市民が見つける金沢再発見 -3ページ目

猿楽から能楽へ⑧奉納囃子(その1)“久保市乙剣宮”

【金沢】

久保市乙剣宮小橋天神能奉納は、翁立ての正式な能ではなく囃子(はやし)が奉納されています。囃子は能の略式演奏の一つで、囃子方・地謡は能と同じですが、囃子と能の違いは、シテ面と装束を着けず紋服舞袴で、杖、長刀以外の作り物や小道具を用いなく、太刀や羽団扇などには扇を用い、原則的にシテ以外の役者ツレ・ワキを伴わず、演目の後半のみを演じます。囃子は正式には“舞囃子”と称しますが、ここでは囃子と記述します。(代表作:高砂・八島・羽衣・紅葉狩など)

 

 

舞囃子:江戸初期にその萌芽がみられ5代将軍徳川綱吉が愛好して自身演じたことから元禄期に盛んになったと云われています。特徴は能の曲中の舞うところだけを取り出し、シテ一人地謡囃子を従えて舞うもので、能の最も面白い部分だけを演じるため、ダイジェスト版と云われています。)

 

youtube動画

宝生流舞囃子「高砂」

https://www.youtube.com/watch?v=4juurJiGWm4

 

久保市乙剣宮小橋天神では、藩政期、毎年祭礼に囃子が奉納されています。その様子を町会所勤めの楠部屋金五郎(楠肇・越前屋金五郎)という人物が書き残しています。金五郎は、書に優れ、当時の文人達との交わりが深く、文化2年(1805)から翌年にかけて加賀藩に滞在した海保青陵とも親交があり、その性格は記憶力の優れて聡く、大量の町会所の記録類を整理し、分かり易くまとめたと云うから、文書に対する関心も高く、それらが散逸することを恐れ書き残しています。その中に「久保市乙剣宮舞囃子番組」「松梅天満宮囃楽永代譜も番組保存のため作成したもので、その後も書き継がれるよう白紙を相当枚数残して綴られているそうです。

(楠部屋金五郎:加能郷土辞彙には、諱を肇、字を子春、号を芸台。父の諱は定賢、能登の鳳至郡の農の出。金五郎は、性は強記精敏、金沢町会所の吏となり、かって局内の旧伝数100巻を整理し検索に便利にし「町会所標目」を作成しています。また、書を能くして欧法(優れた書法)に達します。文政3年(1820)9月29日61歳で歿し、野田山に葬られ、頼山陽が碑文を書いたと云われています。)

海保青陵:江戸後期の経済学者・儒学者。文化2年(1805)金沢城下尾張町近辺の宿屋に入り、翌3年(1806)春に越中高岡と、どこの土地でもしなかった一年もの期間、加賀藩領内に長逗留をしています。分別盛りの51歳。農本主義の加賀で、覇道を説くのですから、青陵も危険視されぬよう用心深く説き回り、練りに練った加賀藩の再建プランを加賀藩の上層部に献策する日を心待ちにしていましたが、ついにその日は訪れないまま加賀藩に見切りをつけ京へ去ったといいます。)

 

 

拙ブログ

松田文華堂➁海保青陵

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10768905420.html

 

楠部屋金五郎によれば、久保市乙剣宮では、文禄(1592~1596)の頃から祭礼の際には素謡囃子が、その時々に行われていたが、卯辰山に移った際に、氷見屋太郎左衛門の尽力によって毎年、囃子を興行する事になりますが、近くの観音院での4月朔日・2日の神事能が極めて隆盛し、役者の負担を避け、春の興行を文政7年(1824)9月3日(最初は8月3日)の秋に移しています。そのようにして行なわれた慶長6年(1601)以来、享保10年(1725)の火災で失われため、金五郎は残されていた翌11年(1726)からの分を筆写し、寛政7年(1795)9月に「久保市乙剣宮舞囃子番組」を作成しています。その後、久保市乙剣宮での囃子興行は明治2年(1869)で中断しています。

 

            

                                                                                                                        

