イエスの教え VOL11 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


今日は新約聖書の”ルカの福音書”のイエスキリストの言葉の引用です。

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イエスはこのようなたとえを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。
実を取りに来たが、何も見つからなかった。


そこで、ぶどう園の番人に言った。
『見なさい。三年もの間、やって来ては、
このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。


これを切り倒してしまいなさい。
何のために土地をふさいでいるのですか。』


番人は答えて言った。
『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。
木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。


もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
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創造主の法の理解が進んでいる方は
直ぐにここの例えの意味も判ったのではないかと思いますが、


ここで”主人”と呼ばれているのは創造主、正しくは創造主の法で、
”ぶどう園の番人”は”イエスキリスト”
そして”イチジクの木”は”地球社会の人間”を比喩で表現した物です。


そのまま放置しておけば、
主人によって取り除かれる事になったであろうイチジクの木を、


番人は、「木の周りを掘って肥やしを与えてみるから
そのままにしてやって下さい」と触れていますが


ここでの肥やしは”イエスの教え”と解釈できると思います。


つまり創造主の法の元で、
いつまで経っても実を成らすことのできないできの悪い私達人間、


いつまで経っても永遠性を示して卒業していくことが出来ないだけでなく
其の想いをドンドンと悪くしている私達に対して
創造主の法が適応し何らかの災いを引き起こしそうな状態の時に、


地球社会の守護者であった人間達は地球に救いの手を差し伸べて
その社会に対して肥やし=イエスキリストの福音を与えることで
実を成らせる機会を作り、


創造主の法が発動するのを防ぎ、人々の実を成らせようとした。。。


つまりは永遠性を示させる機会を作り出そうとしているという、


イエスキリストが2000年前に地球社会に対して働きかけた事の目的を
例え話にして語った物だと受け止めることが出来ます。


創造主は私達が為した行動に対して
今その意志を持って罰されるわけではありません。


私達の社会を取り巻いている創造主の法が、長い時間を通じて、
結果的に私達の社会に対して地道に働きかかることになるわけで
創造主の法は私達の行動次第で毒にも薬にもなるものです。


長い期間延々と悪しき思い、エゴの想い、肉の想いに
囚われて生きてきた私達の地球社会の環境が
人間の心にとって良くない物と成っているのは


そこで暮らしてきた私達の想いがそのまま創造主の法を通じて
地球社会の環境に働きかけてきた結果のはずです。


例えばその惑星の自然環境の周波数に影響を与えるのは
私達の想念だということでした。


地球社会と天使達の暮らしている社会とは
その取り巻く周波数でさえ異なるはずです。


地球社会の低い周波数は私達の脳とも連動しているようですが、
10HZ程度の周波数を地球の周波数としている原因の一つは
私達が常に発している想念の低い波動の影響だといえます。


私達の想いがその社会を作ると言うのは
見えない精神的な話ではなくて物理的な事実だと言うことになります。


私達が悪しき想いを持ってエゴを持って暮らして来たために
地球社会に与えている影響がどんどんと悪いものへと変貌している。

地球社会の波動をドンドンと下げ続けている。


創造主の法の下では良き想いがその社会を天国へと変え
悪しき想いがその社会をこの地球のような地獄社会へと
変貌することにもなるのだと言うことです。
(想いに行動がついてくる事は言うまでもありませんが)


更に、創造主の意志からかけ離れてしまい
永遠性を示すことが出来なくなれば
人間であれ社会であれそれは存続し続けることが出来なくなる。


あまりにも低すぎる波動は、創造主の法の下では
延々と存在することが出来ないのかもしれません。


つまり地獄と化した環境が行き着く果ては
創造主の法の負の効果の極みで、
人間であれば魂の消滅、文明であれば崩壊と言うことになります。


それは今創造主がその意志を持って為すのではなくて
私達がその意識を勝手に悪化させているために
元々存在している創造主の法に抵触する事を意味するはずです。


2000年前にその兆候を感じ、この社会の改善を願った天使達は
ここでのイエスキリストの例えの様な意図を持って


自分達の同胞であるこの社会が、
主人によって取り除かれないように肥やしを与えにきた。


そして当時はその恩恵に直接預かった人間達も居たと言う話になりますし
最悪の事態には至らずに済んだ、


もしくは天使達は地球社会にその兆候を感じた事で
早急に手を打ったのではないでしょうか。

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イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。
しかし神は、あなたがたの心をご存じです。
人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。

