木下英範のブログ -4ページ目

何のための原因究明か

現在言われている今次経済危機の原因としては次のようなものだ。


世界的なマネーの過剰流動性と低金利が同時に進行し、適切な規制や監視がない中で信用貸付は安易に増大していった。さらなる高利回りを求めたグローバル資金は各種デリバティブ商品の開発を歓迎、これを購買し、信用のロングテールは誰にもわからないほど深く長く伸びていった。そうして形成された信用のチェーン、世界的な資産バブルは米国サブプライムローンの破たんをきっかけに崩壊することとなる。


さらにさかのぼると、BRICs各国はその安価な労働力と技術革新によって先進国を相手に商品を売り、膨大な量の貿易黒字を計上していた。アジア通貨危機の教訓から各国はそれを国内投資に回さず、外貨準備として積み上げていった。こうして世界の(まだ投資されていない)マネー量は増大していく。そうして過剰流動性は作られた。


さらにさかのぼると、グローバル化した世界はITによる情報伝達、業務効率化がよく効くから、世界的なIT投資ブームを呼び込んだ。しかし行き過ぎたIT投資はバブルを醸成し、そして崩壊した。ITバブルの崩壊以降、その清算、修復を図る過程において低金利が容認された。


さらにさかのぼると、まずベルリンの壁の崩壊によって東西冷戦が終了した。すると東側の安価な労働力が西側に流れ込み、世界全体の生産性を向上させるとともに、経済をグローバル化した。それはBRICs台頭の嚆矢(こうし)となる。


というのが一応一般的にされている考察だと思うが、原因を考えても実は意味はない。というのは原因というのは非常にたくさんあるからだ。決して一つに絞ることはできない。なるほど一番最初のきっかけは一つの事件かもしれない。しかし、物事というのは次々に連鎖反応を起こし、スパイラル的に進展していくものだ。しかもある要因はほとんど時間を置かずしてほぼ同時に起こる。それぞれの要因はギアのように噛み合っており、ひとつの要因の動きは同時に他の要因も動かす。ひとつの原因を改善したところでほかの原因が大きくなってしまうこともある。また、結果をコントロールするのに原因にアプローチするのが適切だとは限らない。まったく原因とは関係のないところから介入していったほうが早急に結果を改善できることもある。だから一番最初は何だったのかを究明して、それを改善したところで解決するわけではないのである。


また、すべての原因なんてものは誰にもわからない。わかったとしてもすべてのギアを同時に回すことは不可能だ。逆にいえば一つを動かせばギアは逆回転し得るのである。必要なのは、どのギアを動かしてギアを回転させるかである。だからこの意味で過去を振り返って原因を探すのは意味があるかもしれないが、ただ単に「今次危機の原因はなんだったのか」と騒いでいるのはまったくナンセンスである。



木下英範のブログ-原因と結果


1つの結果に対して必ずと言っていいほど複数の原因が存在する。そして原因同士は複雑に絡み合っている。たいがい原因の関連性は複雑すぎて解くことができない。原因究明も大事だが永遠に終わらない。だからある程度のところで見切りを付けて、あとはどうやって結果をコントロールするかに思考をシフトしなければならない。

ミツバチ - 脅威の脳力


木下英範のブログ-みつばち


春の花が咲き乱れて、今年も蜂たちが蜜を集め始めます。養蜂家にとっても忙しい時期がやってきました。養蜂の一般的なサイクルは次のようになっているようです。


11月~3月 : 室内で冬眠。
4月~5月 : 女王蜂が卵を産み、3週間後に働き蜂が作業を開始。
5月~6月 : 巣箱を屋外に配置し、採蜜作業を行う。
6月~11月 : 休閑期となりハチミツ回収は行わず、ミツバチたちの自由にまかせる。


5~6月だけ蜜をありがたくいだたいて、あとはミツバチの自由にさせておくのですね。こういう自然と共存する生産っていいですね。


ところでミツバチはどんな昆虫でしょうか。ミツバチはとても興味深い昆虫です。まず、働き蜂はすべてメスです。蜜集めをするのは生涯最後の4~5日間です。働き蜂の寿命はおよそ21日ですが、寿命は時間ではなく、飛行距離にかかわっていて、一定の距離を飛ぶと命が尽きるようです。


