市民が見つける金沢再発見 -2ページ目

私が金沢21世紀美術館に嵌まった理由❷見たり聞いたり

【金沢(金沢21世紀美術館)】

前回に引き続き、金沢21世紀美術館のお話です。私の「ボランティア体験談」原稿や見聞きし“メモったもの”を引っ張りだし、読み返し書きますが、聞き違い重複するところもあると思います。間違っていたらごめんなさいですが、ご存じの方にお教え戴ければ幸いです。今回は、設計建築についてまとめます。

 

金沢21世紀美術館の設計≫

新美術館建設のミッションは”新しい文化の創造“街の賑わい創出“で、当時、県庁と小・中学校の移転にともない空洞化した都心「賑わい創出」と云う大きな目的があり、元々現代アートメインに考えられたものではなく、美術館市民交流館2館(仮称広坂芸術街)を造ることが前提で始まりますが、その間、県立美術館とのバッテングから同じような美術館ではまずいと云うことから、現代アート美術館が持ち上がり、それでも2館構成温存されていましたが、入札では、妹島和世&西沢立衛「SANAA(サナー)と云う設計グループが、建物を丸くして交流館(ゾーン)を外側に、真ん中に美術館という構想で、他の建築事務所を押しのけ決定したと聞きます。

 

妹島和世&西沢立衛設計グループ「SANAA(サナー)とは、今もそうですが公共の建物の設計は、実績がある建築事務所グループ入札制コンペに参加で入選しなければ採用になりません。しかし「SANAA(サナー)は、当時、建築設計界では名は知れていましたが、美術館の設計小さな1館設計しただけの設計グループでした。因みの妹島和世の父は陸軍の転勤族で石川県に所縁があるとか?)

 

参考

コンセプト金沢21世紀美術館

https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=11&d=1

 

当時の学芸課長(現館長)長谷川祐子氏は、美術館には難題の多くの人を集める「賑わい創出」の鍵は建築であることを熟知していて「SANAA(サナー)」のプランを支持していたらしい。長谷川氏は、他にイメージとして、いくつかの腹案があり、その一つとして、あくまでも頭の中だけの対抗馬として、スペインのビルバオに1997(平成9年)にOPENしたグツケンハイム美術館ビルバオだと聞きます。

グツケンハイム美術館は、アメリカの美術館で、グツケンハイム美術館ビルバオスペイン支店のようなもの、ビルバオは昔バスク国の首都ですが、過疎化のため、起爆剤として奇抜な美術館が造られ、1999年(平成11年)にジェームス・ボンド主演の映画「007」に登場し、一挙の「賑わい創出」に一役買ったことから、長谷川氏は、“その手もある”と云うことを知っていましたが、この建物“これ見よがし”と云うか、奇怪な建築で、長谷川氏の趣味や嗜好性とまるで違い、だかれこそ「SANAA(サナー)でそれに匹敵する建築が出来るかどうか、長谷川氏は反芻していたと、長谷川氏に近い人から聞いたことがあります。)

 

(ウィキペディア(Wikipedia)より)

 

建築に込められてもの≫

「SANAA(サナー)」の設計は、前回にも書きましたが、ベネチアビレンナーレ建築部部門金獅子賞を戴ました。この賞は、あまりよく知られていませんが金沢21世紀美術館の設計で獲得したもので、その評価「建築フォルムのデモクラシーの実現」だと云われています。

 

(21美初期のパンフより)

 

民主主義の象徴

「建築フォルムのデモクラシーの実現」とは、建物の形や構成が民主主義象徴したもので、従来の美術館博物館に有りがちの“権威の象徴のための建物ではなく”例えば、威厳をひけらかす凄い玄関もなく、偉い人だけが入る立派の展示室等もなく、当然、メインとかサブという考え方もなく、大きい部屋や天井が高いところや、小さな部屋など、建物の各部分にヒエラルキー(価値の階層性)もなく、権威を象徴するようなものは全くナイ、ナイ尽くし、それぞれの展示室が特徴的な環境で、しかも並列的に集合しています。その集合並列に繋がっていること(交感性)、そして、どこへでもアクセスが容易で、しかも外装のガラス張り(透明性・モノの成立に嘘がない)は金沢の市政象徴するようです。されに次項で書く日本的な考え方が加味されていることが、世界的に評価されたというもので、この考え方がフランスランスに開館したルーブル美術館2号館の設計に120組が応募したコンペに「SANAA(サナー)」が選ばれています。

(当時、あの丸い建物を見て金沢の人は、私も含めて誰が民主的日本的な建物だと思ったでしょうか?当時多くの人の声に「金沢の風情をブチ壊すもの」「丸いUHOは金沢そぐわない」など批判轟々だったことを思い出します。)

