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勝海舟の談話 - 日本と中国、兄弟げんかは犬も喰わない

勝海舟は日清戦争後にコメントを求められて次のように語っている。


「支那は平気でいるよ。


 戦争でも同じことだ。世間では百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代わろうが、敵国が来たり国を取ろうが、殆ど馬耳東風で、はぁ帝王が代わったか、などといって平気でいる。風の吹いたほども感じない。


 感じないも道理だ。1つの帝室が亡んで、他の帝室が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、一体の社会は、依然として旧態を存しているのだからのー。国家の一興一亡は、象の身体を蚊か虻が刺すくらいにしか感じない。


 ともあれ、日本人もあまり戦争に勝ったなどと威張って居ると、後で大変な目にあうよ。剣や鉄砲の戦争に勝っても、経済上の戦争に負けると、国は仕方なくなるよ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだろうと思うと、おれはひそかに心配する」



「支那は国家ではない。


 支那は、ドイツやロシアに苦しめられて、早晩滅亡するなどというものがあるけれど、そんな事は決してない。膠州湾(こうしゅうわん)や、三沙澳(さんさおう)ぐらいの所は、おれの庭の隅にある掃溜ほどにも思って居ないだろう。


全体、支那と日本と同じように見えるのが大違いだ。日本は立派な国家だけれども、支那は国家ではない。あれはただ人民の社会だ。政府などどうなってもかまわない。自分さえ利益を得れば、それで支那人は満足するのだ。清朝の祖宗は井戸掘りをしていたのだが、そんな賤しい者の子孫を上に戴いて平気で居るのを見ても、支那人が治者の何者足るに頓着せぬことがわかる。


それだからドイツ人が愛親覚羅氏に代わって政権を握ろうが、ロシア人が来て政治を施そうが、支那の社会には少しも影響を及ぼさない。ドイツが膠州湾を占領したり、英国が三沙澳に拠ったりすれば、支那人の方では堅固な門番を雇い入れたってんで居るかもしれないよ」



「おれは大反対だったよ。


 日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟げんかだもの犬も喰わないぢゃないか。たとえ日本が勝ってもどーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からないに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押し掛けてくる。つまり欧米人がわからない内に、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。


一体支那五億の民衆は日本にとっては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓三国の合縦の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引き受ける事を計画したものサ。今日になって兄弟げんかをして、支那の内輪をさらけ出して、欧米の乗ずるところとなるくらいのものサ」


(引用:「本の街」10月号 - 酒部一太郎著)


どうだろう。今見てもこの談話は的を射ている。現代から考えれば格段に情報の少ない当時において、よくもこれほどの視点が持てたものである。本質を理解し、先を正しく見通せる人だったのだろう。


「1つの帝室が亡んで、他の帝室が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、一体の社会は、依然として旧態を存しているのだからのー。国家の一興一亡は、象の身体を蚊か虻が刺すくらいにしか感じない。支那は国家ではない。あれはただ人民の社会だ。政府などどうなってもかまわない。自分さえ利益を得れば、それで支那人は満足するのだ。」


まさに本質はここの部分にある。あれだけの人数、環境、土地柄の違う人々を国家としてまとめられるはずがない。一応、一党独裁、国家主席なるものを置いてはいるが、それはある意味飾りに過ぎず、それぞれの個々人が自分の利益のために動いているのが中国の実態であろう。本当のところ、人々の間では社会主義も資本主義もあったものではないのである。


そしてそれこそが、お上が代わろうが、誰が来ようが、決して滅びることなく文明を維持してきた中国、華僑・大中華圏、支那圏の本当の力なのである。だから中国とのケンカは国と国とのケンカにならない。ただ感情をぶつけるだけの兄弟げんかである。


くだらない兄弟げんかは早々に卒業して、経済の結託を計っていかなければ、アジアがリーダーになって世界をよい方向に導いていける最大のチャンスを逃すことになるだろう。

動物を殺して食べるのは善か悪か - 全体を考えるということ

子供の素朴な疑問にどう答える?


