東京裁判(極東国際軍事裁判)判決110 | 下関在住の素人バイオリン弾きのブログ

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張作霖元帥の殺害 (原資料9頁)

 張作霖元帥はその権力を万里の長城の南に拡大しようとして、田中首相の勧告を無視したばかりでなく、各種の条約と協定に基づいて取得した特権によって、日本が中国を搾取するのを許すことについて、次第に喜ばなくなってきたことを示した。元帥のこの態度によって、関東軍の一団の将校は、満州における日本の権益を伸張するために、武力を行使せねばならないと主張し、また元帥と交渉しても役に立たないという意見をもつようになった。しかし、田中首相としては、その目的を達成するためには、武力を実際に行使するよりも、むしろこれを行使するという威嚇にたよって、元帥との協力を続けた。元帥に対する関東軍の一部将校の右の憤激がはげしくなったので、関東軍高級参謀の河本大佐は、元帥の殺害を計画するように至った。この殺害の目的は、日本によって支配される新国家を満州に樹立することについて、その障害となっていた元帥を除き、その子である張学良を名目上の首班とすることにあった。

 1928年4月の後半に、元帥は蒋介石大元帥の国民党軍によって破られた。田中首相は、元帥に対して、手遅れとならないうちに、日本軍の線の背後の満州に引き上げるように勧告した。この勧告に対して、元帥は憤慨したが、これに従うほかはなかった。日本は敗退軍が満州に入ることを防止するという田中の声明に従って、関東軍は北平から奉天に向かって退却する中国軍の武装解除を行なった。元帥は護衛とともに、奉天行の列車に乗った。朝鮮から奉天に到着していた日本の第二十工兵連隊は、鉄道にダイナマイトの地雷を埋設し、日本軍の一大尉は、その地雷の周囲に兵を配置した。1928年6月4日、京奉鉄道が南満州鉄道の下を通る点に埋設された地雷に元帥の列車が近づいたとき、爆発が起こった。元帥の列車は破壊され、日本軍兵士は元帥の護衛に向かって発砲した。元帥は計画通り殺害された。全関東軍に対する警急集合命令を発令させ、この事件を利用して、その最初の目的を達成しようと企てられた。しかし、この努力は、この命令の発令を望む者たちの真の目的を理解していなかったと思われる一参謀将校によって妨げられ、失敗に終わった。

 田中内閣は不意打ちをくい、その計画が元帥の殺害によって危険に陥し入れられたのを見て、非常に困惑した。田中首相は天皇に詳細な報告をし、責任者を軍法会議に付する勅許を得た。かれは宮中から退出した後、陸軍大臣とその他の閣僚を招致し、陸軍の軍紀を粛正する決意であると述べた。その席にあった者はこれに同意したが、陸軍大臣が陸軍省でこの問題を討議したときには、同大臣は参謀本部側の強力な反対に力を添えてはどうかと言った。その後、陸軍大臣は首相に報告して、参謀本部の反対は、責任者を軍法会議にかければ、陸軍はその軍機事項の一部を公表しなければならなくなるだろうとの見解に基づくものであると述べた。元海軍大臣岡田の証言によれば、陸軍が政府の政策の樹立に乗り出してきたのはこれが初めであった。

 土肥原が後に重要な役割を演ずるように約束づけられていたところの舞台に登場したのは、このときであった。各種の中国人指導者の顧問を勤めていた坂西(「バンザイ」と振り仮名あり)中将の副官として、張作霖の殺害事件の前に、すでに約18年間をかれは中国で過ごしていた。1928年3月17日に、張作霖元帥の顧問であった松井七夫(「ナナオ」と振り仮名あり)の副官として任命されるように、土肥原は天皇に奏請し、その許可を得た。土肥原はこの任命に基づいて赴任し、張作霖元帥が殺害されたときは満州にいた。


通称ヤング・マーシャル、張学良元帥

 ヤング・マーシャルといわれた張学良が父の後を襲ったが、かれは関東軍にとって失望の種であることがわかった。かれは1928年12月に国民党と合体した。排日運動は組織的な規模で促進されるようになり、非常に激しくなった。中国の国権回復運動が盛んになった。南満州鉄道を回復し、また一般的に満州における日本の勢力を制限せよという要求があった。

 張作霖元帥が殺害されてから間もない1928年7月に、ヤング・マーシャル張学良と交渉するために、田中首相は個人的代表を派遣した。この代表は、張学良に対して、日本は満州をその前哨と見なすこと、また日本政府は『陰で』かれと協力するつもりであり、中国国民党軍による満州侵入を防止するために、田中内閣の『積極政策』に従って、どんな犠牲でも惜しまない用意があることを通告するように訓令されていた。これに対する張学良の回答は、前に述べた通り、国民党に合体することであった。


日華関係の緊張化

 満州における日華関係は極度に悪化した。日本側は中国との『通商条約』の違反がいくつかあったと主張した。南満州鉄道に対する中国の並行線敷設の案、在満日本人に対して不法課税があるとの主張、朝鮮人に対する圧迫があるとの主張、及び満州における日本臣民の借地権の否認などは、日本の扇動者の言葉によれば、すべて「満州問題」であった。軍部は外交交渉は無益であり、中国人を満州から駆逐し、日本の支配のもとに新政権を樹立するために、武力を行使しなければならないと主張した。1929年5月に関東軍参謀に任命されていた板垣は、武力行使の提唱者の一人であった。さきに張学良元帥を訪問し、南満州鉄道を代表して元帥と交渉することを企てたことがあった大川博士は、日本に帰って、1929年4月に50以上の行政区画を巡遊し、講演と映画の旅行を行なった。南を参謀次長とする参謀本部は、大川博士と協力し始め、国民を使嗾して中国に対する行動を起こさせようとするかれの宣伝計画について、大川に援助を与え始めた。参謀本部はまた満州における軍事行動のための計画の研究に着手し、満州は日本の『生命線』であると唱え始めた。



出典:JACAR(アジア歴史資料センター)資料名「A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.162)」(国立公文書館)

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