 

(2006年10月23日の北國新聞より)

 

日本的な建物

大きな外壁のガラス窓は、日本建築の縁側を想起させ、この外と内を互いに取り込む発想は、世界では考えられないらしく、ヨーロッパ建築の基本外敵から守るためのもので、外壁は分厚いレンガや石を用い、窓は大きくすると窓税も多くなり必然的に窓は小さくするのが伝統だったそうです。だから窓を大きくし、外からも内からも互いに見えるのを日本的だと云うのだそうです。

(そのことが良く分からなった私は、当時、好奇心からある会議に参加し、そこでベルギーの大学の先生のお話を聞く機会があり、演壇に立ったベルギーの先生の言葉は全く分からず、何故か“ヤンキー”だけが耳に残っていました。後に翻訳で知ると“先生は金沢来て、色々の建物を見たが、みんなヤンキー(アメリカ風)ですが、金沢21世紀美術館だけが、日本的だ”と叫んでいたそうです。個人的で恐縮ですが、私はどっぷり日本人で、しかも田舎者で表層的に見ていたので”何が日本的なんだ“と思っていましたが、当時、目から鱗が落ちたことが思い出されます。)

 

 

後に「SANAA(サナー)がお書きのなったものを読みますと、日本の公共の建物では、決定したら行政は”先生にお任せ“のところがありますが、金沢21世紀美術館では、当時の学芸課長やスタッフとの多くの打ち合わせと細部に渡り繰り返し修正して設計を仕上げたそうで、それは凄い回数の及んだとお書きになっています。そのようなことは今までなかったと事らしく、当時の学芸課長(現館長)の長谷川氏やスタッフの建築に懸けた強い思いが感じられます。

 

(余談ですが、その後、造られた東京の六本木の国立美術館始め、公共の建物には金沢の交流ゾーンような無料のロビーが設けられるようになり、そういう意味からも金沢21世紀美術館は、新しい公共施設の先駆けでもあるように思います。)

 

(21美初期のパンフより)

 

P.S

平成17年(2005)4月に21美で企画された「SANAA」に挑戦!!では、妹島和世&西沢立衛両氏の追体験と21世紀美術館に親しみを持つて頂こうを企画したもので、設計における試行錯誤のプロセスを知り、つくった人になり追体験をすることにより、参加者の個性が見えてくればとのイベントで「建築屋さんゴッコ」でした。展示に先駆けてガイドへのレクチャーでは、❶円形するのは5年前に決まったが、展示室の数は決まっていなかった。❷展示室のサイズを検討していたが、幾つにするかは設計者とキャッチボールを繰り返していた。❸展示室は可動壁を使用しな事が条件にしていた。❹廊下は、同じ幅で、廊下と云うより街路の延長と考えた。❺建物には別の可能性も考えられるよう、完成型ではない。❻この企画は作品の破壊とも取られる危険性もないではないが、作家自身もこれが決して完成品だとは捉えていなく、別の形も考えられと思っています。と参加者に伝えらています。

 

 

また、「SANNA」を囲む座談会の記事には、コンペに参加した考え方として、いろんな方向から入れる。丸い造形。交流館と美術館を一体にした「開放された美術館」(2棟だと用事がない限り、美術館には入らないだろうと考えた。)とおっしゃっていました。

 

つづく

 

参考資料:金沢21世紀美術館パンフ・2007年から私が書いたり集めた資料・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

私が金沢21世紀美術館に嵌まった理由❶切っ掛けとOPENまで

日々

【金沢(金沢21世紀美術館)】

はじめに

先日、私も所属している金沢観光ボランティア「まいどさん」の役員の方から、最近、関東や関西などの中学・高校の修学旅行が多くなり、必ず金沢21世紀美術館がコースに組み込まれていて、新しい期のメンバーが美術館のガイドに苦労しているので、君は美術館のOPEN時から関わっていて、5年程前に「まいどさん」の当時のメンバーから「現代アートは分らんから行かない!!」と云う声があり、美術館現代アート勉強会に講師をしていたので、またやって貰えないかと云われ、21世紀美術館にお願いしたらと云いましたが、いい機会でもあるので、体調が良ければやってみようと思い、昔の資料を引っ張り出し、いつ出来るか分かりませんが、その「勉強会」を目指してまとめています。

 

(雲を測る男)

 