たとえば子供が道ばたで犬をいじめていたらあなたは注意するだろう。しかしなぜいじめてはだめなのかをちゃんと説明するのは少々難しい。

「なんで犬をいじめちゃだめなの?」
「そりゃかわいそうだから」
「だってみんな肉を食べるでしょ?豚や牛をたくさん殺して、それで平気なの?それとこれとどう違うの?」
「食べるならばいいんだよ」
「でも人間を殺して、さらに食べることはもっと罪が重いっていうよ?だから肉を食べる方が罪が重いんじゃないの?」
「・・・」


あなたならばどう答えるだろうか。


今ならば私は苦しいながらもこう答えるかも知れない。


「結局、人間は人間のためにしか生きられないんだ。生物は種の保存という欲からは逃れられない。肉はおいしいというのは否定しようのない事実だ。焼き肉を食べることによってみんな元気になる。笑顔になる。それでいい。例え他の生物を犠牲にしたとしても。


そして、豚や牛を殺すところをあまりおおっぴらに見せてはいけない。それは悲しくなるからだ。犬を必要もなく殺してはいけない。より人間に近い動物、より身近な動物ほど感情移入しやすいため、いたたまれなさを感じる。心が荒廃してやがて犯罪や殺人にいたるかもしれない。それは『人間にとって』よくないからだ。


環境を破壊してはいけない。それは地球や生物のためではない。地球環境が破壊されて動物が死滅することが『人間にとって』よくないからだ」


良くも悪くも我々は利己的にしか生きられない。生物である以上この業からは逃れられない。その究極は「種の保存」という生物定義からくる欲求だ。この欲求を捨て去ることは生物としての死を意味する。すなわち「種の保存」という欲求のない生物はこの世では存在できない。それが生命と物質を分けている。


環境問題も、動物愛護の問題も、政治も、「人間という種を守るため」という大前提が一番根本にはある。その観点から見るならば動物を殺して食べることはいいことだ。ただし動物を殺すことの悲しみを最小限に抑える必要がある。また、人々の価値観が変化し、動物を殺すことに罪悪感を感じる人が多くなれば、食用であっても動物を殺すことは悪となる。


全体の範囲をどこに設定するかによって答えが違ってくる


ここでは問題の観点を、個々の事情から、人類という全体の利害に広げることによって答えを導いた。結局、トータルでプラスなのかマイナスなのか、なのであるが、意見が対立した場合、「全体」の範囲をどこに設定しているかを見直す必要がある。


イルカやクジラを殺すことは良くないという意見がある。それはそれらを殺すことを許容できないグループを全体として見るならば「悪」となる。なぜならそのグループに対してはイルカやクジラを殺すことによる心の痛みが、殺すことにより得られる利益を上回るからだ。全体としてマイナスだからだ。


しかし、イルカやクジラの肉を食べることを喜びとしているグループからすればそれは「善」となる。このグループも殺すことの痛みは少なからずあるだろうが、全体として「殺すことの害<利益」という価値観だからだ。しかし殺しすぎてしまっては利益を得られなくなるのでマイナスとなる。


世界全体で考えた場合、肉を食べることに喜びを見いだす人々が多いと思われるため、動物を殺すことは必要悪であると見なすことができる。全体の利益のために許容すべき「悪」があるのだ。


組織運営に当てはめると?


これは組織運営でも使えるコツである。たとえば部下の遅刻を許すか叱るか。もちろん遅刻はよくないことであり、遅刻をしないで頑張っている人がいる以上、ある程度叱ることは必要である。


では組織全体から見た場合はどうだろうか?少しの遅刻でピリピリしていたのでは組織全体が硬直してしまう。失敗を恐れた社員から新しいアイデアが生まれてくることはないだろう。組織全体を考えればある程度は許容したほうがいいのだ。あとは自分が責任を持つ範囲がどこにあるかである。


課に責任を持つ場合は、課全体がプラスになるようにある程度細かく指示した方がいいだろう。部に責任を持つ場合は部全体の雰囲気がプラスになるにはどうするかを考える。課レベルの失敗を叱ってはいけない。社長ならば会社全体ではどうかを考えなければならない。


全体の成功のためには許容すべき失敗(必要悪)が存在するのだ。どこまで許容するのかの判断は一概には言えないが、「全体にとってどうなのか?」を考えることで限りなく正解に近づけるはずである。

