるものなり:ふして こー、ふぁくがのくんし これうぉ よんで、じょー ふこーして さいのみじかきうぉ ちょーろーすることなかれ。ときに ごしゅっしぇ。1592。Dezembro。10。
Fucan Fabian つっしんで しょす。
私も一歩退いて意見を述べれば、このことは実際その謂れのないことではない:逐一その通りなのだ。なので至願の目的に即し、師の命令に従って、諸人の指差し嘲りを受けることを顧みず、この平家物語を力の及ぶ限り、言葉を間違えず書き写して抜書とするものだ:伏して請う、博識の読者はこれを読んで情深く著者の不才を嘲弄しないよう願う。時に御出世の1592年12月10日。
Fucan Fabian 謹んで書く。