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イエスキリストは、他人の前で自分を美化し偉いと思わせる人間や、
心の想いとは裏腹に人前では自分を善人であると示してみせる人間達を
”偽善者”と呼んで、その行動と想いの異なっていることを
繰り返し指摘していました。


当時のユダヤ教社会では、形式的とも言える行為だけを守れば
それでその人間は神の前に義であると看做されていました。


10分の1献金を収め、割礼を受け、安息日を守り、絶食をし、
モーセの10戒を守り、そして昔からの先祖の述べ伝えていた習慣を
守ることでその人間は義とされたわけです。


そして祈りを捧げる行為も同様だと思います。


その多くは他人の目から確認する事の出来るものばかりで
それは形式的に判断する事が出来るものです。


目でそれを確認することで人々は其の行為を持って
人を義とも罪人とも判断したのです。


しかし私達人間にとって大切なのは
形式事を守ることではありません。


大切なのは心のあり方であり
いくら形式事をきちんと守って見せて
当時の人間社会の価値観では他人から義と看做されようが、


他人から偉いとか信仰が強い人間であると思われようが、


その心に持っている想いが汚なければ
その人間は神の前に義ではないのです。


(私に汚い思いを持たせようと精神汚染が施されます。
ユダヤ傀儡によってです)


しかし当時のユダヤ教社会の中で
人々の信頼を得て天国に近い人間とされていたのは、


そんな形式ばった事だけはしっかり守り
一方では私利私欲を持って私服を肥やし
権力をも握っていた人間達でした。


形式ごとを重視し、他人の目に見えるものだけはしっかりとこなし
他人の尊敬を受けていたそんな人間達を
イエスキリストは繰り返し批判していました。


そしてそんな人間達の事を語っているのが
この一節だと思います。


目に見えるものに囚われて、
目に見えないものが理解できないこの社会の人間にしてみれば


立派な法衣でも着て、人々の前でも長いお祈りをして見せて、
献金も果たし、絶食をもして見せて
決まりごとはすべて守っている人間は立派な人間であり義人です。


しかし私達は他人の心の中まで知ることは出来ません。


一方創造主の法において重視されるのは
その心の持ち方であり想いです。


人間が作り上げた形式的な慣習や戒律をすべて守ろうとも
創造主の戒律を守っていない人間は義と看做されることはありません。


心を持って肉の想いを持っていても形式ごとを守ることは出来ます。


しかし創造主の戒律を守ろうとすれば
私達は魂の想いに従わねばなりません。


創造主の想いを抱くよう勤めなければならないのです。


そこから出てくる想いは
エゴや欲や策略や驕りとは無縁のものです。


当時の権力者達の実態を見抜いていたイエスキリストは、


「自分達で新たに都合の良い戒律まで作り上げては
それを利用しながら自らは私服を肥やしていた人間達は
神の前では義ではない」


と言うことを皆に教えていたのです。


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イエスは弟子たちにこう言われた。
「つまずきが起こるのは避けられない。
だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。


この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、
そんな者は石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

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”躓き”というのは、イエスの教えや創造主の法を理解できない事です。


人間それぞれ持っている価値観や魂の資質や思考能力が異なっているために、
イエスの教えを信じることが出来ない人間
創造主の法を理解できない人間がいるのは仕方がない。。


しかし他人がそれを理解しようとしているのを
妨害するような行為をする人間は災いであると
イエスキリストが触れているわけです。


アダムスキーが創造主の法と、天使達の実態をこの社会に対して広報すると
それを隠蔽し理解させまいと、似て非なる情報を沢山ばら撒いては
一般市民が正しい認識を持つことを妨げている人間達がいました。


