天草版平家物語で戦国時代の日本語を見てみる その4 本編開始 | うぃんどふぇざぁ

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平家物語。卷第一。
第一。平家の先祖の系圖、又忠盛の上の譽と、淸盛の威勢榮華の叓。
物語の人数。
右馬允。喜一検校。
ふぇいけものがたり。くぁん だいいち。
だいいち。ふぇいけのしぇんぞのけいづ、また ただもりの ういぇの ふぉまれ、きよもりの いしぇい いぇいがのこと。
ものがたりのにんじゅ。
うまのじょー。きいちけんげぉー
平家物語。巻第一。
第一。平家の先祖の系譜、忠盛の功績と、清盛の威勢栄華の話。
ここで物語りをする人たち。
右馬允と喜一検校。

右馬允。検校の坊、平家の由來か聞きたい程に、粗々略して御語りあれ。喜一。易い叓で御座る。大方語りまらせうす:
うまのじょー。けんげぉーのぼー、ふぇいけのゆらいが ききたいふぉどに、あらあらりゃくして うぉかたりあれ。きいち。やすいことでござる。 うぉーかた かたりまらしょーず:
右馬允「検校の坊さん、平家の由来が聞きたいので、掻い摘んで語ってください。」
喜一「お易い御用です。大方語りましょうか。」

先つ平家物語の書始には、驕りを極め、人をも人と思はぬ様なる者は軈て滅びたと云ふ証跡に、大唐、日本に於て驕りを極めた人々の果てた容態を且つ申してから、
まづ ふえぃけものがたりの かきふぁじめにわ、うぉごりうぉきわめ、ふぃとうぉ ふぃとと うぉもわぬ よーなるものわ やがてふぉろびたとゆー しょーじぇき(現在はショウセキ)に、たいとー、にっぽんにうぉいて うぉごりうぉきわめた ふぃとびとの ふぁてた よーだいうぉ かつもーしてから、
まず平家物語の書き始めには、傲慢を極め、人を人とも思わないような者は、やがて滅びたという証拠に、中国、日本で傲慢を極めた人々の最期の様子を語ってから…、

さて六波羅の入道前太政大臣淸盛公の先祖は桓武天皇九代之後胤讃岐守正盛か孫刑部卿忠盛之嫡男て御座る。
さて ろくふぁら さきの だんじょーだいじん きよもりこーの しぇんぞわ くぁんむてんのー くだいの こーいん さぬきのかみ まさもりがまご ぎょーぶきょー ただもりの ちゃくなー でござる。
さて六波羅の前太政大臣清盛公の先祖は、桓武天皇から9代の後胤、平讃岐守正盛の孫、刑部卿忠盛の嫡男です。

此忠盛の時迄は先祖の人々は平氏を高望王の時下れて、武士と為られて后、殿上の仙籍をは赦させられなんた。
このただもりの ときまでわ しぇんぞの ふぃとびとわ たいらうじうぉ たかもちうぉーのとき くだされて、ぶしと なられてのち、てんじょーの しぇんしぇき うぉば ゆるさしぇられなんだ。
この忠盛の時まで先祖の人たちは、平姓を高望王の時に賜姓されて、武士となられてからは、昇殿の資格を許されていなかった。

然るに忠盛に鳥羽院と申す帝王得長寿院と申す寺を立て、又丗三間之堂を作て一千一体の佛を据へよ、其御返報には何処也共贖うすると仰られた。
しかるに ただもりに とばいん ともーす ていうぉー とくちょーじゅいん ともーす てらうぉたて、また さんじゅーさんげんの どーうぉつくって いっしぇんいったいの ふぉとけを すいぇよ、その ごふぇんぽーにわ どこなりとも あこーずるくにうぉ くだされぉーずると うぉーしぇられた。
そのような時に忠盛に対して、鳥羽上皇という帝王が得長寿院という寺を建て、更に三十三間堂を作って1001体の仏像を据えよ、その報奨にはどこでも宛てがう国を下して遣ろうと仰った。

然る所で彼堂寺を宣旨の如くに程経て造畢せられたに因て、其折節に但馬國が空たを即下れて御座つた。
しかるところで かの どーてらうぉ しぇんじのごとくに ふぉどふぇて ぞーふぃt しぇられたによって、そのうぉりふしに たじまのくにが あいたうぉ すなわちくだされてござった。
そうであったところに、忠盛がその堂寺を宣旨の通りに造立したので、その時に但馬国が空いたのをすぐに下されたのでした。

鳥羽院猶御感の余に内の昇殿を赦れたに因て、忠盛丗六の年始て昇殿致れた所て、公家達か此れを嫉み憤て、同し年に或時、忠盛を闇討にせうすると談合せられたを忠盛も傳へ聞て思わるるは:
とばいん なうぉ ぎょかんのあまりに うちのしょーでんうぉ ゆるされたによって、ただもり さんじゅーろくのとし ふぁじめてしょーでん いたされたところで、くげたちが これをそねみ いきどうぉって、うぉなじとしに あるとき、ただもりうぉ やみうちに しょーずると だんこー(現在はダンゴウ)しぇられたうぉ ただもりも つたいぇきいて うぉもわるるわ:
鳥羽上皇は一層ご感心のあまりに内殿への昇殿を許されたので、忠盛が36歳の年に初めて昇殿したところ、公家たちがこれを嫉み憤って、同じ年のある時、忠盛を暗殺しようと談合なさったのを忠盛も伝え聞いて思われたことは、

我は長袖の身でも無し、武士の家に生れた者が、今不慮の恥に遭おふする叓は家の為、身の為心憂叓ぢゃ程に、詮する所は身を全うして、君に仕えよと云ふ本文か有るそと云ふて、予て其用意をせられた:
われわ ながそでの みでもなし、ぶしのいいぇに うまれたものが、いま ふりょの ふぁじに あうぉーずることわ いいぇのため、みのため こころうい ことじゃふぉどに、しぇんずるところわ みうぉまっとーして、きみに つかいぇよとゆー ふぉんもんが あるぞとゆーて、かねて そのよーいうぉ しぇられた:
「我は柔弱な文官の身でもなく、武士の家に生まれた者が、このような不慮の恥に遭うことは家のため、身のためには情けないことじゃから、考えるに、身を全うして主(あるじ)に仕えよという古典があるぞ」といって、前もってその用意をなさった。