QUEEN⑰ | QUEEN考察

QUEEN考察

QUEEN好きの好き勝手です

 





QUEEN⑯より続きます。

再びライブでのシーンです。

映画で使われている「Now I'm Here 」の音源は1975年12月24日のロンドン、ハマースミス・オデオンでのもので、2015年にCD/DVDとして発売されています。
現在も継続して入手出来る当時の貴重な資料です。


Night At The Odeon -hammersmith 1975: オデオンの夜 ~ハマースミス1975 (+DVD)(限定盤)


コンサートは「A Night At The Opera」(オペラ座の夜)発表直後のイギリス・ツアー最終日。
クリスマス・コンサートとして収録されました。


QUEEN⑯でも書きましたが、QUEENにとって初のアメリカ上陸は、モット・ザ・フープルのオープニング・アクトとしてのものでした。

                 ~ Now I'm Here ~

「Now I'm Here」の歌詞の中には

"Down in the city just Hoople 'n' me"

 という箇所があり、モット・ザ・フープルへの敬意が込められています。





映画の中で使われている
「Bohemian Rhapsody」
「Now I'm Here」
のライヴ・シーンは衣装や照明から推測すると1977年から1978年ごろのステージを参考にしているように思えます。

ブルーレイ/DVDの特典映像には、ブライアンやロジャーから衣装を借りたとコメントもあります。

 




ツアーを終え、自宅に帰ったフレディーがメアリーに「Love Of My Life」を観客が一緒に歌ってくれているビデオを見せています。


このシーンに使われている映像そのものは、1985年1月18日の『Rock in Rio』のもの。
時系列でいえば、未来の映像を見ている事になりますね。





「Love Of My Life」は南米で特に人気が高い曲で『Rcok in Rio』では25万人の観客が一緒に歌いました。
まさに鳥肌ものです。

この曲がツアー・ライブで演奏される時は、ほぼブライアンのアコースティック・ギターのみの伴奏で歌われます。

1977年の11月に始まったアメリカ・ツアーからライブで披露されるようになったとされています。

1979年の『Queen Live Killers』に収録されたバージョンは1979年2月2日のドイツ、フランクフルト公演のもので、同年6月29日にシングルカットされました。

イギリスでは最高位63位でしたが、アルゼンチンとブラジルのチャートでは1位となっています。






このシーンで描かれる、フレディがメアリーに”告白”をしたのは1976年だとメアリー自身が告白しています。

 「僕はバイセクシャルだと思う」と本人が認めたのは、1976年のこと。「違うわ、フレディー。あなたはゲイよ」

イギリスの日刊紙に彼女が語ったところによると、メアリーはフレディにそう答えたと言う。その後、ふたりはきっぱりと婚約を解消した。しかし、それでもふたりの間の絆が絶たれることはなかった。

詳しくはQUEEN④にも書いてありますのでご覧下さい。



シーンは、ヒゲを蓄え始めたフレディがロジャーに新居を案内するシーンに変わります。

ロジャーとのやり取りにクスッと笑えるシーンですね。




実際にフレディがヒゲを生やしている姿になったのは1980年頃からです。


新居には猫のためのスペースがあり、猫の名前がいくつか挙げられ、その中に「Delilah」(デライラ)という名前の猫がいることが聞き取れます。

デライラは、史実によれば1987年頃から飼われています。
フレディーと猫についてはQUEENと題した一番最初の記事に書いてありますので、そちらも参照下さい。


1991年に発売されたアルバム「Inuuendo」(イニュエンドゥ)には「Delilah」(愛しきデライラ)という曲が収録されており、フレディの愛猫への溺愛ぷりが見て取れます。
 
                         ~ Delilah ~


曲の後半に猫の鳴き声をギターで再現してしまう、ブライアンのあくなき音への探求心も見事としか言い様がありません。




映画をご覧になった方なら感じたと思いますが、映画「ボヘミアン・ラプソディ」はストーリーのそこここに美麗な猫の姿と愛らしい表情、愛情などを感じられるシーンがあります。

ある意味、猫映画でもあるのかもしれません。

なので私も猫ブログにQUEENを書いているというおかしな行動に出ているのです。(笑)



映画ではパーティーのシーンに変わり、他のメンバーとの軋轢やギャップが描かれていきます。

フレディの服装で1985年のミュンヘンでの誕生日パーティーがモチーフとなっていると思われるます。

パーティーといえば、1978年の『Jazz』のリリース・パーティでも、同様のパーティをアメリカで開催しています。

たまに派手なドンチャン騒ぎをするのはフレディーの気まぐれでもあったようで、こういった行動はマスメディアが騒ぎたてる一番の要因だったように思えます。

しかし、映画のように他のメンバーたちが嫌悪していたという事実もなく、ブライアンもロジャーもジョンさえも楽しんでいた。というのが本当のところのようです。


「Crazy Little Thing Called Love」(愛という名の欲望)は1980年のアルバム『The Game』に収録されていますが、これはのちに収録されたという表現が正しく、先行シングルとして1979年10月にリリースされています。