ミツバチが蜜のありかを「ダンス」で仲間に知らせることは広く知られています。どのようなダンスなのでしょうか。蜜たっぷりの花を発見したミツバチが巣に戻ると、真っ暗な巣の中の垂直な面の上で、胴体を激しく振動させながら8の字状に歩き始めます。他のミツバチたちはダンサーの回りに集まり、できるだけ彼女に触れようとします。8の字ダンスのスピードとサイズ、そして振動数と巣の壁上でのダンスの向きから、仲間は花までの距離と方角を推定するのです。


このような抽象的なダンスで表現するすべをどうして獲得したのでしょうか。とても不思議ですね。実はこのダンスは花までの実距離を伝えているのではありません。そこへ行って戻ってくるまでどのくらいの労力がいるか、つまり飛行のエネルギー量を伝えているのです。たとえば風のある日は無風の日に比べて違ったダンスになります。また、行きが向かい風か帰りが向かい風かを区別することもできます。


ある実験で、湖の真ん中を示すダンスをするように仕向けました。するとミツバチは湖の岸までは行きますが、真ん中までは行こうとしませんでした。湖の真ん中に花があるはずのないことを知っていたのです。また、目的地に向かう途中で、蜂をまったく違う場所に移動させても迷うことなく目的地へ到達しました。このことから、ミツバチたちは頭の中に地図情報を持っているといえそうです。おそらく、蜂の頭の中の地図とダンスは密接に関連づいているのではないでしょうか。


また、次の実験からも蜂の驚くべき脳力がわかります。まず、砂糖水を巣から数メートルの位置に置きます。するとすぐに蜂がやってきます。次の日、砂糖水を巣からさらに25%遠くに置きます。またすぐに見つけます。これを繰り返すとやがては、次の位置を想定し、25%先で待っているようになるというのです。一定間隔ではなく、25%間隔です。蜂は等比級数の計算ができるのでしょうか。私達の想像しているよりも、この地図とダンスのシステムはすばらしいものなのかもしれません。


余談ですが、結婚後1ヶ月間を「蜜月」と言ったりしますね。英語ではハネムーン「honey moon」です。語源は、新婚後一ヶ月間、花婿にハチミツ酒を飲ませ精力をつけさせるという古代ゲルマン人の習慣からきているという説があるそうです。しかし、甘い蜜のような言葉も一つ間違えると蜂の一刺しを食らったりすることがあるので要注意です。


参考文献
ウィキペディア - 蜂蜜
プロポリス - ミツバチの生態
山田養蜂場 - みつばちの不思議なくらし
畜産ZOO館 - ミツバチのデータ

・そうだったのか!(講談社)
・ファーブル昆虫記



※このコラムは2005/05/11に他ブログで執筆したものです。

比較優位原理の使用について

自由貿易擁護派がその論拠を語る際たびたび登場するものに「リカードの比較優位の原理」がある。しかし用途を少々万能化しすぎているものが散見される。


リカードの比較優位の原理とは


イギリスとポルトガルにおける毛織物とワインの生産性が下記のものであったとする。



イギリス ポルトガル
毛織物1単位の生産に必要な労働力 100人 90人
ワイン1単位の生産に必要な労働力 120人 80人

イギリスは比較的毛織物の生産性が高く、ポルトガルは比較的ワインの生産性が高い。ここで、イギリスが毛織物、ポルトガルがワインに特化すれば全体として、2.2単位の毛織物と2.125単位のワインを生産できる。次に、両国が自国で消費しない分をどういう比率で交換するかであるが、両国にとって特化する以前のそれぞれの国内での毛織物とワインの交換比率よりも有利に貿易されなければ意味がない。1単位の生産に必要な労働力から考えると、ポルトガルではワイン1単位と毛織物80/90単位が等価で交換され、イギリスではワイン1単位と毛織物120/100単位が交換されていたと考えられるから、ポルトガルにとっては、ワイン1単位に対して、毛織物80/90単位以上が得られれば有利であり、イギリスにとっては、ワイン1単位を得るのに毛織物が120/100単位以下であれば有利となる。


したがって、ワイン1単位に対する毛織物の交換比率が80/90以上、120/100以下であれば、この貿易により両国がともに利益を得ることになる。たとえば、この条件に合うワイン1単位と毛織物1単位という交換比率で貿易を行えば、ポルトガルは生産した2.125単位のワインのうち1単位をイギリスに輸出して、1単位の毛織物を得ると最終的には、1単位の毛織物と1.125単位のワインを得ることができる。イギリスは生産した2.2単位の毛織物のうち1単位をポルトガルに輸出すれば、1単位のワインを得ることができ、最終的には1単位のワインと1.2単位の毛織物を得ることができる。こうして両国とも特化前よりも豊かな生活が可能となる。




