甲城山常福院(半田市岩滑) | ハニーちゃんがゆく!

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令和5年11月20日参拝

あれは美浜町の喫茶店だったと思いますが、本棚の新美南吉作品集を取って作者の生涯年表を読んだ。

生まれて間もなく亡くなった兄の名前「正八」と名付けられることから始まる波乱万丈な29年の人生。

さみしげな世界に温もりを探しているような空気感は大正から昭和の時代背景と複雑な生い立ちにあったのかも‥と心を打たれて数カ月後にゆかりの地を訪れることになるとは夢にも思わず。



岩滑(やなべ)とは成岩村と常滑村の合併で出来たなんとも難読な地名です。

半田をうろついた9月半ばに彼岸花の名所として有名な岩滑の矢勝川堤に辿り着けなかったとしょんぼりしてたら友達がくれた写真がこちら〜。



足元のタイルが案内板だった。

お目当ての常福院と南吉生家は同じ方面でとても助かる。



常福院は浄土宗西山派の寺院で本尊は阿弥陀如来。

永禄年間(1558-70)徳川家康の母方叔父にあたる岩滑城主中山勝時によって創建されました。

水野信元の妹(於大の妹でもある)婿となり岩滑城へ入った中山勝時がのちに中山城に居城を移したので跡地に寺を建てたということらしい。

山号は強そうな甲城山 (゜д゜)



「ごんぎつね」の冒頭から登場する中山さまとは中山勝時のことで、南吉は中山氏の子孫と家族ぐるみの付き合いがあったそうですよ。

中山城跡に新美南吉記念館が建っているというのもおもしろいご縁です。



中山氏に仕えた家老が植えたと伝えられる大ソテツ。

うちのソテツは見事に枯らして捨てるのにノコで刻んで袋に詰めて大騒ぎした思い出が ( ¯−¯ )



墓じまいコーナーの手前に建つ小さなお堂。



|ω・) 青面金剛が後ろ向きのサルみたいなショケラを持っているかわいい庚申塔でした。

石灰岩でしょうが屋根に守られて状態よし✨



石の阿弥陀如来ふっくらむちむち。



まだ時間が早いので近所を散歩しました。

常福院の斜め前に南吉の暮らした離れの跡(伊勢湾台風で倒壊してしまったそうです)。

生家とはおみおつけが冷めない距離です。



[ここでちょっと岩滑八幡社へ]


常福院から八幡社の境内を通り抜けて2〜3分で南吉の生家に到着しました。

中は意外と広いし半地下のお部屋があってなかなかいいおうちでした。

母親の病死、父親の再婚、生母の実家へ養子入りしてばーさんと二人暮らしからの出戻って実家の畳屋を手伝う、こんなに苦労した子供が学校の先生になるほど真っ直ぐ育つって奇跡じゃないかしら!



ひとまわりして常福院に戻り、御朱印は手漉き和紙の書置きでいただきました。

なんとなく貴重な和紙のような気がする。

「前は直書きしていたけど今は恥ずかしいから」とおっしゃる奥さんがかわいかったです。



こちらは〝直伝弘法〟の札所なんです。

お寺の奥さんによると、開創90年の時に先代が亡くなり、記念法要の合間に葬儀をするという大変お忙しかった記憶があるそうです。

※直伝弘法とは...
善通寺誕生寺貫主から四国直伝証をいただき大正14年(1925)に開創された知多四国とは別の八十八ヶ所。
なんと来年2025年は開創100年でないの!

 
サムネイル

南吉が遊びに来ていたのはお寺の境内が広かった頃で、常福院の整備が徐々に進み夏祭り会場が八幡社境内に移ってからは南吉の姿を見かけなくなったと先代の奥さんがおっしゃっていたそうです。

いろんな話を聞かせてくださり楽しい時間をありがとうございました。



常福院から車で10分程の北谷墓地という公営墓地に南吉の墓があると聞いてやってきました。



南吉は亡くなってからブレイクしたので親族はあわてて立派な単独墓を建てたそうです。

すぐ横に元の墓石らしきものが置かれていました。



養子になった新美家ではなくて渡辺家が改葬したのですね。

多蔵とは南吉の実の父です。

 

  法名 釈文成 俗名 正八 

  昭和18年3月22日歿 行年31才

  童話、詩、小説の作家 歿後名声高まる

  昭和35年12月 親子 渡辺多蔵   隆一



新美南吉は名誉などいらないから教師を続けたいと日記に書いていたそうです。

彼の作品で日本中の子供たちが学習していることを伝えてあげたい🙏✨



◼️甲城山常福院

愛知県半田市岩滑中町七丁目23

⬜︎北谷墓地

愛知県半田市柊町四丁目207-16