本来、ボランティア活動では自発性公共性・無償性に加え、提案性批判性等が必須で、当然、当事者の自覚に関わらずお人様役立ち喜んで戴ける活動ですが、初めた頃、私のボランティア活動はかなり自分勝手なものでした。仕事もやめ、することが無くなり、やっと1人になれた気楽さに加え、暢気で横着者の素丸出し、これ幸いと、夢だった家にこもり本を読んだり、絵を描いたり、覚え立てのパソコンを叩いたり、気分転換にテレビを見たり、気ままに過ごしていましたが、半年もすると、かみさんの無言の圧力から嫌おうなく初めた活動で、20年ぐらい前、金沢ボランティア大学校経由で「まいどさん」に入り、成り行きでボランティアガイドを始めました。最初は、自分の興味趣味で、しかも覚えた事を全部言おうとするものですから、ボランティアガイド本質から外れ、お客様から顰蹙(ひんっしゅく)をかっている事も気も付かず・・・。今、思うと冷や汗が出てきます。

 

(また、新人ですから観光ボランティアガイドの仕事は余り廻って来なくて、当然ヒマ!!それで聞いた話や新聞で読んだ話を探しに町を歩き廻り、遠方はバイクで走り、帰りには図書館で調べ、家に帰ると覚えたてのパソコンに入力するという生活をしていました。そんな矢先の平成16年(2004)の夏10月OPEN金沢21世紀美術館の友の会解説サポートスタッフを募集していたので参加したのが21世紀美術館に嵌る切っ掛けでした。)

 

(2004年10月9日OPENの日、北國新聞「地鳴り」筆者の投稿)

 

21世紀美術館OPENすれば、以前に行ったパリやマドリッドのように美術館観光のコースになるのではと早合点し、暇ですから即応募。応募者は私の他に20数名が参加で、たしか研修は有料でしたが、週2回2時間の講座が始まり、20回の講座でしたが、最終的にOPENで忙しくなったとかで、半分の10回に縮小されてしまいました。

 

(期間は中途半端でしたが、内容は、なかなかのもので、かなり練られていて素晴らしくて、しかも初日から「美術館ってどんなところ?」という宿題が出たりしてかなり厳しいものでした。そして、大学の先生ホテルのコンセルジュ講師を勤める講座もあり、ボランティア論現代アートの知識だけで無く、お客様への接遇について学ぶことになりますが、半分で終わったのが残念でした。)

 

(マイケル・リン)

 

私は、それまでにも、ボランティア大学校でボランティア論を勉強していた筈でしたが、その頃は、金沢やその歴史・文化のことばかりに気がとられて、ランティア接遇については、全く頭に入っていなかったようで、この研修が、ボランティアに目覚めたスタートになりました。

 

幸いにも私がデザイナー時代に勤め先の社長が当時「現代アート」の作家で、話はよく聞かされ薦められもしましたが、金にもならない事が出来なくて避けてきましたが、聞いていた「伝統とは何ぼのもんや」破壊」「既成概念打破」「発見」などという言葉が刺激的で、それを思い出し参加しました。60歳過ぎの手習いでした。

 

(タレルの部屋)

 

≪金沢21世紀美術館OPENまで≫

平成16年(2004)10月9日に開館し、現在、兼六園についで人を集めている金沢21世紀美術館ですが、OPEN前には、日本の現代アートの美術館で、こんなに多くの人が集まるとは誰も想像しなかったのです。むしろ、“こんなモン(現代美術館)金沢に創って、危ないな~!!”入場者数が少なかったら、もう数10年間は日本で現代アート美術館は出来ないだろうと言っていたそうです。

(平成の始め広坂通りは、金大付属の小中学校が野田の移転し、県庁も海の方に移転が決まり、都心の空洞化から、平成6年(1994)に「石川県新県庁舎整備および跡地利用懇話会」が提言により翌年石川県と金沢市が共同で「都心地区整備構想検討委員会」が設置されます。)

 

 

 

その後「新しい文化の創造」「新たなまちの賑わいの創出」を目的に設置された金沢21世紀美術館でしたが、その頃は、全国的には美術館冬の時代の真っ只中で、計画が進められます。しかも、日本では現代美術館の成功した先例はごく限られていて、OPENにこぎつけるまでに10年近くの歳月が掛かりました。

 

 

 

その間、平成8年(1996)には「美術館建設準備事務局」が発足し、その翌年には、基本構想が発表され、総合アドバイザーと専門アドバイサー21名委嘱されますが、一般市民にとって現代アートの価値など分からないというのが大多数で、地元作家にとっては、「作品の保管場所をつくるのではなかったのか」と云うし、石川県の美術文化協会からは「今後いろんな作品発表に場を」などといわれました。

 

 