イギリス ポルトガル 総計
特化前 毛織物
ワイン
100人で1単位
120人で1単位
90人で1単位
80人で1単位
2単位
2単位
特化後 毛織物
ワイン
220人で2.2単位
 ―
 ―
170人で2.125単位
2.2単位
2.125単位

他の解説は下記が参考になる。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20090128/184222/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E8%BC%83%E5%84%AA%E4%BD%8D

http://jyukenblog.cocolog-nifty.com/society/2008/12/post-151c.html


比較優位原理の注意点


ところで注意すべきは、比較優位は最適配置であり、それを適用して得られるものは総合力の絶対的な増加ではないということだ。最適な人材配置、または最適な仕事の割り振りを目指すものであって総合生産性は必ずしも増加するとは限らない。


また、比較優位の原理を語るときにはその前提条件が重要である。

【前提条件】

・その商品市場が十分に大きい。過剰生産を吸収できるくらいに
・関税・輸送費を考慮した上でも比較優位があること
・片方の生産をやめた場合でも、もう片方の生産性に影響がない(生産というのはえてして相互補完的だ)
・人を解雇できない


比較優位原理は確かに役に立つ。そして自由貿易の論拠の1つとなり得る。しかしこの原理は前提条件が重要である。(経済情勢は常に変化しているから)前提がしっかりと成り立っているかを常にウォッチし、その範囲で使うのならば十分な効果が得られるだろう。

語録

もし、金本位制がなければ、インフレによるひそやかな財産没収に対して貯蓄を守る手立てがなくなってしまう。赤字財政支出は、富をからめ取るための陰謀にすぎない。このひそやかなたくらみの前に立ちはだかったいるのが金(Gold)である。このことが理解できたなら、国家統制主義者が、何故「金本位制」に対して敵意をむき出しにするのかが理解できるであろう。
(1968年 アラン・グリーンスパン)

語録

恥ずかしいと感じた時、それは運命があなたを磨いている時。
寂しいと感じた時、それは運命があなたに期待している時。
貧しいと感じた時、それは運命があなたを豊かにしている時。
進歩を感じた時、それは運命があなたを奨励している時。
小さな友よ、信じよう、誰かがあなたとずっと一緒にいることを。
(宋文洲)

ニュース - ハローワークで1000万人雇用 厚労省

ゲーム - Reincarnation: Riley's Out Again

おカネの歴史⑩ - 紙幣の登場

世界初の紙幣「交子」


世界最初の紙幣は西暦990年ころ、中国で生まれた「交子(こうし)」だといわれています。鉄が豊富な地方であったため鉄銭を使用していましたが、重くてかさばるため鉄銭の預かり証としての紙幣が広まっていったと考えられています。無記名式の預かり証ですから、誰でもこれを持って窓口へ行けば鉄銭と替えてくれます。発行窓口が正しく業務を行っていれば「預かり証=おカネ」という信用が成り立ちますから、これが通貨として広まっていったのでしょう。中国は世界で最初に紙を発明した国ですから一番最初に紙幣にたどりついたのは自然なことです。


 木下英範のブログ-交子

     交子


イギリスでは17世紀中ごろに「金匠手形(Goldsmith Note)」が発行されたのが最初の紙幣だといわれています。これは金の預かり証で、最初は銅板に記載されていましたが次第に紙になっていきました。実はイギリスよりも早く、世界で2番目に紙幣を使い始めたのは日本です。


日本初の紙幣「山田羽書」


日本で最初の紙幣が誕生したのは1600年ころ、伊勢山田地方の商人たちが、少額銀貨の預かり証として「山田羽書」という名前の預かり手形を発行したのが最初だといわれています。つまり、この手形を持ってくればいつでも銀と交換するよ、という証書であり、銀一匁と書かれた山田羽書は銀一匁と同じ価値を持ちます。そしてこれは第3者に渡しても有効です。銀は重くてかさばるので山田羽書でやりくりしたほうが便利です。また、商人たちは奉行所と組み、十分な引き換え準備金を用意するなど信用保持に努めました。


このような事情から山田羽書はやがて紙幣として域内広く流通します。みんなが使っていると安心して使えるため、ますます紙幣としての信用が高まります。そうして江戸時代全般を通じて使われ続けたのです。山田羽書のアイデアは後に、藩により発行され自治領で通用する紙幣「藩札(はんさつ)」の元になりました。ただの紙がおカネになるまでの最初の過程は世界のどこでもだいたいこのようなものです。しかしこの時点では銀の裏付けのある「兌換(だかん)紙幣」。裏付けなしで流通する本物の紙幣となるまでにはまだ時間が必要です。