自分を変えるということ

自分より優秀な人や尊敬できる人が現れたとき、あの人のようになりたい、「自分を変えたい」と誰しも思ったことがあるでしょう。他人が自分の思うように動いてくれない、環境が思い通りにならないと感じるとき、そんなとき多くの本や識者は、環境は変えられない、「自分が変わらなければならない」と言います。


それは正しいことです。しかし自分を変えるということ、それもまた難しいことですよね。何度も自分を変えようとして挫折した思い出があるでしょう。


それは自分の「軸」を変えようとしているからです。自分の軸は変えられないのです。根本的には自分というのは変えることができないのです。それを変えようとするから苦しい。


たとえば、Aさんのようになりたい、Bさんのようになりたい、と思ったとします。このとき、自分を捨てて、自分の「軸」を移動させて自分を変えようとすると大変に苦しい思いをします。


木下英範のブログ-他人になるのは難しい


例外として心に大きなショックを受けたときには、本当に性格から変わる可能性もあります。大きな病気や臨死体験、不幸な事故などによって。逆に考えると、自分の軸を変えるということはそれほど心に負担をかけないと実現しないということなのです。


ところが「自分を変えずに」自分を変える方法があります。自分の「軸を太く」すればいいのです。


自分の軸を太くして全部取り込んでしまえばいいのです。大切なのはこのとき自分の中心は動いていないということです。自分を保ったまま、他人の良いところを取り入れることはできるはずです。


木下英範のブログ-自分の軸を太くして取り込めばいい


心の成長についても同じ事が言えます。多くの方は子供と大人は別物と思っているのではないでしょうか。子供から大人になるにつれて人格が変わっていくと。それは実は違うのです。誰しもが子供の心を持ったまま大人になるのです。幼かった頃の心を内包したまま、まるで年輪のように大人の心を外郭に重ねていくのです。


それは自分の心をよく観察すればわかるでしょう。今でも時折子供の頃の気持ちが顔を出すでしょう。根本的な価値観って子供の頃のままではないでしょうか?


退行催眠を使って大人の外郭を外していくと、子供の頃の感情も、記憶も、すべてよみがえるといいます。「三つ子の魂百まで」なんて言いますが、小さかった頃の自分は今でもそっくりそのまま、そこにいるのです。


心だけではありません。人間の肉体的な発生においても、受精卵から胎児に至る過程で、両生類~爬虫類~鳥類の特徴が順番に現れ、哺乳類の進化の歴史をたどるといわれています。


生命全体を見てもそうです。単細胞生物はまだ生きています。そして細胞の働きは単細胞生物も我々の細胞も同じなのです。生命は過去を捨ててはいないのです。昔を捨てるのではなくて、昔を保ったまま、過去をその中に抱きながら機能を拡張してきたのです。


そうです。これはフラクタルの原理です。これはこの世界に普遍的に現れる物理法則です。すべてはこの土台の上に乗っているのです。


少々話が遠くへ来てしまいましたが、はじめに戻ると、今の自分を捨てて、自分を変えるのではなくて、「今の自分を内包したまま、自分を広げる」のです。そのほうがずっと楽に自分を変えることができるでしょう。

選挙の矛盾

好感度ランキングで上位に来る芸能人は、嫌いな芸能人ランキングでも上位にきている。また、あるアンケートでは、最もすばらしい首相は小泉純一郎だという。しかし同時に最も悪影響を与えた政治家もまた小泉純一郎という結果になるのだ。


この一件だけを考えても、いかに選挙というものが矛盾に満ちているか、いかに民主主義の運営が難しいかがわかる。しかしこれより良いシステムを我々は見つけていないので、なんとか折り合いをつけて使っていかなければならないのだが。。


たとえば、
①、②、③、④という4人の投票人が、A、B、Cという3人の候補者から一人を選ぶ選挙を行うとする。結果、各人が次のように投票した。

①の投票:A
②の投票:A
③の投票:B
④の投票:C
この選挙ではA候補が当選ということになる。


次に投票システムを少し変えてみよう。今度は投票人はそれぞれ100票を持ち、それを各候補者に割り振る形で投票をすることとする。結果は以下の通り。
①A:40票、B:35票、C:25票
②A:40票、B:35票、C:25票
③B:80票、A:10票、C:10票
④C:90票、B:10票、A:0票
票を集計すると、
A:90票
B:160票
C:150票
となり、今度はB候補が当選した。