他人が真理へと到達する事を妨害する事になるそういう行為を
イエスキリストは”他人を躓かせる行為”と言って批判したのです。


【そんな者は石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。】


と言う例えは、もしもそんな行為を実行すれば
躓かせていた人間は溺れ死んでしまうことになりますし
その結果、その時の生を失うことに成りますが、


その方が”ましです”と言っているのですから


そんな行為をしている人間は
もっともっと大きな報いを受ける羽目になるのだと言うこと。


今の生で命を失う事はなくても、其のほうがマシであると思えるような
魂を失うとか、次の生では途轍もなく厳しい思いをする羽目になる。


そんな事を私は想像していました。


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「ふたりの人が、祈るために宮に上った。


ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。


パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、
姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』


ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、
自分の胸をたたいて言った。


『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』


あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるからです。」

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これは先述の、形式ごとを守っていることから
自らを義であると自負している人間と
自分の罪深さを理解してそれを反省している人間とを対比させて


創造主の法のあり方を示したものだと思います。


この社会の風潮に囚われて
法律や自らの戒律を守っている事で自分には罪は無いと考えている人間は


人間の戒律を守っていると言う自負のために
自分の行為を反省する機会はありません。


しかし真の創造主の法の下ではそんな人間の戒律など
魂の進化には何の役にも立ちません。


大切なのは形式ではなくて実質だからです。


例えば組織的犯罪の加害者であれば、
ハイテクで被害者を攻撃しようとも、それは法律で規制されていませんし
他人の目からもその行為は認識される事もありません。


そんな人間達はこの社会の中で他の形式事
人の作り上げた戒律を守っていれば義人とされることになります。


しかしその行為は他人に意図的に危害を加える悪意です。


悪意を持ってそれを実行し続け
それに反省を感じない人間を創造主の法が義人と看做すわけが無いのです。


その意味では、

組織的犯罪の実行犯ではなくて

それに指示を与えて上の方でふんぞり返っている人間ほど
罪悪感を感じる事が無くて済んでいるわけですし


反省の機会もなさそうですし、
創造主の法に覚醒する機会は少ないのだと思います。


自分の行為と想いの誤りに気がついた人間
そしてそれを反省し行動を変えることの出来る人間は
自分が罪を犯したことに気がつくことになります。


つまりは自分が罪人である自覚を持つ事にもなります。


その意味では平均的な一般人の心の想いよりも
創造主の想いに近づくことも出来るのかもしれません。


罪を自覚し反省する機会を持つことでです。


自分の行為や想いを何事に関しても正当化し反省の無い人間や、
自分を美化して自分は義人である、善人であると思い込んでいる人間ほど
創造主の意志からはかけ離れることになります。


つまりは自称義人は自称善人は
永遠の生へと進むことは難しいのだと言う事です。


繰り返しますが大切なのは想いであり実質であると言うこと。


形式ばった事をいくらこなそうとも
私達の魂の進化には何の役にも立たないということを
私達は深く理解しているはずです。


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しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。
中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。


しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。


あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。

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「世紀末にはどんなことが起こるのですか?」と質問されたイエスが
その返答の中で取り上げている一節です。


イエスの教えに従う人間は、ありとあらゆる困難に直面し
時には家族にまで裏切られ時には殺されるのだと言っています。


これはそのまま今のこの社会の実態でもあります。


闇政府の敵対者、闇政府の傀儡の敵対者とされた人間は
迫害され続けているのは想像に難くありませんし


今の社会の中では道徳心を持っているような人間ほど
目だって憂き目に遭うような社会が出来上がっていると思います。


私などは文字通り兄弟家族などの中には
闇政府の傀儡と化してしまった人間もいますし


友人には連絡も出来ませんし
表立って私を応援してくれるような人間もいません。


しかし魔の意識に囚われた社会の中では
私は自分と関わる人間が不幸にされることも理解していますので
それで良いと思ってもいます。。


そしてこの社会風潮はまだまだ先続いていきそうです。


支配者の意識が創造主の想いを否定しているのですから
その流れは容易には改善されないと思います。


その中であるべき姿に立ち返ろうと勤める事は至難の業ですし、
その行為によって時には迫害をも受けることになります。


しかしその結果どんな目に遭おうとも
正しいことを実践しようと勤めた人間は
髪の毛一本失うことなく次の生を迎える事になる。


今の生でどんな目に遭おうとも永遠の生を迎えることになれば
私達は何一つ失うことなく十分報われるのだと言う話です。


私達が其の多くを失うのは心のエゴです。


心が不快な想いを嫌う以上
私達は創造主の法に従おうとするだけでも
苦痛な想いを強いられることになります。


心は自分の価値観を否定することを不快に感じるからです。


その上に社会環境が更なる苦痛と不快を
私達に与え続けるかもしれません。


それに耐えれば私達は心を濁すことなく
魂を退化させること無く永遠を感じることになります。


真理を伝導しようと思えば、
それに対して忍耐が要求されるのだと
イエスキリストは言っているのだと思います。

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イエスは彼らに答えて言われた。
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」


そこで、ユダヤ人たちは言った。
「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

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神殿と言うものはどんな象徴なのか?