≪久保市乙剣宮≫

この地(新町)は一向一揆時代に、(くぼ)という市場が有ったと伝えられています。鶴来の乙剣宮を勧請したものとされ、加賀国小坂荘久保市村の産土神として崇拝されていましたが、慶長6年(1601)に移転を命じられ、卯辰山山麓(現宇多須神社後ろ子来坂緑地)に移り、藩政期は真言宗法住坊(金剛寺)が別当として久保市乙剣宮を管理しています。明治維新の際の神仏分離令で、明治2年(1869)に法住坊は神職に復飾し、社地も明治9年(1876)に旧地新町に戻り現在に至っています。

加賀国小坂荘(現在の疋田、浅野本町、清水町、橋場町など浅野川流域北岸、および金腐川中流域を敷地とする荘園)久保市乙剣宮久保市村の産土神でした。)

 

(法住坊跡)

 

久保市乙剣宮の近くには金沢三文豪のひとり、泉鏡花の生家があり(生家跡に泉鏡花記念館が建っています)、境内は幼い頃の鏡花の遊び場だったと云われ、一の鳥居脇に泉鏡花筆跡の「うつくしや鴬あけの明星に」の句碑が立つのはそのため。また、境内には市の指定保存樹にもなる20mに達するケヤキの大木がそびえています。

 

 

拙ブログ

久保市(くぼいっ)つあん

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10605357627.html

枯木橋(かれきはし)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10579614218.html

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・「大鼓役者の家と芸―金沢・飯島家十代の歴史-」編者長山直治、西村聡 発行飯島調寿会 2005年10月8日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか

猿楽から能楽へ⑦神事能の“大野湊神社"

【金沢市・寺中町・大野・金石】

今回書くのは、現在も催されている大野湊神社神事能です。この事については前にも触れましたが、この項では藩政期に金沢で催された年中行事寺社に奉納された4つの能“の一つとして、多少重複することも厭わず、より詳しく調べたつもりですので、すっ飛ばさずに読んで戴ければ幸いに存じます。

 

大野湊神社神事能は、神社が石川郡の寺中村(現寺中町)に有り、昔から人々は「寺中能」と親しみを込めて呼んでいたようです。その「寺中能」の起源は、前回も触れたように、利長公が関ヶ原の戦で、東軍に味方し西軍の山口・丹羽氏に勝利したことから、それを祝し慶長9年(1604)、当時、小松辺りの住んでいた諸橋を大夫として毎年能の興行をするよう命じたと云われています。以来、明治2年(1869)で一時中断したものの、明治27年(1894)再開され、以後、氏子の奉賛と金沢能楽会の演能により毎年奉納され、今も金沢能楽会関係者により5月15日に奉納されています。

諸橋大夫の後裔が諸橋権之進家で、観音院と同様、波吉宮門家ととものシテを勤めています。寺中能では宮腰町奉行などが出座し、毎年、4月15日に開催され、観音院の2日間の興行ですが、寺中能は1日で催されていました。)

 

 

拙ブログ

金沢の御能③利長公と諸橋家、利常公と竹田家、波吉家

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12720905923.html

 

さなたけ(佐那武)へ米二十石まいらせ候。

いよいよ祈祷も能も、懈怠(けたい)なく御勤られ候てよく候。

                              かしく

 慶長9年8月15日      利長佐判

 

大野庄寺中村辺りは、かって北加賀の表玄関で湊町として栄え、前田家も利家公が加賀に最初に足を踏み入れた記念すべき土地でも有りました。大野湊神社が現在地に移ったのは建長4年(1252)で、今も佐那武社(さなたけしゃ)と通称されています。一説には、それまでは海中に沈んだ砂丘佐良嶽(さらたけ)頂上に有ったと伝えられ、今の犀川の河口南岸として発展した金石(藩政末期まで宮腰)辺りだとされ、大昔海に面していたので、今も8月始めから3日間で行なわれる夏祭りには、525年間大野郷に鎮座されていた当時を偲び、神輿を海岸の”御旅所”に移され神様は浜辺で2泊され湊の守護神として崇められています。

 

 

