『オッペンハイマー』初回鑑賞記 |   SHOWBOAT~舞台船~

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3月29日から公開された『オッペンハイマー』、日本で公開されたら見ようと決めていたので、初日にしっかり観てきました。






180分の長尺でしたが、テンポ良く時間が行き来するのと冗長に感じる所が一切なく、一瞬も目が離せませんでした。

英語が理解出来て良かったと思いました。

字幕を追ってしまって見逃す所が出るのは嫌だったので。


結論から言うと、日本公開前にされていた「広島や長崎の原爆被害が表現されていない」と言った批判については、この映画をしっかり観ていれば、理解しようとしていれば出てこない批判かなと思います。

一場面を切り取って、もしくは作品のテーマを理解しょうと努めることもなく、被害者意識から「これが無いとダメ!」と言うのはあまりにも過剰反応だし独善的。


ここから先はネタバレを含みます。

まだ観ていないのでネタバレは読みたくない!と言う方は読むのを避けてください。


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この作品が見せている核兵器の恐怖は、広島や長崎以上の物です。

トリニティ実験までの間に何度も出てくる「Nearly Zero(ほとんどゼロ)」という言葉は、その低い可能性が起こってしまった場合を想起させ具体的にイメージさせる方向に、表現されています。

それは、世界の破壊です。

原爆制作に当たり、大気への延焼、引火の可能性がNearly Zeroと語られるのですが、地球を覆う大気への延焼、引火は世界が広島、長崎のようになる事、即ち世界の破壊を意味します。

制作チームで計算して出された結果として語られ、それはトリニティ実験直前のオッペンハイマーへの「世界を破壊しないでくれよ」というグローヴスのセリフや、人類初の核兵器実験でボタンを目の前にするスタッフの動揺からも、核兵器を詳しく知っている人達だけが知っている恐怖がよく表現されています。

何も知らず実験の成功に歓喜する人達の中にあって、知っていた者、恐怖していた者だけは喜ぶ事が出来ない。


そして、広島への投下予定日が知らされていたにも関わらず、その前にも当日にも何の連絡がないことに焦りや苛立ちを隠せないオッペンハイマーが、広島に原爆を投下したというトルーマンのラジオ演説を聞いた時のリアクション。

そのニュースを聞いて歓喜する人々の前に立ったオッペンハイマーは、喜んで声を上げる群衆の顔に広島、長崎の被害のイメージを見る。

喜んで笑っているはずの人の顔の皮膚が溶けて剥がれ落ちるようなイメージ。

喜んでいるはずの人々が絶望して泣いているイメージ。

歓声は耳に入らず、本来起こっている現実に合わせるように勇ましい事を言っても、オッペンハイマーの中の被害のイメージは消えないし、群衆の歓喜の声も耳には入らない。

そして、広島、長崎の被害が映し出されなかったと批判される、被害のフィルム見る場面。映像は常にそのフィルムを見る客席が映されており、そこには他の人と違い一人だけスクリーンを見ず目を伏せているオッペンハイマーがいる。

この場面でそのフィルムを映してしまえば、あまりの悲劇に目を逸らしたように映ってしまう。

でも、この映画の中でのオッペンハイマーはそうではない。

フィルムなんか見るまでもなく、作った本人として既に頭の中に被害のイメージは見えている、もしかしたらフィルム以上の物が見えている。だから見ない。

私には沿う感じられました。


というのも、この映画の序盤に、実験は苦手で理論物理学者となるオッペンハイマーの若い頃のイメージの世界が大きく表現されます。

オッペンハイマーの頭の中に強くあるのは数式ではなく、理論という言葉から連想する言葉でもなく、イメージ。頭の中の映像。そのイメージ力の強いオッペンハイマーの頭の中には、フィルムを見る前から被害(もしくはそれ以上のもの)が映像となっていることは示唆されているので、映画を見る側は示されるそのイメージの入口を見て、更にその先をイメージすることを求められます。

演出上、この映画でリアルな広島や長崎の被害を映すことに意味は無いと私は思いました。

オッペンハイマーの頭の中にあるイメージを、与えられた数々のヒントから見る側が想像する事に意味があるんです。



確かにこの映画には、既にドイツが降伏した状態ながらオッペンハイマーが「まだ日本が残っている」として実験を推し進める場面が出てきます。

ここだけ切り取れば批判する人もいるかも知れませんが、ここで日本の降伏に核兵器を必要としないという意見を受けた時、オッペンハイマーはそこに真っ向から反論はしていません。