そこは人々が集まって神の教えを授けられるとされている場所です。


当時の人々が神の教えを学ぶ場所でもあったと思いますし
人々が大勢集い交流する場所でもあったはずです。


ここではイエスキリストは自分の体を持って
それと同じ機能を果たして見せると
例え話をしたのだと理解できます。


現にイエスキリストの周りには
大勢の人間が集ってはイエスの言葉を聴くことになりました。


そしてそこで与えれらているのは
創造主の法則、神の意志です。


イエスキリストは自分の身をもって
人を集め自分の教えで人々を導きました。


イエスキリストは歩く神殿だったと表現できます。


「三日でそれを建てると」いう例えは
三日あれば神殿同様に人を大勢集めて
そこで神の教えを述べ伝えて見せると言うことだと思います。


神殿の実質的な機能を
三日あれば自分の身をもって実現させて見せるとイエスは語ったのです。


そして形式ごとを嫌ったイエスキリストは
偶像をも嫌いました。


神殿があってもそこに生きた創造主の魂が存在しなければ
それは張りぼての偶像です。


更にイエスキリストは、
私達の中にこそ神の宮があり私達は生きた神の神殿であると
弟子達にも教えていたはずです。


人が其の手で作り上げて神聖と看做しているものに対しての
批判の意志もあったのだと思います。


イエスは岩の上に教会を立てるという例え話もしていました。


「確固たる信念と信仰の元に人々に福音を延べ伝える」


と言うことを例えた内容でした。


信仰の強さは「嵐が来ても流されない岩の上に建てた家」
と例えられる事もありました。


私達、イエスの教え=創造主の法を理解する者も


岩の上に教会を立てて
真の創造主の法を述べ伝えなければなりません。


当初はこの社会において創造主の法を語ることは危険で、
それを兄弟姉妹には勧めたくないとも私は感じていました。


でも、その意識を変えなければならいようです。


効果こそ2000年前のイエスの使徒に比べると
微々たる物しかないと思いますが
私達は時には決死隊でも良いのだと思います。


取り分け、時間の経過と共に意識を壊されそうな人間や
熱い意識を持っている人間は其の方が良いかもしれません。


考えてみれば私達はそのために覚醒したのだと思います。


天使達の想いをこの社会の中で実践するためにです。


私達が広報する事で直面する苦痛や不快感や苦労は
間違いなくそのまま私達にとっては大きな報酬となってもどってきます。


私は敢えて兄弟姉妹達に
共に苦労してくださいとお願いする気になりました。


既存の宗教や神への信仰では
創造主の下へと導くことが出来ないとも判断したからでもあります。


この社会の今の実態は
時間をかけてじわじわと人間の心をも変貌しようという
意図が感じられます。


その中に適応する事で
折角の理解を中断されたり進化を妨害されたり、
意志を捻じ曲げられる事もあると思います。


熱くも無く冷たくも無い人間を吐き出そうという
例えがありましたが、


私達はぬるい状態ほどその環境に流されやすいと思います。


そうなるくらいであれば
自分自身も熱かったり、冷たかったりするべきですし、
自分が置かれる環境もそのような物の方が良いのだと思います。


心がぬるい状態、熱くも冷たくも無い状態を
心地良いと感じそれに馴染むことで
私達はこの社会の灰色の世界に馴染む事に成りかねないからです。


冷たく冷静に自分を保ち続ける事の出来ない
私のような熱い人間であれば、ぬるくなってはいけないと思います。


そしてもう一つ、「知らないで実行出来なかった奉公人よりも
知って理解していながらそれを実行しなかった奉公人の方が大きく罰される」


と言うイエスの例えもあったはずです。


創造主の意志に気がつきながらそれを実践しない、
もしくは誤った行為を意図的に続ける人間ほど
受け取る事になる罪も大きいと言う例えでした。


皆が今までどのくらいの期間を
この社会の中で転生し続けてきたかは判りませんが
今与えられた覚醒の機会、永遠を示す機会を失って欲しくはありません。


恐怖と圧力(苦痛)から友愛(見かけの平穏)に変わった時に
そのギャップに騙されて