これは前の一人一票方式の結果とは異なっている。前の方式ではトップ当選だったA候補は最下位になってしまった。これはトリックでも何でもない。前者の選挙と後者の選挙で投票人の意志はまったく変わっていない。しかし選挙のやり方一つで結果は全く違う物になってしまうのだ。


どちらのやり方がいいとは一概には言えない。選挙法も国によってまちまちだ。しかしやり方によって結果が全く違った物になってしまうことを多くの人は認識していない。そして完全に民主的な社会決定方式は存在しないことが証明されている。選挙とは、民主主義とはそういう矛盾を含んだ不完全な物だと言うことをしっかりと認識した上で我々は運用していかなければならない。


<参考文献>
「理性の限界」(高橋昌一郎)

起業より副業 - 日本に必要なのはリスクテイクではなくてリスク分散

このグラフは日本における開業率、廃業率の推移である。



木下英範のブログ-開業率・廃業率
                           出典:「2009年版中小企業白書」(中小企業庁)


昭和60年ころから廃業率が開業率を上回り、その乖離幅はどんどん大きくなっている。経済成長に必要なのはイノベーションであり、それは会社を開業すると言うことであるから、これを見ても日本の現状は停滞していると言える。


これはまずいということで、政府は創業支援をしたり、ちまたでは起業セミナーが盛況である。しかし、こんなに雇用流動性が低い国で怖くて起業なんかできるものではない。会社を興してもつぶれたらもう就職はできない(少なくとも元の処遇では)。


会社という仕組みは資金調達や与信には役に立つ。しかし、それ以上の物ではない。会社というのは手段である。本当の目的とは、まだこの世にない商品を作りたい、良い物を世間に広めたい、というところにあるはずだ。それはなにも起業をしなくても、従業員として参加することで達成できることかも知れない。


会社というのは自分の夢や目的を達成するための手段に過ぎない。自分の商品や、やりたいことがないうちに起業を勧めるのは犯罪に近いと思う。そして会社というのはほとんどが失敗するものだ。経験のないサラリーマンや学生がいきなり起業したところでその失敗率はさらに高いだろう。


木村剛氏は起業を1.5mの谷を飛び越える行為だと表現した。これは非常にうまいたとえだと思う。慎重な人は谷の深さを測ったり、急に風が吹いてきたらどうしよう、と考えているうちに不安になり、飛べなくなってしまう。そのため起業には向いていない。一方バカな人(楽天的な人)は何も考えずに飛んでしまう。そして案外うまくいったりする。


木下英範のブログ

まあこれはその通りなのだが、それではただバカのように飛べばいいのだろうか?そうではない。確かに、楽観的な人の方が起業には向いている。オプティミズム無きところに真のイノベーションはない。しかし、会社というものはほとんどつぶれるものだ。成功する人がいる裏では膨大な人が失敗しているのだ。


谷の下に大量の死骸が転がっているのを見て、誰が谷を飛ぼうと思うだろうか?無理に起業を促すことは逆に恐怖心を植え付けてしまうことになりかねない。


「起業ではなく副業」を勧めるべきなのだ。本業があるのならば失敗しても大丈夫なのだから。


リスクの話をしよう。個別のリスクとリターンを分けることはできない。たとえば、ローリスク・ハイリターンを得ることはできない。しかしリスクの一部を切り出して、ローリスク・ローリターン、ハイリスク・ハイリターンを作り出すことはできる。リスクの分散である。ローリスク・ローリターンは本業、ハイリスク・ハイリターンは副業だ。


商売のコツは小さなテストだ。常にテストをして世間の反応を見る。まずは小さく売ってみることが大事。だいたいはうまくいかないが、その中で売れる物が出てくる。そうしたらそれを少しずつ大きく売ってみればよい。


副業ならば資本金なんていらない。事務所もいらない。登記する必要も、書類を作ってだれかに説明する必要もない。起業するのは儲かって人手と資金が足りなくなってからでいい。土日やアフター5にちょろちょろとやってみて、たまたま当たったらそれを本業にすればいい。しかし一人ではモチベーションが続かないこともあるだろう。その場合は副業仲間を見つければいい。業種を超えた協力をすることでそれぞれの得意分野を活かせる。


軌道に乗るまでは本業をやめてはいけない。投資の教科書はリスクを分散せよと言う。それに従って投資先を分散している人もいるだろう。ならばなぜ最もリスクが高いはずの本業を分散しないのか?