大野湊神社の由来≫

神社は、聖武天皇神亀4年(727)に陸奥の人佐那武が航海中に猿田彦大神を拾い上げ、大野庄の真砂山竿林にすでにあった神明社(祭神・天照大神)の傍らに一祠を建立し勧請したのが始まりで、この合祀より大野郷(旧宮腰・現金石町)湊の守護神とされ、大野湊神社と称されるようになったと伝えられています。2年後の天平元年(729)に「佐那武大明神」の称号を与えられ、延長5年(927)成立の延喜式神名帳に記載された式内社2,133ある国幣小社の一つです。平安末期には大野湊神社という社号は消えて「佐那武社」と云われ、この頃は加賀馬場白山宮の有力末社となっています。白山宮と云えば、加賀での猿楽の歴史は、白山信仰猿楽座から派生したと云われています。「白山之記など」

佐那武というのは陸奥の人佐那武と云うのが定説ですが、上記のように犀川河口南岸にあったとされる砂丘地の頂上佐良嶽という地名に由来するという説もあります。)

 

 

(現在、境内末社として佐那武白山神社を祀るのは、神社は建長4年(1252)火災により古大野から東八丁をへだてた寺中町の離宮八幡宮(現在地)に奉遷されたもので、戦国時代には荒廃しますが、前田利家公により再興され、慶長9年(1604)からは、恒例となる神事能(寺中能)の奉納が前田利長公により始められます。社殿は寛永16年(1639)前田利常公によって造営され、維新後、明治5年(1872)郷社、明治18年(1885)県社に昇格、明治34年(1897)1200年祭が斎行されました。昭和25年(1950)1250年祭、昭和41年(1966)神社本庁別表神社に加列されました。昭和57年(1982)石川県指定文化財。平成12年(2000)には1300百年祭を斎行し、現在も海と湊の安全を守護し、交通安全、厄除け等に御神徳の高い大神様として篤い信仰を集めています。)

 

(2022年5月15日、3年ぶりの神事能)

 

拙ブログ

梅田甚三久(能登屋甚三郎)と尚伯の湯

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11143546914.html

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・「大鼓役者の家と芸―金沢・飯島家十代の歴史-」編者長山直治、西村聡 発行飯島調寿会 2005年10月8日発行・「金沢の風習」井上雪著 株北國新聞社 平成2年4版発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか

猿楽から能楽へ⑥神事能の“観音院”

【金沢・大野】

藩政期、金沢で催された能と囃子の御能は、大別すると3種類がありました。1つ目は、社寺で行われる奉納のための年中行事2つ目は、藩主公的な儀礼や行事・藩主家族の慰めなどのためのもの。3つ目は、藩士など武士や能役者の自宅に於いて行われるものでした。その1つ目の社寺で行われる御能としては、観音院と大野湊神社(寺中町)の神事能久保市乙剣宮、小橋天神の奉納囃子4つがありました。

 

 

観音院の神事能≫

神事能は、元和3年(1617)11月に、前田利常公次男千勝丸(初代富山藩主)の宮参りの際、それを祝して11月3日・4日の両日に神事能が行なわれたと云われています。その翌年から4月朔日・2日に定めて毎年行なわれるようになります。の当日は町奉行等が警備のため出座するが、実際の運営は本町の町人たちによって行なわれ、興行の諸費用装束の管理などは本町の町人が負担しました。金沢では惣町の祭りがなかったので、この神事能が最大の年中行事で、最初の演目の「翁」は、夜明け近くの午前3時過ぎから始まり、町人たちは前日の夕方から詰めかけ、そこかしこに寄り集まり、日頃、稽古した得意の謡曲を謡ながら夜を明かしたという。

本町:金沢では、古い由緒ある町で、地子銀(土地に対する税)を免除されていましたが、夫役(ぶやく)と役銀(やくぎん)を課せられていました。町の格付けでは、最上位に位置づけられていていました。町数は藩政初期とはかなり違いますが、元禄期も幕末も大体37町前後だったそうです。以下、町格では、七ヶ所、地子町、門前町、相対請地がありました。)

 

金沢に惣祭りなかったのは:加賀は元一向一揆の国であったことから加賀藩では、定期的に多く人が集まる町ぐるみの惣祭りは認められなかったと伝えられています。)

 

(観音院)

 

