「知っている」は「知らない」と同義 | 坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

反抗しているんじゃない。反抗期が続いているだけなのさ。

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物事に対して、「それは知っている。」と認識してしまっていることは多々あります。


しかし、それを本当に知っているのか?となると我ながら、かなり疑わしい、と思う

ことも比例してあります。


私は「つらら」という存在は、今までにも知っているという認識をしていましたが、

実際に「つらら」のある場所に連れて行ってもらって、その場の寒さや冷たさや光景、

実際の「つらら」の大小様々な形や、その硬さやモロさ、感触や味に至るまで、

それらを経験してみると、それまでの「知っている」と認識していた「つらら」は、

「知らなかった」のだという認識に変わることに気づかされます。


「知っている」と認識していることは、すなわち「知らない」ことと同義でもあり、

その狭間は、あまりに儚くおぼろであると、こんな時に思えてくるのです。


たかが一人の人生において「知る」という限界はあるものの、だから先人は、「若い

うちに多くを経験し、世の中をたくさん観て見聞を広めよ。」と言っていたのだとも

思うし、人一人の体験・経験というのは、それだけで絶対的な価値が宿っていると

思えてしかたありません。


と、いうことなど、まるで考えずに、ちょうど良い大きさの「つらら」を見つけて、

大はしゃぎで、万有引力に逆らった画像を撮りたくてしかたなかった写真に対して、

後付け大論を必死で考えて、どうせなら「常識を疑ってみよう」という方向で書けば

良かったかな?と思いながらの更新です(笑)。



こうなると何でもアリなんじゃねーか?(苦笑)
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