それはまだ良しとしても、電話、投書、議会の発言など、金沢市の都市政策部に寄せられる苦情は、「現代美術館が本当に街の活性化と繫がるのか」「大きな税金をかけてまで建てる価値があるのか」などの意見が集まり、一時、大パニックになり、当時の市長が「美術館を作るのがこんなに悪い事かと」嘆いたと伝えられています。

 

 

その為、当初の「金沢現代美術館」「金沢21世紀美術館」に名称が変更されたそうです。また、OPENしてからも「丸いUHOみたいな変な建物は城下町金沢の風情をぶち壊す」とか、「通路が迷路のようで、もうひび割れしている」「あれは直ぐ雨が漏り、雪には弱い等と言われ」しばらくは非難轟々でした。

 

 

当初は、現代美術館市民交流館の2つ建てる構想が、丸い一つの建物に集約され、館内は金沢の町の道路の延長線上にある通路日本的縁側、ヒエラルキーがない設計などで(入り口4つやメインの展示室がなく展示室が並列している、ベネチアビレンナーレで金獅子賞建築のノベル賞といわれるブリカー賞を頂いた根拠になるのは建物が民主主義を象徴していることだそうです。それでもしばらくは、多くの市民に嫌われていました。

(今でも口には出さないけど、反感をもっている人もいるそうです・・・。)

 

 

≪OPEN時の21世紀美術館のパンフレットより≫

●目的及びコンセプト

目的 ”新しい文化の創造と街の賑わい創出“

特色 

1、世界の「今」の美術を伝える。

 (1980以降の現代美術を主体にコレクション(多様な価値感と多くの表現)

2、市民とつくる、参画交流型の「街の広場」。

3、金沢の伝統と未来をつなぎ、世界を開く。

4、子供たちと共に、成長する。

 

建物概要 “街の開かれた公園のような美術館“

特徴:丸い・表裏のない・入口が4つもあり、交流ゾーン美術館が同居している建物で、透明感があり明るくガラス張り、独立した展示室、街路のような廊下、建物が展示作品の邪魔にならない等

(日本建築の特徴で外国人が絶賛する、内と外の間の縁側の発想が活かされています。)

建築データー:直径112,5m(円周350m)ガラス118枚(高さ4,6m)述べ床面積27,791㎡(美術館17,093㎡)敷地面積26,964㎡、側面ガラス張り118枚(直径112,5m高さ4,6mの局面2枚合わせガラス1,9cmガラス2枚に間のシーリングガラス1枚で1,5t) 展示室は19室、展示室のプロポーション(平面寸法1:1、黄金比1:2が基本形)(天井高4,6,9,12m)交流ゾーンの天井高は4m。

附属施設:「シアター21」演劇、音楽、講演等に使える182名の客席を備えた小ホール。「プロジェクト工房 」芸術家が制作を行うためのアトリエ。茶室「松涛庵」「山宇亭」と命名された二つの茶室

設計:サナア(妹島和世、西沢立衛)受賞ベネチアで金獅子賞・ブリッカー賞 他ランスのルーブル2のコンペで採用(2007)

 

 

●コレクション

コレクション方針:1980年以降に制作されて作品・1900年以降の歴史的参照作品・金沢所縁の作家の作品。他タレルの部屋など以下9点。

恒久展示作品(コミッションワーク)

レアンドロ・エルリッヒ「スイミング・プール」オラファー・エリアソン 「カラー・アクティヴィティ・ハウス」ジェームズ・タレル「ブルー・プラネット・スカイ・タレルの部屋」パトリック・ブラン「緑の橋」フローリアン・クラール「アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3」ヤン・ファーブル 「雲を測る男」マイケル・リン 「市民ギャラリー 2004.10.9 -2005.3.21」アニッシュ・カプーア「世界の起源」フェルナンド・ロメロ「ラッピング」ピピロッティ・リスト「あなたは自分を再生する」

 

 

開館10周年を記念し、設計者の妹島和世 + 西沢立衛 / SANAAが計画・設置したパビリオン

妹島和世 + 西沢立衛 / SANAAによる金沢21世紀美術館のシンボル「パビリオンまる」 建築面積:26.38㎡・高さ:3.96m 幅:6.36m 主体構造:ステンレス製 仕上げ:鏡面仕上げ 外面♯600・バフ仕上 内面・柱 ♯400バフ仕上

 

 

 

 

つづく

 

参考資料:金沢21世紀美術館パンフ等・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007年当時、私が集めてスクラップ