真言宗長谷山観音院:卯辰山入口にある観音院は1200年の歴史をほこり御本尊木造十一面観菩薩を祀り、金沢の発詳にちなむ「芋掘り籐五郎」伝説として有名な歴史的由緒をもっています。慶長18年(1613)、加賀藩三代藩主前田利常公の正室珠姫様が観音様を篤く信仰され、社殿を寄進したとされています。さらに元和2年(1615)球姫は場所を移し観音堂を起こし、さらに翌年には利常公は山王社(秀吉を祀る)・客殿などを寄進し寺格を整え、御本尊の祀られている厨子には珠姫様が徳川家よりお輿入れされた証の葵の紋と前田家の梅鉢の紋の二つの紋を残されています。その後、観音院は加賀藩前田家の安産祈願・お宮参りなどの祈祷所となったものです。それからは、大和、鎌倉と並び、加賀の長谷観音とうたわれ今日まで多くの信仰を集めています。

 

観音院の”現世利益“:観音院さんの四万六千日の日にお参りをすると、46,000日分お参りしたのと同じ“御利益”があるといわれていますが、その46,000日は約126年分ということになります。また“とうもろこし祭”とも呼ばれていて、魔除け・家内安全・商売繁盛に御利益のある縁起物の“とうもろこし”を販売するのも特徴です。また技芸や書道の上達も祈願されました。旧暦の7月10日、卯辰山の観音院では毎年、縁日が行われます。

 

幕末の「亀の尾の記」には、この日のことを「所狭しと茶屋が軒を連ね、見世物、のぞきの類までここに建ち、繁盛に驚けり…」とか「定茶店あり、酒肴をひさぎ、また、楊弓場もあり、また、土器を投じて…、浅野川にのぞむ断崖上に筵をもうけ、酒飯を喫し遊ぶものこの土器を投げ…」等と当時の観音院での行楽が記されているそうです。

 

(病占い籤引き)

 

諸病治癒伝承:筮竹のような百本の籤で病を占い、籤には番号が100まで付けられていて、別に備えてある処方箋の台帳のようなものと符合すると処方箋を発行するようになっていました。信者はその処方箋を持って街の薬舗で薬を処方してもらうシステムです。金沢には、八坂の永福寺でも良く似たシステムがあったと聞いたことがあります。

 

拙ブログ

”心の道“癒しのスポット➁観音院

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11151914929.html

 

 

観音院神事能には、金沢に百数十人いたと云う町役者が出演し、シテ方は国元の御手役者歴代の諸橋権之進・波吉宮内やその弟子たちが勤めています。観音院の神事能の歴史を辿ってみると、宝暦9年(1759)3月23日に加賀藩10代藩主前田重教公の異腹兄勢之佐(利和・参照加賀騒動)の死去したことから、4月朔日・2日の能が延期になり、4月9日の宝暦の大火(金沢城始め金沢の8・9割方焼失)観音院も類焼し、そのため、この年の神事能は中止されたが、再建工事が進む中、同年11月6・7日に祭礼が行われ、仮小屋の仏前で囃子が催されています。また、天保14年(1843)4月朔日「翁」から始まり4番目「松風」が演じられる最中、隣の法(宝)泉坊から出火し同寺は全焼する火事になり、観音院は風下にあたり、火の粉が舞い散る中、見物人が一人も居なくなったのに、能が続けられたという。いずれも、金沢の町役者の舞台に掛けた執念というか意気込みが窺えますが、幕末の御能の空白時代に遭遇し、明治の始めに終幕を迎えています。

 

 

拙ブログ

六斗の広見と宝暦の大火

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嫉み、妬みから極悪人にされた男⑥真如院と伝蔵

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このエリアには、観音院、山王社のほかに、医王院、愛染院、市姫宮、そして三重の塔、能舞台、定茶屋の丸山茶屋、広場があり、地下には洞窟が掘られていたそうで、観音院の胎内めぐりだったのか、はたまた軍事用か、よく分からないそうですが、工事方法は辰巳用水と同じらしい、また、昭和15年(1940)頃、浮浪者の通称初太郎が、この洞窟をねぐらにしていて、東の廓に手伝い等をしたという伝説が残っています。

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・「大鼓役者の家と芸―金沢・飯島家十代の歴史-」編者長山直治、西村聡 発行飯島調寿会 2005年10月8日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか