【御朱印なし】
補陀落山寺のすぐお隣にある神社です。
かつては渚の宮・浜の宮王子社と称されていたので海岸線が近かったのね◡̈
かつては祭祀のたびに祭壇を建て直していたお宮で、
初めて社殿が造営されたのは第29代欽明天皇の24年(563)と伝えられています。
第40代天武天皇の5年に大暴風雨で浜ノ宮王子社は流れましたが(熊野年代記より)、
慶安元年(1648)に社殿が再建されたことが社宝の棟札に残されています。
▲浜ノ宮王子社(跡)
▲割拝殿
(ここは和歌山ですが)奈良っぽく割拝殿の向こうの本殿に拝礼するスタイル!
御祭神は熊野三所権現 ٩( ・̀ω・́ )و
家津美御子大神(素盞嗚尊)
夫須美大神(伊邪那美尊)
速玉大神 (伊邪那岐尊) です。
昭和初期の文書に御祭神は天照皇大神・彦火火出見尊・大山祇命と記されていましたが、
御神体の仏さまがどう見ても熊野三所権現なので、
昭和62年神社庁の認可を受け御祭神と社名を大神社から熊野三所大神社に改称しています。
▲本殿
境内摂社は2社。
御祭神の丹敷戸吽神(にしきとべのかみ)は神武天皇が1度目の東征で出会った豪族。
「とべ(戸部・戸畔など)」とは大和政権成立以前の女首領を意味している言葉なのだそうです。
本来は摂社ではなくこの神さまを祀る神社だったのでは
▲摂社 丹敷戸吽神(地主神)
日本書紀に神武天皇の軍船が熊野の荒坂の津(丹敷の浦)に入った時に丹敷戸畔(にしきとべ)という者を討ったと書かれています。
↑わたしの読んでる日本書紀の漢字表記です
▲摂社 三狐神(食物ノ神)
本殿の前にもう一社こちらも摂社。
キツネの古名はケツなので御食津神(みけつかみ)と申し上げ、
お稲荷さんの神使はキツネさんなのです。
境内の一角には神武天皇頓宮碑が建っています。
日本書紀によるとこの辺りは天照大御神の子孫の高倉下が住んでいた場所なので、
神武天皇が神剣の布都御魂を手に入れたのはここら辺なのかも。
その後に八咫烏が登場します。
1,300年も前に朝廷が世界向け(当時の世界とは中国)として編纂した日本書紀に熊野の地名が「熊野の神(みわ)の邑(むら)」と登場し、
すでに神の坐す聖地なこと、
そしてこの地の支配者の名前がチラッとでも載っていることがすごい。
よほど重要な豪族だったのでしょう。
補陀落山寺のお隣だからと参拝した神社でしたがわたし的に神武東征を辿る大きな手がかりとなったのでした〜(大げさw)。
◆熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮350
本務神社→八幡神社(勝浦)
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字勝浦859