蛇足だがもっと言わせてもらえば、転職するときになぜ元の会社を辞める必要があるだろうか?一人が何社にも所属していいはずだ。そのほうが相乗効果を発揮できる。また、仕事には繁閑がある。仕事のない暇なときも会社に8時間いなければならないなんてナンセンスだ。仕事がないのに会社にいなければならないから無理に仕事を作り出す。必要のない書類回しや会議などの無駄な仕事が作られていく。


米国のイノベーションが活発なのは、高い雇用流動性によりリスク分散がされているためだ。日本でも雇用流動性を高める議論がされているが、文化に根付いたことなのでそう簡単ではない。雇用流動性なんか高めなくてもやり方はいろいろあるのだ。


「リスクを取れ!」と言ったところで誰がリスクを取る?リスクを取ると言うことは失敗も多くなるということだ。失敗したら責任を取ってくれるとでも言うのだろうか。米国では起業率も多いが、それに応じて廃業率も高いのだ。リスク分散をすることで人は自然にリスクを取れるようになるのである。


何も大きな会社を作って上場するだけが商売ではない。個人で小さく商売してみるのも小遣いにもなって楽しいものである。そのうち何かが大当たりするかも知れないのだし。


Googleを使おう。キーワードツールでテストをしよう。PPCを使おう。アフィリで商売の練習をしよう。セミナーに出席して副業仲間を見つけよう。全部ノーリスクでできる。


実はこうしたやり方をしている人は最近とても多いと思う。開業率・廃業率というのは登記した会社で統計を取っている。水面下で個人でやっている商売は表に出てこないだけで、それを含めると開業率は大変に多くなっているのではないだろうか。現状をそれほど悲観することもないだろう。


「セレンディピティの周りでウロウロしてエキスポージャーを高めるのだ。インターネットの時代といって田舎に引き込んでいてトンネル化してもだめ。カクテルパーティーにいそいそと出かけて議論に加わり、会話の中に突破口を見つけるのだ。」(ナシーム・ニコラス・タレブ)

無人島に生きる十六人

「無人島に生きる十六人」という物語があります。


もしあなたが太平洋の真ん中で乗っていた船が座礁し、海に投げ出されたら、生きていく自信はあるでしょうか。これはそんな大惨事を生き延びた16人の日本人の物語です。


-明治32年、中川倉吉船長率いる龍睡丸は、漁夫や水夫を連れて、ミッドウエイ島近くで暴風雨にあい、船は座礁して大破。16名が近くの小さな無人島に流れ着く-


絶望的な状況で、彼らが生き延びられた秘訣はなんだったのか。


老人、若者、それぞれに役割分担があり、それぞれが無くてはならない存在であること。常に自然から謙虚に学び工夫を怠らないこと。毎日鍛錬に励み、強い意志を持ち続けること。毎日を愉快に、前向きに生きること。そして本当のリーダーシップとは何かを教えてくれます。


何よりすごいのは、この物語は紛れもない「事実」だと言うことです。子供向けの本なのでやさしく書かれているのですが、大人にこそ読んで欲しい。随所に教訓満載です。


今は著作権が切れていて、青空文庫で読めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001120/files/42767_15618.html

稼ぐと同じくらい「消費」は大事

お金を稼ぐことと同じくらい消費も重要だ。大きな意味で投資と消費の区別はない。すべての投資は消費と言えるし、すべての消費は投資と言える。


お金は投票権だ。お金を使うとは、自分の支持する製品や事業に投票するということだ。するとその事業分野はさらに発展して、潤いをもたらしてくれるだろう。これは社会をコントロールすることに他ならない。


