司馬遼太郎が宗教記者だったころ | ドット模様のくつ底

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奈良が好きなライターの瞬間ブッダな日々の記録。
福祉的な目線から心の問題を考えています。

上司海雲大僧正との対談録


「味楽談楽」より


(1970年代初頭の対談をまとめたものです)




司馬遼太郎氏は、


昭和25,6年ごろ、京都・西本願寺の西田氏に

「ええ人がおるから会うておけ」と言われ、


奈良・東大寺に上司海雲氏の自坊、

観音院(当時)を訪れます。


司馬氏が、

新聞社の京都支局に勤務していたときのことです。


その6年ほどの勤務の間、

宗教と大学を担当していたことで、

戦後の乱世を知らずに過ごすことになったといいます。


「今日は知恩院さんに行こう」

「今日は本願寺さんへ行こう」


そのほかは京都大学にいるような毎日でした。


「青春がお寺で埋まったようなものだ」(笑)と司馬氏。



司馬氏は上司氏に奈良の印象と

ご自身の宗教観について、こう語っています。



司馬氏:

「京都のお寺を見飽きた目で奈良の大和のお寺を見ると、

バイタリティがありますね」


「自然も、それから瓦につもっているゼニゴケも、


それらが活力のイメージになっているように思いました。


それで、建物が豪宕(ごうとう)な感じがいたしますし、


都がよそへ行ってから古うございましょう。


ですから、大和の大寺の人々は開き直ってお坊さんである

という感じがしますけれども、


京都はまだ政治臭が強い感じです。


そのうえ、自然にしても、みがき上げたみたいなところがあります。


嵐山でも双ケ岡でも、


あれは手の加わった自然でございますね。


大沢の池もつくったような池で、そばに大覚寺があって、


これはお公家さんの別荘みたいな、


お寺というよりも、日本人の美の意識の中で


丹念につくり上げたという感じです。


そこに弱さを感じるでしょう、つくりごとの弱さというようなものを。


それが、大和へ行きますと、やっぱり漢文の世界ですな」


上司氏:

「ああ、そうですか。われわれ大和に住んでいたら、


大和のそういう面はわからずに、


死んだ宗教だというような絶望感を持つんです」




司馬氏:

「宗教というのはどんなものかよくわかりませんが、


特に仏教というのはそこにお坊さんなりお寺が


存在しているだけでいいのではないでしょうか。


その存在の在り方がたいへん美しいとか、たのもしいとか、

たけだけしいとか、いろいろありますが、


いずれであってもいいので、存在していることが大きい。


キリスト教の場合は存在しているだけでは困るので、


中国の奥地まで行って布教宣伝する、


走り回るということが大事ですね。


ですから、日本のお坊さんがキリスト教のまねをして、


ハワイで走り回ったり、カリフォルニア走り回ったりするのは、


あまりいいことじゃないと思います。


ただ、たたずもうておられたらいいのに、こう思いますね(笑)」


上司氏:

「そうですか。安心しました」


(中略)


司馬氏:

「(明治以降、途絶えたものが多くある中で、

ずーっと生きて続いているものが好きという話から)


たとえば大覚寺さんというのは、


一山の管長をお出しになるのに、


二つの系統があるそうです。


北の政所がパトロンであった系統と、


淀殿がパトロンであった系統と、


いまだに両派迭立して出すらしいのです。


これは一見無意味なことのようですけれど、


わきから来てクーデターでも起こして

管長になるというようなことを避けるための秩序ですから、


これが永々と続いているというのは、


日本も捨てたものじゃないと、


戦後に思いました。


日本のいろんな価値が没落したときにも、


仏教がそれを続けているということの重さ、


これが極端にいったら民族のささえみたいになるわけで、


これはえらいものだなと思いました。






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1300年前から時代ごと、

最新の建築様式を取り入れながらも

受け継がれてきた建造物は、


もとは中国の様式を取り入れたものであったとしても、


そのもととなった様式がすでに中国には残されていないので、


日本の木造建築物が世界最古となっていたりしますね。


「時代ごと、最新の建築様式」が世界最古と言われるのは何故でしょう。


今の時代にも通じるお話でした。




それでは今日も一日、

皆さまが幸せでありますように。