6、般若波羅蜜多心経を学び直してます。真言は般若波羅蜜の心髄を濃縮した道しるべ。 | ながおりょうじゅんのブログ

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今回で最後。
般若波羅蜜多心経の真言です。

羯諦 羯諦 般羅羯諦 般羅僧羯諦 菩提薩婆訶

日本語訳だと「行け 行け 彼岸へ行け 彼岸に正しく行け 悟りを成就せよ」ということですが、日本だと彼岸というのはあの世のイメージが強いので、あの世へ行けと解釈されている。
仏は亡くなってからという話になってるのは、きっとここの解釈がそうさせてるのだろうなと思います。


しかし、弘法大師空海は密教の教えを伝授されていますから、人々に死して仏になるのではなく、生きてるうちに仏になる事を伝えて数々の大事業を成功させていってます。

そう思うと即身成仏も、瞑想したまま亡くなる事の意味にされてますが、たぶんそれも空海は本当に伝えたかった事と違うのだろうなと思うんですね。


釈迦も晩年はアナンダという弟子を連れて教えの旅を続けます。
アナンダはダイバダッタの弟と言われてますが、美男子で女難と心が不安定になるところがあり、一生懸命に釈迦の教えを実践して克服していたそうです。

ここからは想像ですが、釈迦はなぜアナンダを連れていったのか。

1つはアナンダの女難です。今で言うイケメン僧侶ですから、寄ってくる女性は多く、若くて心が不安定なアナンダはその度に自身の心の中に煩悩が生まれて修行に中々集中できない苦を味わってしまうわけです。
また、それを見る他の者達にも苦が生まれやすくなります。
教団にいる限り、それが起こるんですね。


もう1つは、おそらく釈迦が伝えたかった教えや修行の用い方などを1番実践していたじゃないかと思うんです。
本来は1人で静かな場所で修行するものですが、アナンダはその場所ですらゆっくり留まれなかったのではなかろうか。


教団というものができたのは、ダイバダッタという弟子の一人が最初です。
釈迦は最後まで「自分が統率しているとか、自分の所有である」という考え方は持っていないことをアナンダに伝えています。
教えを正しく実践して理解を深めて悟りに向かっていれば、「わたしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、「修行僧の仲間はわたしに頼っている」と思う事はないはずだと言ってるんですね。

釈迦自身も悟った事を伝える旅に出て、伝えているけど、導くという意識はないのです。
釈迦は最初から最後まで1人の出家修行僧であり、真理を悟った者であり、それを話す者として生きた人と思います。

なので、1人孤独になって修行に励もうと奮闘するアナンダを釈迦は連れていったのだと思う。
アナンダの姿が本当の出家修行者であるから。

ちなみにアナンダは釈迦の教えを最後までたくさん聞いた弟子ですが、教団の戒律の細かい事などには全然関知してなくて、釈迦の入滅した後、何で聞かなかったんだって酷く怒られたそうです(^^; 

でも、釈迦はアナンダに、「自分が統率しているとか、自分の所有である」という考え方は持っていないといってますから、それが正しい釈迦の教えなんですね。

また、釈迦が入滅した後、厳しい戒律を守らなくてよくなったと言った僧侶がいたという内容を見たことがありますが、すごく不謹慎に感じると思いますけど、釈迦の教えは自己の内面を教えと実践とに照らしながら真理を悟っていくものです。
遺言の中に「法(諸々のできごと)と自分(の観るせかい)に拠って、それ以外のものに拠ってはならない、各々たゆまず修行に励め」と言い残したように、各々が修行して悟っていくように伝えています。

だから、アナンダも最初経典をまとめる集会では悟ってないからと参加を拒否されたのは、おそらくアナンダ自身を含め、アナンダが聞いた釈迦の教えを教団側は信頼性に欠けると受け入れられなかったのだと思うのです。
アナンダは悩みに悩んで結局疲れて寝るわけですが、その時に自己の問題ではなく、教団の問題についてとらわれて悩んでいる執着を外して、釈迦の教えを引き続き粛々と実践する自分自身にスッキリとシフトチェンジしたはずです。

釈迦は、自分が死に近づいている時に悲しみ嘆くアナンダに「すべての愛するもの、好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということ。それが無くなることはないと最初に説いたはずだ」と伝え、「つとめ励んで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」と、自分がいなくなった後のアナンダがわかってるかのように、話して聞かせてたわけです。
それを理解したのかもしれません。

アナンダは一夜にしてスッキリ悟りましたから、受け入れられなかった教団側の人たちも、その変化にすぐ気づいて、考え方を改めたはずです。
そうしてアナンダのみが知ってる晩年の釈迦の言葉を残すことができたわけです。



ということで、般若波羅蜜の真言に戻りますが、最初の「行け」というのはどこに行けといってるのかというと、資糧道(しりょうどう)という5つの修行の道の1つです。
これは空を知覚する智慧と、実践する時に必要な手段である方便の2つのバランスを取る事。

次の「行け」は、加行道です。
資糧道を理解する事ができたら実際に空を観る力を養います。

次の「彼岸に行け」は見道です。
資糧道や加行道はまだ論理的な部分での理解で、見道はそれを超越した部分(直感の範囲)で空を理解する事です。

ここは多くの煩悩の原因が見極められ、滅却されていきます。
なので1番重要な道になります。
彼岸はあの世のイメージがありますが、生きているうちに煩悩を滅却する事ができる道を明らかにしています。
なので、ここは人間が煩悩から離れ、繰り返さないようにする聖者の智慧を育む境目の部分にあたります。

