東京裁判(極東国際軍事裁判)判決111 | 下関在住の素人バイオリン弾きのブログ

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田中内閣の辞職 (原資料12頁)

 張作霖元帥の殺害の責任者を処罰しようとする田中内閣の努力は、軍部を離反させてしまった。文民の間に同内閣に対する反対をつくり出すために、軍部は大川博士と結託した。かれらは内閣を窮地に陥れる好機として、ケロッグ・ブリアン条約(付属書B-15)の調印を捕え、それが日本憲法違反であると主張し、また、内閣が承認した済南事件の解決条件を捕え、これを国辱であると主張した。この圧力がきわめて強くなったために、1929年7月1日に田中内閣は辞職した。

 田中内閣の辞職は、軍部とその民間代弁者である大川博士との顕著な勝利であった。この時から後、政府の政策に対するこの分子の影響力はだんだん強くなった。そして、日本は武力によって満州を占領し、ここに傀儡政府を樹立せねばならないというかれらの主張は、実を結ぶことになった。大川博士は政治的指導者として認められるようになり、南満州鉄道会社の役員は、かれらにとっての大川の価値を認識し、1929年7月に東亜研究所を同会社から分離して一つの法人をつくり、それによって、陸軍の満州占領計画を支持するために、大川が行なう調査と世論形成の事業を援助することにした。


『友好政策』の復活

 田中内閣のあとを継いだ濱口内閣は、1929年7月2日に組閣され、中国に対する『友好政策』をたえず唱道していた幣原男爵が、濱口首相によって外務大臣に選ばれた。『友好政策』は、武力を使用するという威嚇に基づく田中内閣の『積極政策』と異なり、善意と友誼を基礎とするものであった。『友好政策』の結果、中国側の日貨排斥は次第に下火になったのであって、軍部側の激越な扇動がなかったならば、正常な平和的関係が全面的に行なわれたかもしれない。


橋本と桜会

 橋本は、その著書『世界再建の道』の中で、大使館付き武官としてイスタンブールに3ヵ年間勤務していたことを述べているところで、他の国の政治的情勢について論じ、次のようにいっている。『日本だけは世界移動の渦中にありながら、依然として自由主義の圏内に立ち停まっていることが実に歴々として感ぜられる。もし日本が今日の状態で続けていくならば、国際社会の列から落伍してしまいはせぬかと考えた。このとき、幸いに帰朝命令に接した。航行三十余日の間に、私は日本をいかに改革すべきかということを、潜思熟考した。その結果多少の成案を得るに至ったのである。そして古巣の参謀本部に帰り、直ちに右の意見を実行するために、諸種の方法を講じた。』橋本は1930年1月30日に参謀本部付きとなった。

 1930年9月1日ないし10日の間に、当時陸軍大学校を卒業したばかりの十数名の陸軍大尉が、橋本中佐の主催のもとに、東京の偕行社に会合して、満蒙問題と国内改革を研究するために研究会を組織することを決定した。この研究会の究極の目的は、いわゆる『満州問題』とその他の懸案を解決するために、必要があれば、武力をもって国内の改造を行なうことであると後になって発表された。研究会には『桜会(桜会に傍点あり)』という名称が与えられ、その会員は、国家改造に関心を有する中佐以下の現役陸軍将校に限られていた。


日本の『生命線』としての満州

 橋本が参謀本部に帰任したとき、大川博士は東亜研究所と参謀本部の将校たちとの援助によって、宣伝活動に大童となっていた。満州は日本の『生命線』であるという思想、これに関してさらに強硬な政策をとらなければならないという思想を確立するために、新聞とその他の機関を通じて、宣伝が広く行なわれていた。軍部の指導者は、すべての論説記者、極端な国家主義的講演者、その他に対して、満州でいっそう侵略的な行動に出ることを支持する世論をつくるために、団結しなければならないという指示を与えた。満州は日本の『生命線』であり、日本は満州に進出し、これを経済と産業方面から開発し、ロシアに対する防衛としておし立て、既存の条約に基づく権利に従って、そこにある日本と日本国民の権益を保護しなければならないと軍部は主張した。日露戦争において、満州で日本人の血が流され、この犠牲からしても、日本は満州を支配する権利があるといって、感情に訴えた。満州における鉄道問題は、依然として盛んに論じられていた争点であった。大川博士は、『王道』に基づく国家を建設するために満州を南京から分離し、日本の支配下に置かなければならないと主張した。

 橋本は、『革新の必然性』という著書の中で、『王道』という言葉の意味をよく説明している。『政治、経済、文化、国防すべが天皇に帰一し、総力が一点に集中発揮せられるものたるを要する。殊に従来、自由主義ないしは社会主義によって指導編成せられし政治、経済、文化方面を、皇道一体主義(皇道一体主義に傍点あり)によって再編成することである。この体制は、最も強力にして雄渾なるものである。世界国多しといえども、天皇を中心に帰一一体となれる国民の血脈的団結に比すべきものは断じてあり得ないのである』とかれは述べている。

 日本と満州の不可分的な関係のもとに、独立の満州が『王道』に基づいて建設された後には、日本はアジア民族の盟主になることができるというのが大川の思想であった。

 1930年4月1日、参謀本部内に一般調査班が設けられた。関東軍調査班は満州の資源、民情及びその他の類似した調査問題を調べるのに、不充分であると考えられたからである。

 旅順の関東軍司令部あたりでは、当時参謀将校の間の話題の中心は『満州問題』であった。その参謀将校の一人であった板垣は、この問題を解決するについて、ある程度のはっきりした考えを持っており、1930年5月にそれをある友人に話した。中国と日本との間には、多数の未解決の問題が存在しているが、これらの問題は非常に重大であるから、外交的手段によっては解決が不可能であり、武力を用いるほかないとかれはいった。新国家を『王道』の理想に基づいて建設するために、張学良元帥を満州から駆逐しなければならないという意見をかれは表明した。



出典:JACAR(アジア歴史資料センター)資料名「A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.162)」(国立公文書館)

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