 木下英範のブログ-山田羽書

            山田羽書


藩札の登場


江戸時代に入ると、山田羽書をお手本に大商人らが次々と「私札(しさつ)」を発行するようになりました。紙幣の便利さが伝わってくると各地の大名もこれにならい「藩札」を発行しました。幕府貨幣を差し置いて藩札が流通することを危惧した政府は藩札禁止令を出しますが、藩では額面を米で表示して、これは米の引換券であるなどといった抜け道を探して使い続けました。


これには、経済が発展するなかで幕府の貨幣だけでは足りなくなっていたという事情があります。実際、地方では金銀貨よりも藩札のほうが主流であったといわれています。


 木下英範のブログ-福井藩札

      藩札


偽札との戦い


金や銀などと違って紙幣は紙ですから誰でも容易に作れます。紙幣が誕生したと同時におカネの偽造との戦いも始まったのです。当時の偽造防止の手段としては下記のようなものがありました。


・素材にいろいろな繊維を混ぜる
素材に雁皮(がんぴ)、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)の一般的な和紙の材料に加え、竹や木綿などを混合し独特の紙質を得る。混合比は極秘とされた。現在でも日本銀行券の繊維配合は機密事項である。


・繊維を砕く
水の中で素材をたたくことにより、繊維の長さを短くし、その加減により独特の風合いを得る。


・泥を混ぜて質感・色を変える
名塩紙に用いられる泥土が有名。泥土を混ぜることにより紙質が滑らかになり、また強度を高める。泥土の色により独特の紙色を得られる。


・隠し文字を入れる
模様に隠し文字を仕込んだり、一般人には解読不可能なオランダ語や創作文字を配したりした。


・透かしを入れる
当時は白透かし(模様部分が薄くなり白く抜ける)が一般的。現在のお札には黒透かし(模様部分が黒くなる)が使用されている。現在でも許可なく黒透かしの紙を作ることは犯罪である。

人はなぜ怠惰なのか

世の中、一般的には勤勉が賞賛される。子供のころから勤勉たれと教育される。そして、まじめで勤勉であるほうが、不まじめで怠け者であるよりも社会における成功確率が高い。


しかし、誰しもそうであるが、人間は基本的に怠け者である。厳しく自分を律していなければ勤勉さは保てない。そもそも人間がもとから勤勉性を持ち得ているのであれば、勤勉たれという教育は不要である。


ではなぜ人間のデフォルト設定は怠惰なのだろうか?勤勉であるほうが成功するのに、なぜ怠惰は淘汰されないのであろうか?


結論から言うと、それはハードウェア(身体)とソフトウェア(文化)のずれである。


むろん人間は完全に怠惰ではない。何もしないでずっと家でゴロゴロしていると、それはそれで耐えがたい。やはり一定量仕事をすることも好きなのである。たとえ単純作業であっても短時間ならば楽しいものである。億劫だと感じる労働量にはある一定の規定値(快適労働量とでも言おうか)というものが存在する。労働がこの規定ラインを超えてしまうとその労働が億劫に感じる。しかしその快適労働ラインは現在の仕事量よりもずっと下だという気がする。一日8時間はちょっと多い。心地よく仕事ができる時間は一日3時間くらいだろうか。なぜこう感じるのだろう?


人間はどのくらい働いたら生きていけるか。生存維持労働時間はどのくらいなのだろうか。単純化すると人間は衣・食・住(防寒・エネルギー・安全)があれば生きていける。衣食住は人間の最低固定費だといえる。だからこの固定費を賄えるだけの労働、すなわち労働から得られる価値における損益分岐点(売上=固定費)たりえる労働量が生存維持労働時間である。


人間のデフォルト設定が怠惰だということは人間のハードウェア(遺伝子)にビルトインされたものである。過度に勤勉であっても子孫を残せない、ある程度働いたらあとはじっとしているほうが生存率が高かった理由が存在するはずである。この問題を解くには人類の進化と文化の歴史を考える必要がある。


まず、現在の人類であるホモ・サピエンスが誕生したのは二十万年前であるが、そのころから脳の体積は変化していないということだ。次に、ホモ・サピエンスの歴史の中で狩猟採集時代が圧倒的に長い。非常に大雑把に俯瞰してみれば人類は進化的にはまだ石器時代にいるのだともいえる。