煩悩というのは、「学習によっての障害」もそうだし、「生来の障害」もそうです。
学習によって智慧を得ますが、それが障りの原因にもなる。生来の障害というのは生まれ持った学習したわけでもないのに表現される性格のクセというものです。外見の障害とはまた違います。各々色んな規模でその煩悩を見極めて滅却していくのです。

資糧道と加行道をコツコツと修行していくと、生きてるうちにこの見道に至る事ができ、浄化が促進されていきます。
人によって煩悩の規模が違うので、ここの道をひたすら励む人は多いと思います。

次の「彼岸へ正しく行け」は修道です。
見道では煩悩による障りを滅却していますが、修道は所知障という人間全員が持っている無知から生まれる実体視の潜在力です。
煩悩そのものの源は無知ということです。
無知から生まれる煩悩が悩み苦しみ繰り返しを生み出しているので、その無知からくる障りを空性の理解によって滅却します。
空の理解でしか無知からくる障りを滅却できないんですね。

例えば物理的に対策によって悩み苦しみを滅却できるならいいですが、物理的にどうにもならないもの(なんとなく不安とか、なんか嫌とか・・・)こういう想像して実体化させてしまう虚構とか、あとは言葉によって存在していないことを存在してるかのように設定して展開してしまうこと、空想とか噂とかデマとかでしょうか。
それを見極めて真実を観る力を修める道です。

人間は必ず思考から始まります。
その思考が行動になり煩悩を生み出しますので、思考自体をしっかり観察してコントロールしなければなりません。
何故かというと、資糧道にある方便に影響が出るからです。

嘘も方便という言葉がありますね。
方便は自分に対しても、人に対しても使います。しかし、その方便が教えの本質からズレてしまうとよくない結果を生みますよね。
だから資糧道のバランスを1番先に学ぶのです。
人間は賢くもなるし愚かにもなるのはこの部分の修行が大きいのではないかなと思います。

そして最後の「さとりを成就せよ」は、無学道のことです。

無学というのは、「もう学習する必要のない状態」ということで、現代の学習能力がないとか学歴がないとかいう事ではありません。

ここでは、聖者が自分の解脱を終えて仏陀となって有学(学習をしている者達)者のために智慧と方便を用いて、解脱やさとりを促していく状態です。

般若波羅蜜多心経は全体で三回、空と色について説明を伝えています。
最後の真言は最後の濃縮版です。
最小文字数は阿の一文字で濃縮してるとか。


これを見て瞑想する阿字観は、僕はしたことないですけど、般若波羅蜜多心経を理解するための1つの方法だと思うんですね。


資糧道、加行道、見道、修道とコツコツと修行していくことで自然と無学道に至ると、この般若波羅蜜の真言で明らかにしているわけですが、人間は仏になんてなれないという人がいます。
もちろん仏になるのはとても大変ですけど、釈迦の教えでは「すべての人が仏になれる」と言っているので、コツコツと努力するかどうかにかかっていると思います。


あくまで5つの修行道の道のりは修行に励む者達がモチベーションを落として辞めてしまわないように、また間違った方向へ向かって煩悩に悩み苦しみ繰り返さないように加持してる智慧の方便であって、究極のところそれらも実体のない本質、空であるということを忘れてはならないのです。



ちなみに死者がどこへ行くのか、死語の世界はあるのかについて釈迦は明確に言及していません。
般若波羅蜜多心経が死者の供養になるお経として今は認識されてますけど、内容を学ぶとあくまで生きているものが、悩み苦しみ繰り返しをしないように修行するための教えなんですよね。

ただ実体視してしまうという部分が死者とか死語の世界なども含まれるわけで、般若波羅蜜多心経を死者の弔いのために唱えるのは、日本くらいですかね。

ウィキペディアで調べると、
「一般の人々にとっては、「空」を説く経典と言うより、むしろ、「霊験あらたかな真言」の経典として受け止められており、一部には悪霊の力を「空ずる」という解釈もされた。古くから般若心経の利益で病気が治るという信仰があり、既に日本霊異記にその説話が残っている。お守りとして所持したり、病気になったときに写経して平癒を祈願したりした人が多い。 」

とあったので、日本だけかもしれませんね。


さて、日本では真言で終わりますが、チベットの経典では、後書きがあります。

最初の時は釈迦は瞑想に入ってしまって、観自在菩薩が釈迦の代わりに舎利子の般若波羅蜜の実践をどのようにすればよいのかと質問した事に答えていました。

観自在菩薩は真言のところまで説明し、般若波羅蜜の実践をこのように菩薩達も行って仏になっていってるので、大乗の実践(自分も他人も解脱に向かって修行していく人達の行い)をする皆もそのようにすべきであると締めくくったところで、初めて釈迦が喋ったんですね。

観自在菩薩が説いた般若波羅蜜多の心髄の意味を、一切の仏陀たちの言葉と一致して誤りがないから礼讚(善く言ったと誉めた)したのです。

既に般若波羅蜜多の心髄を理解している者達も賛同して称え、周りのまだ修行間もない者や、まだまだ理解が浅い者達も喜んだ。

これで般若波羅蜜多心経が終わります。



所々、僕の想像やら解釈やら書いたりしてますので、賛否とか色々あると思いますが・・・
各々、日常生活のなかで、般若波羅蜜を実践して色と空の関係性や少しでも悩み苦しみ繰り返しが滅却されるよう理解が深まると幸いです。


僕も改めて1つ1つ学び直してよかったです(*^^*)

(@^^)/~~~ではさようならー