論点をずらして実験計画を進めるのです。

が、反対派から署名を求められたときのオッペンハイマーは大いに動揺していました。

「日本」はオッペンハイマーにとって実験遂行の為の方便でしか無いと感じる演出でした。



映画ではなく実際の話しとして、オッペンハイマーの弟は兄に関して、現実では使えないような威力のものを見せて戦争は無駄だと思わせたかった、といった主旨の話をしていたそうですが、この要素はこの映画でも表現されています。


原爆開発段階から出た水爆の意見にも積極的ではなく、実験遂行には積極的に見えながらも、Nearly Zeroについて科学者ではなく軍人の立場でマンハッタン計画を指揮していたグローヴス中将に伝える。

映画ではマット・デイモンが演じていましたが、史実では原爆投下の張本人はトルーマンではなくこのグローヴスという話もある人物です。

ルーズベルトの死によりトルーマンが大統領になった時には、既にマンハッタン計画は止められない所まで進んでおり、予想外のタイミングで大統領になったトルーマンが必要な情報を把握するのにアップアップだったことはグローヴスも語っています。投下する都市の候補を検討する会議にもトルーマンは出ていない。

実際には候補から外されましたが、グローヴスは候補に京都は外せないとしていた人物です。

原爆の量産まで考えていたとも言われています。

ここが、予習していた方がこの映画はより分かりやすいという1つのポイントで、映画ではオッペンハイマーは核兵器が世界を滅ぼす可能性がゼロではない事を、実験前にこのグローヴスに伝えるのです。

グローヴスも一瞬表情を変え「ゼロが良いな」とは言いますが、実験では「世界を壊すなよ」と伝え実験を再検討しようとはしません。

科学者のチームでNearly Zeroと言う計算結果を出した本人が、ゼロではない可能性に恐怖して本当に実験を行うのかと不安を口にする場面があるのに対し、グローヴスの「世界を壊すなよ」はなんとも軽い口調で言われる。


トリニティ実験の成功を受けて、笑顔の人達と笑えない人達の対比はまさにその恐怖を現実感を持ってイメージ出来ている人と、所詮これが落とされるのは遠い日本だろ、と現実感をもって捉えることのない想像力の欠如した人たちの差だと思いました。

とてもクリアに描かれています。


そして映画の終盤、水爆開発に反対の立場を取っていたオッペンハイマーは、この反対の意識を持った時期を聞かれ「(世界を破壊しかねない恐ろしい物でも)作ったら我々(人間)は使ってしまうと言うことが分かった時」と答えています。


そこで、弟がインタビューにかつて語ったとされる内容を予習で知っていた人は納得したと思います。

実験に拘ったのは、核兵器を作ることを求めている人こそがその恐怖を知る為に一度見る必要があるから。

その威力を目の当たりにして恐怖を味わう必要があるから。

だからこそグローヴスにもNearly Zeroと言う計算結果を実験前に伝える。

これは当然、その万が一が有り得るならトリニティ実験においても当然有り得るリスクとして説明されたものです。

それ以前にオッペンハイマーはグローヴスがMIT出身の技術将校であり、科学の素人ではない事にも言及しています。

つまり、科学者の考え方が伝わると信じてこの恐怖の可能性を伝えているんです。

それでも彼(軍)は実験を止めようとはしなかった。

それどころか、躊躇なく日本に投下する原爆が用意されロスアラモスから運び出されていく。

その異様な威力を目の当たりにしても笑顔になり、それを人に対して落とすと言う考えを変えることはなかった。

オッペンハイマーの弟は、オッペンハイマーがこの使ったという事実に絶望していたとも語っていますが、日本に投下されるために運び出されていく二つの大きな箱を見送るオッペンハイマーの失望感は、セリフはありませんでしたが良く伝わりました。



この映画を見て私が怖いと思ったのは、グローヴスは悪人には見えない描かれ方をしていると言うことです。

どこか人情的にさえ映るキャラクターとして演じられていたんです。

でも史実を知っている人は、この人がより破壊の効果を求めて京都に原爆投下したがっていたこと、原爆投下に積極的であったことを知っています。

史実だけを見ると冷酷に思える人が、人情的に描かれている事に妙なリアルを感じ、怖くなるんです。

とんでもない悪人や冷酷な人間が核兵器のようなとんでもない物の開発や使用を強く求めたのではなく、根は良い人でも、その結果をリアリティを持って身近に想像出来ない人間は、恐ろしい考えを躊躇なく推し進めてしまえる。

そんなふうに感じる怖さです。

ここに、どこか根の優しさを感じさせるマット・デイモンのキャスティングは、そういう狙いなのかどうかはわかりませんが、絶妙でした。


映画そのものは、戦後原子力委員会委員長となったルイス•ストローズがオッペンハイマーから機密事項へのアクセス権を奪う為に働かせた策略とその審問を軸に描かれていますが、私は個人的にストローズのような分かりやすい悪役が大きく出てくることで、悪意の無い無邪気な笑顔を原爆投下のニュースを受けて見せていた人々や、ヤバさを伝えられてもまるで普通の兵器でも扱うように中心となって計画を進めたグローヴスの方が怖い、と言うか不気味に感じました。

ストローズ役のロバート・ダウニー・Jrはアカデミー賞で助演男優賞を獲りましたが、作品と役に恵まれたなと思いました。

もちろん良い俳優ですが、個人的にはトルーマン役で出演していたゲイリー・オールドマンがストローズを演ったらどんなだったろうかと思ってしまいました。でも、逆にポイント出演のトルーマン役がダウニーJrだったらトルーマンはどうなったかと考えると、やはりあの役はゲイリー・オールドマンの方が良いと思うので、良いキャスティングだったなという結論です。


主演のキリアン・マーフィーは文句無しに素晴らしかった。

素晴らしくて、どこか良かったと挙げるのは難しいですね。良くなかったところを見つけられなかったので。


クリストファー・ノーラン監督の映像表現は見事でした。

見せるのはヒントで、本当に大切な事を想像させるような作りだったと思います。

ノーラン監督はデジタルではなくフィルムでの撮影にこだわり、CGに過度な依存もしない監督だそうですが、トリニティ実験の場面は本当に緊迫感が凄かった。

途中オッペンハイマーに「心臓に悪い」というセリフがありましたが、観てた人は全員「こっちのセリフだ」と思ったのではないでしょうか。

映像と音響効果も相まって凄まじい臨場感があり、爆発の瞬間が無音で後から音や爆風がやって来る演出にも、見てはいけないものを見てしまった感がありました。

あれを見て、投下された場所の被害を想像出来ない人は、想像力皆無なのか?と疑いたくなるほどです。


この映画を観て「被害の描写をしていない」と批判する人達は、あの実験をリアルタイムで実際に見ても「人に使って良い」と考えてしまった人達と想像力の面ではそこまで大差ないと思います。

被害者側にいるからNoと言えているだけで、アメリカ人だったら肯定している可能性もゼロではない。

どんな立場であれ「こんな物使っちゃダメだろ」と、実験の場面だけで十分に思わせる映像でしたし、その想像力のある人には、その場にいた人達のリアクションを見て笑顔で喜ぶ人達に寒気を覚えるほどの恐怖を感じ、とても笑える状態ではなく実験場の方を見つめる人達に共感し、安堵したと思います。

ここでの共感ポイントはこの映画の1つの肝だと思います。

少い知識故に原爆投下を正当化している人達の中にも、この実験の場面を見て「これを人に使うって正当化しちゃダメなレベルの物じゃないか」という感覚が芽生えた人はいたと信じたい。

現実世界で水爆開発に尽力した人の中にはトリニティ実験を見て「この程度か」という感想を述べたと言われる人も含まれています。

自身の持ちうる知識と想像力によってはリスクはリスクに見えないのだな、とつくづく感じた場面でした。

アメリカ映画にありがちな派手な大爆発シーンとはレベルが違います。

爆発させるまでに精神的不安を煽る演出も巧みです。


かなりとっ散らかった感想になりましたが、細かいセリフにもその後の言葉を補完したりする要素に溢れていますし、詰め込まれている要素もとても多いので、映画そのものの理解を深めるうえでももう一度は観たいと考えています。