消費者庁が本当に意味があるとしたら、それは消費者の保護ではなくて、消費を持ってして個人がいかに世の中をコントロールできるのか、消費というのがどういう意味を持っているかを教育し、それぞれが正しい消費先を選べるように地盤を整えたり、情報を引き出しやすくするためでなければいけない。


現代のように十分に発展した社会において、最もパワフルに社会を変革し得るのは、政治でも選挙でもない。それは経済であり、技術の発展だ。それはとりもなおさず消費に直結している。選挙権は20歳からしか持てないが、消費権は物心ついたときから行使できる。このパワーをしっかりと認識しなければならない。


その製品やサービスを消費しないことを選べば、その企業は消えていくだろう。消費というのは企業や技術の淘汰の原動力だ。消費はまた諸刃の剣だ。間違った使い方をすれば世の中の発展が遅れたり、邪悪な企業をはこびらせることにもなる。


一方、企業の立場に立てば、消費者の要求を先読みして対応する必要がある。消費者の歩む3m先に絨毯を敷いていくように。絨毯の方向を決めるのは企業だが、その道を歩むかどうかは消費者が決める。企業は常に、消費者の声による改善圧力と、不買による退出圧力にさらされている。


消費を抑制する意味での貯金や節約というのはえらくもなんともない。自分の価値観にあった正しい消費先を選べば、その製品は進化し、より高性能な物がより安く買えるようになる。これが本当の節約だ。間違った消費を浪費というのであり、正しい消費は浪費ではない。


「正しい」の定義は人それぞれ違うし、いろいろな見方があるが、自分が払ったお金がどういう経路をたどり、社会にどう寄与するか、想像力を豊かにしなければならない。


一人一人が社会を変革するパワーを持っているのだから。


【参考文献】
板倉雄一郎「お金とは・・・One for All , All for One」

ブレる人間になれ!

A「あの人はブレないねぇ、いつも言っていることが同じだよ」
B「あの人は言ってることがいつもコロコロ変わってついて行けないよ」

Aが正しくて、Bが間違っているのか?うかつに判断してはいけない。


「君子豹変」という言葉がある。本来の意味は、「君子は豹変す。小人は面を革(あらた)む」であり、君子は時に応じて、豹の毛が生え変わるように、鮮やかに変化する。これに反して、徳のない人は外面だけを改める。ということである。


言っていることがコロコロ変わるのが君子なのだろうか?率直に言えばそういうことになる。しかしここで間違ってはいけないのは何が変わっているかということだ。


生きるとはどういうことか。ある「目的(理念)」を持ち、そこに「手段」を講じて向かっていくことだ。しかし世の中というのは常に変化する。昨日正解だったものが今日も正解だとは限らない。揺れ動く世界の中で風の吹くままに流されていたのでは、目標に到達できない。


だから「手段」を変えるのだ。


そう、君子が変えているのは「手段」なのである。決して目的は変えない。移りゆく世の中で「目的」をブレさせないがめに「手段」をブレさせるのである。「手段」を環境に合わせて臨機応変に変化させなければ、「目的」がブレてしまうのだ。


目的と手段をはき違えてはいけない。目的はブレてはいけないが、手段はブレてもいい。


もし自分がリーダーを補佐する立場にあったときは、リーダーが豹変したとき、目的をブレさせないための手段の変更なのか、そうでないのかしっかりチェックして助言をしよう。

また自分がリーダーの立場にあるときは、環境がこう変わったから、目的達成のために、手段を変えるのだということをちゃんと説明しよう。


そしていつも自問自答しよう。手段を死守するがために、本当に大事なものを失ってしまうことのないように。

日本は中国のサーバントリーダー的立場を取るべき

中国が世界一になるのはもう避けようのない事実でしょうね。完全に中国のターンでしょう。だってあれだけの人数がいて、そのほとんどがまだ貧しい=ハングリー精神を持っているのだから。日本のようにすべての人が豊かになると成長は止まります。自分より上の者がいなくなるため、成長を想像できなくなるからです。しかし中国人全員が豊かになるためには相当な時間がかかる。とてつもない伸びしろがあるわけです。これは未だかつて無いパワーです。まともに戦って勝てるわけがない。