真の改善に進む事無く其の環境に適応させようと言う
闇政府の思惑に囚われないように
理解者と覚醒者の賢明な選択をお願いしたいと思います。


50年100年という時間は長く感じ
其の先を生きる機会を失う事を恐れるかもしれませんが


私達の今まで生きてきた時間、
そしてこれから迎える事になる永遠の時間を考えると
それはとても短いものです。


宇宙空間の長い歴史を考えるとそれは瞬き程度でしかありません。


そして天使達の社会の中で考えても
それは一回の人生の10分の1程度の時間でしかないのです。


この地球社会の中での体験を十分に果たし、そこでの課題を果たし、
カルマを清算出来た事で覚醒へと導かれたのだとしたら


私達は最低でも今の状態を維持しなければなりません。


そして何よりも、もしかしたら自らこの社会に志願してやって来た魂が
この社会の低い波動に囚われて其の虜となっていることを
天使達も憂いているのではないかと想像しています。


ケネディー大統領とヨハネス23世の手による地球改善の改革が
不発となったときに、天使達がこの社会に対して
実行可能となった事は限られたはずなのです。


例え前世が地球社会の劣等生であっても、
私達が記憶を持っての転生へと移ることが出来れば
天使達と同じ兄弟姉妹として暮らすことになりますし


前世が天使であってもこの社会に囚われてしまえば
次は劣等生としての生をこの社会で送ることになります。


其の事を忘れないで欲しいです。


天使達の想いが”創造主の想い”とイエスキリストが言っていた
”永遠の生”ならば、そして”社会の真の意味での改善”ならば
私達は其のきっかけこそを作らねばならないと思います。


そして私達が自分達にとって大きな課題を果たし
卒業していくことこそが


自分にとってもこの社会の多くの人間にとっても
大切な奉仕となるのではないでしょうか。


社会を根底から変えようと思えば
結果が灰色となろうとも白を目指さねばなりません。


最初から灰色を目指す意識では
良くないもの全てを妥協しかねないわけですし
結果は限りなく黒に近い灰色になります。


白を目指すつもりで改善の出来ないこの社会は
灰色にもなれないかもしれない。


そこに楔を打つことの出来るのは私達だけです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】



P.S

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覚醒者が覚醒を深くしようと勤めていれば、
そして創造主の法を語ろうと意識していれば、
その想いは天使達に必ず伝わって居ると思います。


彼らは私達が努力していれば
魂の進化へと導き続けてくれるはずです。


私達は見えない応援を受けて広報をすることができるのです。


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救世主イエスキリストが地球社会の人間として
再臨するかのような誘導をしている人間達がいます。


聖書の言葉を思い出してください。


イエスは自分の名を語る人間が大ぜい現れると
予言していました。


そして自分は天から雲に乗って稲妻のごとく
やってくるとも言っていたはずです。


私たちにとっての真の守護者であるオーソンさんは
この社会がそれを可能とした時に
宇宙船でこの社会に君臨するはずです。


偽物だらけの社会が作り出す
偽物の救世主に惑わされても誰も永遠の生には入れない。。


どんどんと巧みになっている地球の法則の工作に
惑わされる事がないように
しっかりと魂の意識の経路の進化を進めてください。


そしてオーソンさんは
天国行きのチケットを届けにくるわけでも、


特定の人間を宇宙船に乗せるために来るわけでもないことを
私達は忘れてはいけません。


真のキリスト(真理)が救うのは私たちの魂です。


自らの努力なしには誰も救われることは無いのです。


心を心地良くしてくれるだけの
ありがたい?救世主にはご用心ください。


オーソンさんの再臨は、この社会の
今後の改善に掛かっていることを忘れないで欲しいです。