食糧や財を蓄えることのできなかった狩猟採集時代には、衣食住の最低固定費さえ賄えればそれ以上の労働は無用である。狩猟採集時代、人類にとって世界は危険に満ちていた。必要な狩りや山菜取り以外の行動はなるべう避けたほうが生存率が高い。つまり子孫を多く残せる。必要以上の獲物を狩ったところで食べきれないし、外敵に襲われて死ぬ確率が高くなるだけである。この時代、勤勉というのはほめられたものではなかった。望まれたのは危険を避け、てっとり早く食料を入手するスキルだったのだ。


危険を避け、てっとり早く食料を入手するスキルとは、「獲物を狩るときだけ瞬発力を発揮し、それ以外は洞窟でじっとしている」というものだ。狩猟採集時代には、この生存ラインを維持する労働量が最も効率が高い。すなわちこれが人類の「快適労働ライン」なのである。


農業革命以降は富の蓄えが可能となったので努力が報われる時代となった。農業革命以降、過剰生産、財の貯蓄というものができるようになって努力を重ね、コツコツと富を蓄えた者はよりよい生活ができるようになった。そして貨幣の発明によってそれはより顕著になる。努力、勤勉の上限がなくなり、頑張れば頑張るほど豊かになる。どこまでも頑張れるようになったのだ。しかし人間のハードウェア的には、最適労働量、怠惰ラインは先述の生存ライン上にとどまるから、はるか下になる。


・狩猟採集時代 → 多能工
1つのことをずっとやるということがない。むしろ、早く次の場所に移動しなくてはならない。


・農業時代以降 → 専業化
1つことをコツコツずっと続ける作業が発生。「努力」が賞賛されるようになる。


<反論>
ここでちょっとした反論があろう。家でじっとしていても危険がないのならば道具を作ったり、知識の共有をすればよいではないか。家(ほら穴)にいるのだから、怠けていても仕事をしていてもリスクは同じ。ならば仕事をしたほうが生存率が高いのでは?


<反論の反論>
狩りの時代は瞬発力が要求される。一瞬のタイミングを逃すと獲物は逃げてしまう。そのタイミングに備えて常に体力をMAXにしておく必要がある。したがって狩りの時以外はゆっくり休んでいたほうが効率がいい。


要するに、人類の肉体・精神における生物的進化よりも、圧倒的に早く文化が進化した。カンブリア紀が生物的進化の爆発期だというならば、現代は文化的進化の爆発期である。勉強や仕事を億劫に感じるというのはその代償ともいうべきものなのだ。現在の文化から人間というものを見れば怠惰に感じるのだ。


便利になった現代の世の中では、その便利さを維持するために毎日たくさんのものを製造、維持管理しなければならない。そのためにたくさんの労働が必要なのだ。だからといって文化を逆戻りして昔の生活に戻ることはできないし、発展拡大をその存在定義とする「生物」の一種である人類には不可能だ。


では(生物的進化が追い付くまで)我慢しながら生きていかなければならないのだろうか。


おそらく、もっと技術が進歩して生産性が上がり、ほとんどのものを自動で生産できるようになれば、この「業」から解放される時が来るのかもしれない。しかしそれはいつくるか、本当に来るのかわからない。それでは今できることはなにか。


勉強や仕事を億劫でなくする方法が2つある。1つは肉体的、精神的な鍛錬だ。もう一つは、「自分が楽しいと思うことをする」、そしてそれを「楽しくする努力をする」ということである。


おカネの歴史⑨ - 江戸中期~幕末

包金銀


大量の小判や丁銀を扱う場合、一定数を紙に包んで受け渡しする「包み金」「包み銀」が用いられました。金銀貨の鋳造者は完成品を紙に包んで幕府に上納します。幕府はその封を解かずに報奨金や公共事業の支払いなどで市中に流したため、紙に包まれたまま流通したのが始まりだといわれています。当時、金貨を鋳造していたのは後藤家、銀貨を鋳造していたのは大黒屋(湯浅作兵衛常是)です。いずれも代々貨幣の鋳造を受け持つ名家です。包金銀はこれらの鋳造者の名前をとって通称「後藤包」、「常是(じょうぜ)包」と呼ばれました。


いったん包んだ貨幣は事故や摩耗で破れるまで基本的に中身を開けることはなかったようです。後藤家、大黒屋は代々貨幣を鋳造し高い信用力を得ていたのと、貨幣が紙で包まれていれば贋金(にせがね)が混入することなく、真贋鑑定の手間を省くことができ、また銀の秤量の手間を省くことができたため、大変便利だったのです。のちに両替商も施封を行うようになり、こちらは「両替屋包」といわれました。