日本はこれからは中国の発展のお手伝いをすべきなのです。つまりサーバントリーダー的立場を取るのです。これは別に中国の属国になるとか、長いものに巻かれろという立場ではない。非常に戦略的な考えなのです。


これだけフラット化した社会では、世界のどこかで技術発展が起るとそれがたちどころに世界中に浸透する。iPhoneの例を見ればわかります。アメリカで発明されたこれほど高度な技術製品が時を待たずして日本で買える。しかも4万ちょっとという破格の値段で。世界の局所的な豊かさがすぐに世界中に伝搬する時代になったのです。もはや「競争」より「共創」の時代なのです。


今や、中国や台湾製のPCは1万円くらいで買えるようになってきました。インドでは20万で買える新車を創っている。今後まだまだ安くていい製品が出てくるでしょう。そして将来は100円で買えるPCが出てくる。それが日本でも世界のどこでも買えるのです。これが豊かと言わずして何と言うでしょう?


iPhoneの爆発的ヒットで確かにAppleは儲かったでしょう。しかし世界中の人々がそれを使うことによって得られた体験や利益は、Appleの儲けよりもはるかに莫大なわけです。


つまり、直接利益(製品を販売して得る利益)よりも、間接利益(世界が豊かになることによって返ってくる便益)の方がはるかに強大なのです。


世界中のイノベーター達を応援すべきです。ライバル心は持っていても決して足を引っ張るようなことをしてはいけない。モチベーションが高くてやる気のある人には思いっきり働いてもらいましょう。それが今は中国やインドなのです。彼らが気持ちよく働ける環境を整備してあげましょう。技術はどんどん教えてあげましょう。


技術を教えるって安全保障はどうするの?そのうち中国が戦争をしかけてくるんじゃないの?いやいや、技術を教えてくれた人を、仕事を手伝ってくれた人をどうして攻撃したいと思うでしょう?それに日本の技術で作った兵器ならば、よその国の技術やオリジナルの技術で作った兵器よりも御しやすいでしょう。つまり日本としてこの戦略をとることが最も安全保障上も有利なのです。そもそも、このまま行けばNo1が見えている中国が戦争をして得をすることがあるでしょうか?


世界を変え、便利に豊かにしていくのはアイデアであり、技術の発展です。そしてそれを形にするのがイノベーションです。そしてそれは世界各地にすぐに広がり、「全体の景色を」ガラっと変えるものです。それが真のイノベーションです。


そう考えるならば、仮に日本が中国の衛星国家になったとしても問題ないでしょう。日本に居続ける必要もないでしょう。世界のどこでどう暮らしてもいいのです。でも世界中のどこでどう暮らしてもあまり変わらないと思いますが。


さらに言えば、もう「国家」という枠組みは昔ほど重要ではない。自分と世界。自分が世界にどういう価値を提供できて、そしてそれを実行すれば世界から、自分とみんなにどういう豊かさが返ってくるのか。それを考えていく。そういう時代だと思います。

「やったこともないのに語るな」は詭弁

「やったこともないのに語るな」という態度は取ってはいけない。詭弁であると思っている。


たとえば、政治において政治家しか為政のことを語ってはならず、投票もしてはならないのだとしたら政治は成り立たない。


たとえば、職場において上司や社長の立場でものを考えることは重要だ。課長になるためには課長になる前に、課長の立場でものを語れなければいけない。課長になってから考えたのでは遅い。


岡目八目という言葉もある。新入社員に業務やシステムの問題点を指摘してもらうと、思わぬ根本的な指摘をされ、ハッとすることがある。内部に長くいると大切な視点が欠けてしまったりする。内部からの目と外部からの目は違う。当事者ではわからないことがあるのだ。まだ顧客視点を持っている新人に業務の問題点を指摘してもらうのは大いに有意義だ。


体験をした者と、体験をしていない者がそれぞれの視点で混ざり合って議論してこそ正しい答えに近づける。


そして同じ体験は2つとない。たとえば、「車に乗ったことがないのに、車のことを語るな」と言えるかどうか。車は車種によってその制動も操作感も全く異なる。1つの車に乗ったからと言って、すべての車の知識を得たことにはならない。


ゆえに、「やったこともないのに語るな」は詭弁であり、言うべきではない。