年代順に少し整理をすると、

1979年4月 3度目の日本公演。

1979年6月 『Live Killers』からのシングル「Love of My Life」発売

1979年6月 アルバム『The Game』のための製作開始

1979年10月 シングル「Crazy Little Thing Called Love」発売

当時のほとんどのクイーン・ファンがこのサウンドの変化に驚いたものですが、アメリカでは実に好意的に受け取られ「Bohemian Rhapsody」も「We Are The Champions」も成しえなかった全米1位を獲得します。

1980年1月には「Save Me」
同年5月には「Play The Game」
がシングルとして発売され、アルバム『The Game』は6月に発売されました。


今までクイーンはシングルはあくまでアルバムが完成してからどれにするかを決めるやり方を取ってきたため、このリリース順も大きな変化と捉えられました。


                     (愛という名の欲望)


この曲はお風呂に入っている15分で作った曲だとフレディは語っていて、映画の中でもそのシーンは撮影されたようですが、残念ながらカットされているようです。

Live Aidでも実際に演奏されていますが、そのシーンも映画ではカットされています。
ブルーレイ/DVDなどには特典映像としてLive Aidの完全版が収録されているので、そちらで楽しむのも良いでしょう。

「Crazy Little Thing Called Love」邦題(愛という名の欲望)は1979年10月5日にリリースされ2位を記録するなどイギリスでは順調な滑り出しを見せていますが、“本命”だったはずのアメリカでは販売元のエレクトラ・レコードの反対でシングル・カットさえされませんでした。

そのまま埋没してしまう危機を救ったのはアメリカのラジオ局で、彼らがイギリスから輸入された音源を次々と流したことから人気が広まっていき、約2カ月遅れの12月7日にようやくアメリカでもシングルが発売される運びとなります。

「Crazy Little Thing Called Love」(愛という名の欲望)には、もうひとつ逸話があります。

それは 1975年から息子であるショーンの子育てに専念し、ハウス・ハズバンドとして生活してきた元ビートルズのジョン・レノンがまた音楽を作ろうと思ったきっかけになった曲ともいわれているのです。




当時こうしたオールディーズ(ネオロカビリー)に人気再燃の兆しがありましたが、これには1977年のエルヴィスの逝去も大いに影響があり、エルヴィスの大ファンであるジョン・レノンも1980年の復帰作「スターティング・オーヴァー」で“巻き舌”を披露していました。
これについてロジャーやブライアンは、“ジョン・レノンの復帰は「愛という名の欲望」に触発されたため”だと言及しています。

1982年リリースの「Hot Space」には2曲のジョン・レノンへの追悼曲が収められていて、フレディーにしてみれば、
「自分が敬愛したジョン・レノンが、自分の曲によって音楽活動を再スタートさせたために殺されてしまった」

そう感じたのですね。



話が少し脱線しましたが、パーティーの終わった後片付けのシーンでフレディーとジム・ハットンとの出会いがあります。

が、二人が出会ったのはずっと後、1984年です。

その頃のジム・ハットンの本当の職業は理容師でした。






「We Will Rock You」の誕生


「We Will Rock You」は1977年10月にアルバム「News Of The World」(世界に捧ぐ)からの先行シングルとして「We Are The Champions」(伝説のチャンピオン)との両A面という形でリリースされました。

1977年のとあるQUEENライブ終盤で、観客がサッカーのリヴァプールFCのサポーターソングである歌をアンコール前に大合唱しました。

これに感銘を受けたブライアンは、観客と一体になれる曲を作ろうと思い立ち、制作されました。

メンバーそれぞれの奥方が一同に介してレコーディングが行われた・・・というのは疑問ではありますが、曲への発想とはああいった形だったのだろうと想像出来ます。

実際のQUEENのライブでは「Fast Version」というのがあり、1980年代前半のコンサートのオープニングで演奏されることが多かったように思えます。


Live Aidでもこの曲自体は演奏されていますが、映画ではカットされています。
こちらもブルーレイ/DVDの特典映像として見る事が出来ます。



そして、いよいよ時系列がややこしくなります。

ポール・プレンターがジョン・リードに「CBSからフレディーにソロの話が来ている」と伝えるシーン。

1978年1月にジョン・リードとクイーンのマネージメント契約は解消されました。

フレディーのロールスロイスの中で契約解消・・・というのは、史実として伝えられていることと同一です。

ただし映画のようなやりとりがあったかどうかは明らかにされていません。

史実ではその後、ジョン・ディーコンが中心となってマネージメントの再考がなされ、1978年の初頭にジム・ビーチとQUEENでクイーン・プロダクションを設立しています。

またソロに関していえば、フレディ以前に1981年、ロジャーがソロデビューをしており、この時点で既に2枚のソロアルバムをリリースしていました。
そのため「フレディだけがソロ活動をした」というのも、映画オリジナルのストーリーです。

さらに余談を重ねますが、実はフレディはQueenとしてデビューする直前にラリー・ルレックスという名前でソロ作品をリリースしています。当然ながら全く売れず、すぐにQueenの活動がメインになったことは言うまでもありません。


Fun in Space 1981 Roger Taylor