猿楽から能楽へ⑨奉納囃子(その2)“小橋天神“

【金沢】

小橋天神囃子(舞囃子)は、大鼓役者小杉喬久(通称次郎三郎)が元禄15年(1702)2月25日に天満宮(菅原道真)800追善の祭事として囃子を奏したのが最初で、その後、毎年、恒例として行われるようになったと云われています。しかし、その番組も享保17年(1732)の火災焼失したため、楠部屋金五郎は残されていた翌18年(1733)以降の分を書写し、享和元年(1801)2月に「松梅山天満宮囃楽永代譜」を作成して、小橋天神に奉納したものと云われています。

楠部屋金五郎:金沢町会所の職員で、会所にあった旧伝数100巻を整理し「町会所標目」を作成。詳しくは、前回久保市乙剣宮で・・・)

 

 

小橋天神の祭神は菅原道真で、囃子が行われる2月25日は道真の命日です。そのため囃子の最初の演目は「老松」が演じられていました。「老松」天神伝説を題材に取った演目で、長寿象徴であるのさきがけ目出度さ強調した演目で、さらに、天神さん後裔と称した加賀藩主前田家讃える意味から演じられています。

老松(おいまつ)http://www.syuneikai.net/oimatsu.htm

あらすじ:都の西の方に住む梅津の某は、北野天満宮の夢のお告げを蒙り、筑紫国の安楽寺へ参詣することにします。はるばると旅をして、菅原道真の菩提寺である安楽寺へ着くと、老人と若い男がやって来て、のことを述べ、花盛りの梅に垣を作ります。梅津の某は、彼等に言葉をかけ、有名な飛梅はどれかと問うと、神木であるから紅梅殿と崇めなさいとたしなめられ、同じく神木である老松についても教えられます。・・・・・。

 

YouTubu動画

能「老松」(宝生流)(HD)

https://www.youtube.com/watch?v=zesbI7br6hg

 

 

小橋天神での囃子は明治17年(1884)まで続きますが、その後、大正8年(1919)に再開され6年間続きます。昭和27年(1952)から加賀万歳を復活して奉納し、さらに囃子謡の会を催して奉納した事が、平成17年(2005)発行の「大鼓役者の家と芸」に書かれています。

(加賀万歳:前田利家公が越前の府中を統治していたころ、お百姓さんたちが年頭の恒例行事として披露していた越前万歳がルーツです。利家公が金沢城に入城した後、金沢の人たちが真似て楽しむようになり、文化文政の頃には、宝生流能楽師の大石藤五郎が越前万歳の舞や歌詞を発展させ、能の要素を取り入れながら、より優雅で、気品があり、地元の方言も交えた斬新な万歳を確立していきます。これが当時は地万歳と呼ばれ、現在の加賀万歳の基礎となります。明治に入ってから地万歳は、金沢旧市内の旧家や大商家、娯楽街の寄席で演じられます。昭和になって、地万歳加賀万歳と呼ばれるようになり、昭和50年(1975)には金沢市文化財の指定を受け、加賀万歳保存会が中心となってその保存、継承に当たっています。)

 

YouTubu動画

市無形民族文化財「加賀万歳」

https://www.youtube.com/watch?v=SikzttvUzDc

 

(藩政期の小橋天神(宝来寺)の地図)

(昭和46年までの小橋菅原神社跡)

 

≪小橋天神≫

小橋天神は、藩政期、菅原道真自作と伝えられる天満大自在天神御本尊として崇拝され、3代藩主利常公が大坂の陣に出陣した時に、御局の老女が戦勝を祈願したため、凱旋した利常公から長刀・扇子などが寄進され、社地の拝領。始めは現在の香林坊橋の袂に有りましたが、寛永13年(1632)には古寺町(現片町2丁目)に移り古寺町天満宮とも呼ばれます。その後、神務は修験道「福蔵院」が執行し、福蔵院は享保15年(1730)に本山に申請し、松梅山の山号と宝来寺の寺号を得ますが、明治に入り神職に復し、社号も明治8年(1875)小橋菅原神社と改め、大和デパート裏(今の片町きらら)天神さんとして親しまれていましたが、昭和46年(1971)一時、ホテルエコノ金沢片町裏に移ります。平成27年(2015)9月に取り壊され月極駐車場になり、今は飲食街屋台村「とおりゃんせになっています。

 

(平成27年までの小橋菅原神社)

(今の小橋菅原神社跡)

 

拙ブログ

金沢二十五天神巡り(第1回)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11519016423.html

犀川大橋からスクランブル交差点まで③旧河原町・旧古寺町

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12529898890.html

 

この項おわり

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・「大鼓役者の家と芸―金沢・飯島家十代の歴史-」編者長山直治、西村聡 発行飯島調寿会 2005年10月8日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか