人の「こころの弱さ」と向き合う | ドット模様のくつ底

ドット模様のくつ底

奈良が好きなライターの瞬間ブッダな日々の記録。
福祉的な目線から心の問題を考えています。

中島知子さんの一連のニュースでかなり多くの方が

「洗脳」について、

何かしらのことを考えさせられたのではないでしょうか。


この騒動については報道に対する占い師側の反論があり、

中島さん周辺の方の話はともかく、ご本人の会見がいまだにないので、

真偽のほどはいかに?という状態ですし、

どうこう言えることではないのですが、


私は「信仰」と「洗脳」について少しだけ考えてみました。


「信仰」というのは、人を信じることがすでに「信仰」であると言われる通り、

見えないところで誰のこころの中にもあることです。


そのこころの中が

「洗脳」されるのは「こころの弱さ」が原因なんですよね。

私のブログ仲間さんなどは

自身で発信する能力も高く、

行動力もあります。


たとえ、「こころの弱さ」をご自身が抱えているとしても、

自分で解決する手段を持っているように見受けられます。


旅行へ行ったり、美味しいもの食べたり、

ブログで言いたいことを発信してストレス発散?したり。。。


(え?違いますか??)




ここで言う、

「こころの弱さ」について


私はどのように考えているかというと、


自分で気づいていない、

或いは気づけているようでその根っこの部分で

気づけていないがゆえに、


自分の核となる部分(自分軸)が揺さぶられてしまうことにより、


マインドコントロールをされてしまうことだと考えています。


それにより何かに「洗脳」されてしまうんですよね。



私はよく宗教家の方とお話する機会がありますが、


自分の在るべき様を気づかせてくださる

「鏡」のような存在である人がおられます。


そのような人が、誰かの「こころの弱さ」に向き合って、

その解決ができるようにサポートされていたりします。


宗教家に限らず、

誰かに相談を受ける方はそのような存在なのではないかと思います。


それは決してマインドコントロールをされるということではありませんし、

金銭などで解決されていません。


金銭を支払う場合もあるかもしれませんが、

それは相互の同意の上での契約であればいいと思っています。



「信仰」と「救済」というのはよくセットにされつつあるように思いますが、


まったく違うと私は思います。


「信仰」から自身が救いを求めて宗教に入るというのは、


極めて末期状態だということです。


「信仰」とは決して「救済」をもとめるものではなく、


自分のこころの中に「仏」様をつくることであり、


そしてそれを自分のこころに置き、

自分が問い正していくことなのだと言います。



お寺は本来、信仰の場ですが、


信者問わず拝観できるような解放されているところに、


自分の答えを探しに行ってみるというのも一つだと思います。