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一、廿一日如常出仕申候従入來院阿久根若狭守と
云使ニて被申候八月之时分山田之事上申由申候
其砌當佐之事被下爰迄下〻心存ニ
罷居候忝由候殊頃御請取被成候目出由被申候
二十一日、いつものように出仕した。入来院から阿久根若狭守という使いによって申された。「八月の頃、山田については進上するとのことを申しました。その際当佐(平佐?)については下され、今まで下々感謝して居ります。かたじけない」とのことだった。「特に近頃(入来院から進上した四ヶ所)を(義久様が)御請け取りなされ、めでたい」とのことを申された。
使者懸御目候而かへし申候御返叓ハ心得而申せと候
使者を(義久様の)御目に懸けて帰した。「(義久様から拙者に入来院への)御返事は配慮して申せ」という。
一、此日御老中へ被仰出候明後日加世田へ御越可有候
御かへるさに伊集院へ御着被成候する其故は
伊集院當时※無心躰様ニ被聞召候※一ケ条可
被仰出御覚悟候村田平田之間ニ一人伊集院へ
被参候へと 上意候也召御老中へ申候両人
之間一人可被祗候由候
この日(二十一日)、御老中へ(義久様が)仰せ出られた。「明後日、加世田へ御越しする(行く)つもりだ。御帰りの途中に伊集院へ御着きなされる(着く)。その理由は、伊集院は現在心体無い様にお聞きになって(聞いて)いる。(私、義久様は)一件を仰せ出られる御心構えだ。(御老中の)村田(越前守経定)、平田(美濃守昌宗)の内一人が伊集院へ参られよ」との上意だった。お召しにより(拙者から)御老中へ申した。(御老中の返事は)「両人の内一人が伺候します」とのことだった。
※「無心躰」の「心体」は恐らく「心に思うところ」のような意味と思われるが、文脈から義久は伊集院の地頭か領主に対して不審や不満を抱いているように取れるかも知れない。詳細不明ながら永禄年間の地頭は島津孝久という人物が居たらしく、この記述当時も彼だったかは分からないが、この翌年には新たに町田久倍が新地頭となっている。
※「一ケ条」という言葉は入来院氏や薩州家の野心の噂の時、権執印座主の相論の時にも頻出している。懲罰や不利益を与える沙汰を指すような言葉なのかも知れない。
二十二日
一、廿二日如常出仕申候永𠮷此度御通之由候間
二十二日、いつものように出仕した。永吉を今回(義久様が)御通りするということなので
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御暇申候而此日永𠮷へ罷越候
御暇を申して、この日永吉へ赴いた。
二十三日
一、廿三日被下候手火矢にて鷹一仕候
二十三日、(義久様から)下された手火矢(鉄砲)で鷹一羽を仕留めた。
二十四日
一、廿四日なにたる事なく候地蔵へ参候
二十四日、何かある事もなかった。地蔵へ参拝した。
二十五日
一、廿五日加世田へ参候永𠮷御通之由候間雖見苦候恭安斎所へ申請度由阿多掃部助殿ニ而申上候
此度ハ御急ニ而候得とも御光儀被成一夜御逗留
有へき由候
二十五日、加世田へ参った。「永吉を御通りするとのことなので、見苦しいものですが恭安斎の所へお招きしたい」とのことを阿多掃部助殿により申し上げがあった。「今回(義久様は)御急ぎでありますが御来訪なされ、一夜御逗留あるでしょう」とのことだった。
二十六日
一、廿六日加世田より永𠮷のことく罷帰候
二十六日、加世田から永吉の方へ帰った。
二十七日
一、廿七日水鳥一仕候なにたる事なく候
二十七日、水鳥一羽仕留めた。(他には)何かある事もなかった。
二十八日
一、廿八日荒神へ参候なにたる事なく候
二十八日、荒神へ参詣した。(他には)何かある事もなかった。
二十九日
一、廿九日
日付のみで記述なし。
三十日
一、三十日水鳥一仕候別事なく候
三十日、水鳥一羽を仕留めた。特に変わったことはなかった。
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