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銀貨の計数貨幣化


幕府は金貨に統一したいにもかかわらず、銀貨の鋳造も行っていました。金貨は計数貨幣でありコントロールが容易です。一方、銀貨は秤量貨幣であり、額面はなく重さで価値が測られるため幕府にしてみれば厄介な代物でした。しかし大阪では外国貿易をルーツとして素材価値で取引できる銀貨を使うことが慣例化していました。当時、大阪商人の力は強大であったため幕府も容認せざるを得ませんでした。


18世紀になり経済の中心が関東圏に移ってくると、幕府は一計を講じて「明和五匁銀」(1765年)を鋳造しました。これは表面に「銀五匁」と銘が打たれた銀貨で、文字通り五匁の重さを持っていました。銀貨の計数貨幣化を狙ったものであり、計数貨幣と秤量貨幣の性質を併せ持つことから「定量貨幣」と分類されています。ところが、


『これは当時の通用銀(元文丁銀)と同品位(46%)の定量銀貨で、公定相場(金1両=銀60匁)により12枚で金1両と交換できた。しかし、定量銀貨の発行は、金銀相場の変動から得られる利益や秤量手数料の獲得機会の喪失を意味したことから、両替商からの協力を十分えられず、その結果、明和五匁銀の流通は芳しくなく、2年後には回収された。』(貨幣博物館)


というように、両替商の反対にあい、流通に失敗しています。


その後、幕府は再度チャレンジし、「明和南鐐(なんりょう)二朱銀」(1772年)を発行しました。銀貨であるにもかかわらず「朱」という金貨の単位がつけられます。表面には「8枚で小判1両と交換できる」の文字が刻まれました。最高品質の銀を意味する「南鐐」が冠せられているだけあり、品位は98%とほぼ純銀レベル。両替商に対しては無利子・無担保で貸し出して協力を仰ぎました。これはうまくいき、次第に丁銀を駆逐、1830年代以降になると、発行銀貨の約9割を計数銀貨が占めるようになったのです。金と等価での交換を保障したことから、日本初の金本位制貨幣といわれています。

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幕末の金貨流出


さて、日本では幕府の政策により銀の計数貨幣化が進んでいきました。この過程でその代償ともいうべき現象が起こっていきます。それはどういうことでしょうか。計数貨幣は素材価値ではなく額面で評価される貨幣です。計数貨幣の鋳造者(幕府)には常に鋳造差益を得るという誘惑 --額面はそのまま、質・量を落として安く生産し差額を儲ける-- が存在します。幕府も銀貨の銀量を次第に下げていきました。もっともこれが最初から狙いだったのかもしれませんが。


一方で、二朱銀は二朱金と等価で交換するというように交換レートが固定されています。つまり、実質価値では次第に銀高が進んでいったということです。日本では素材価値のあまりない銀でも価値のある金と交換できます。国際金銀比価との差は3倍に開いていました。そしてそこにペリーがやってきて日本は開国を余儀なくされます。すると外国から銀を持ち込み、日本のレートで金に交換するという者が押し寄せます。具体的にはこうです。


洋銀(メキシコ・ドル)1枚 → 一分銀3枚 → 小判3/4両 → 小判を母国に持ち帰る → 小判(金)をドル(銀)3枚に交換


このようにノーリスクで1ドルが3ドルに化けてしまいます。これによって日本の金貨は急速に海外に流出していきました。


もっとも幕府は開国前にこのことに気づき、交渉を重ねていました。「日本の銀貨は金と等価交換ができるので金と同じ価値をもつ。よってメキシコドル1枚=一分銀1枚で交換されるべきである」と。しかし当時から日本の外交は弱腰であったのでしょう。銀の素材価値の等価性で交換するという論理に押し切られてしまいました。



次に、品位をあげ額面価値を半分に落とした安政二朱銀を新鋳、ドルとの交換に対抗しようとします。しかし諸外国の強い反発にあい、これも断念。その後、万延元年(1860年)には1両当たりの金量3分の1のとても小さな万延小判への移行を断行。この結果、国内の金銀比価はほぼ海外なみとなり、やっと金の流出に歯止めがかかったということです。

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   万延小判
 


【参考文献】
日本銀行貨幣博物館
コインの散歩道(しらかわ ただひこ)