天正二年 閏十一月一日 から十日 まで『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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90/1243コマ左側

一、閏霜月一日    貴殿様永𠮷へ御光儀被成候

先御三献ニ而候御座ニハ恭安斎被参候御盃

被下候恭安より青銅二百疋進上被申候

其後御会尺被申候其御座之次第主居

閏霜月(十一月)一日、貴殿(義久)様が永吉へ御来訪なされた。まず御三献であった。御座には恭安斎が参られ、(義久様から)御盃を下された。恭安から銅銭二百疋が進上され、その後おもてなしをされた。その御座の席次は、主居(義久様)


91/1243コマ

御次大野治部大輔殿其次恭安斎客居上

左馬頭殿次𠮷利山城守殿其次伊集院右衛門大夫殿

種〻御肴参候而御酒にて候其後御膳くたり候て

拙者か伯女母同前ニ被差出候其より御懇(慇?)心参候

其御座之次第も前同候𠮷利下総守殿御参候

従夫夜深候迄大御酒にて候也

御次に大野次郎大輔殿、その次に恭安斎、客居は上座左馬頭殿、次に吉利山城守殿、その次に伊集院右衛門大夫殿。様々な御肴が参って御酒であった。その後御膳が下がって、拙者の伯母、母が一緒に出席され、それから御懇意に会食した。その御座の席次も先程と同じだった。吉利下総守殿が御参加になり、それから夜更けまで大酒であった。


一、二日小御飯にて如𠮷利之御急候伯母ニ二百疋母ニ

百疋恭安斎へ二百疋被下候也

二日、(義久様は)少量の御食事で吉利の方へ御急ぎになり、(拙者の)伯母に(銅銭)二百疋、母に百疋、恭安斎へ二百疋を下された。


此日𠮷利迄拙者も御供申候御懇心之时御座ニ

参候也其夜如長𠮷罷帰候

この日(二日)、吉利まで拙者も(義久様に)御供し、(吉利での)御懇意(会食)の時の御座に(拙者も)参加した。その夜(拙者は)永吉へ帰った。


一、三日

日付のみで記述なし。


一、四日

日付のみで記述なし。


一、五日鶉狩ニのほり候

五日、鶉(うずら)狩りに行った。


一、六日

日付のみで記述なし。


一、七日永𠮷行司狩ニのほり候

七日、永吉の行司と狩りに行った。


一、八日此方へ罷帰候

八日、こちら(鹿児島)へ帰った。


92/1243コマ

一、九日如常出仕申候中書様より御老中迄と

候而御申候隈城青山名ニ門二此前御賜候其砌

御所領相廻候間先〻与候て御配當ニ罷成候并

む木の内ニ嶋田と申門是も同前ニ候此度御

所領くりかへとも候歟如本御賜候様ニと御申候彼所

領打替之ことく浮免二町斗此前御賜候是又

御か扶持として御賜候へかしと御申候召達

上聞候御返叓ニハ川内之事従    御前は少茂

九日、いつものように出仕した。中書様から御老中へといって御申しがあった。「隈之城の青山名に門(かど)二つを以前御賜りした。その際御所領を廻った(巡見した)ので、とりあえずということで(家臣達の役職所領の)御配当となった。あわせて「む木?」の内の島田と申す門、これも同様だ。今期は(諸将の)御所領所属替えなどしているだろう。(なので)元のように(現状のまま)御賜りとなるように(頼みたい)」との御申しだった。かの所領を代替地として浮免二町ほど御賜りした。これもまた御加扶持として御賜りしたい」との御申しだった。お召しにより(義久様の)御耳に入れた。(義久様の)御返事は、「川内(の所領事情)について御前(義久様、わたし)は少し

※「む木」は地名だと思うがよく分からない。む木の内の「島田」は現・青山町の青山幼稚園周辺のことと思われる。


無御存知中書之御前を御疑之儀は無之候

いつかたの所領を御賜又ハいつれを御上候なとをも

無御存知候其故は    伯囿さま以御分別

三原遠刕鮫嶋双月彼両人扱被申候間一向

従此方は無御存知叓候条兎角御返叓

有かたき由候此分寄合中へ申候此趣返叓

申候而帰申候得と候侭則返叓申候使者ハ

勝蓮寺三原仲左衛門尉にて候也

御存知なく、中書の側を御疑いはしてはいない(中書の主張を疑っているわけではないが)。(中書が)何処の所領を御賜りし、あるいは何処を御返還する(ことになっている)などをも御存知ない。その理由は、伯囿(貴久)さまの御判断でもって三原遠州、鮫島双月のかの両人が対応されたので、全くこちら(義久様)からは御存知ない事であるから、兎にも角にも御返事は難しい」とのことだった。この旨を寄合中へ申し伝えた。この話を(中書様へ)返事して帰られよというのですぐに返事をした。使者は勝蓮寺、三原仲左衛門尉であった。


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一、十日如常出仕申候山田天辰田崎之検地帳懸

御目候其次ニ申上候本串木埜へ被居候出家ニて

御弓箭中ニ隈城龍源寺可被遣御約束共

如其打入之砌卒度番被申然處ニ従か世田之

御噯ニ罷成候間相違(辵+麦)申候て此間無足ニ百次へ

浮免一二反挌護申候て被居候當时山田江

東光寺大安寺とて二明合候是を一彼人へ

被下候へかし次ニ此前本田下埜守被申上候歟

十日、いつものように出仕した。山田、天辰、田崎の検地帳を(義久様の)御目に懸けた。その次に申し上げた。「元は串木野へ居られた出家で、御合戦中に隈之城の龍源寺を遣わされる約束など(がありました)、そのように(約束に従って出家は)討ち入りの際、そっと当番をされた。そうであったところに(出先の)加世田からの御対応になったので(事務に不備があり)取り違えをして(龍源寺を遣わされないまま)、この間無足で百次に浮免一、二反を所有して居られました。現在山田に東光寺、大安寺とがあって二つ空いています。これを一つかの人へ下されていただけないでしょうか」。次に(申し上げたのは)、「以前本田下野守が申し上げられたと思うのですが


麟蔵主と申候令徃菱苅へ被居候彼人御陳中ニ

込物過分ニ進上被申候彼僧へ一寺は候へかしと

申上候兎角老名敷中談合次第之由候

左候ハゝ明朝取成可申由申候麟蔵主ハ濟家之

叓ニ候間大安寺被遣候今一人ヘハ洞家候間東

光寺之由候

麟蔵主と申すのを菱刈へ行かせ、居られています。かの人は陣中に込物を過分に進上されています。かの僧へ一寺は遣わしていただけないでしょうか」と申し上げた。(義久様からは)「とにかく御老中の談合次第」とのことだった。「それでしたら(拙者が)明朝に(御老中へ)取り成しします」とのことを申した。(御老中からは)「麟蔵主は臨済宗とのことなので大安寺を遣わされ、もう一人(先述の出家)へは曹洞宗なので東光寺を」とのことだった。