今週の「暮らしの古典67話」は、「袖振る(前)」です。
このところ、愚図ついた空模様で、2月やいうのに菜種梅雨を思わせます。
「春本番」が待ち遠しい今日この頃です。
写真図1 「春」のイラスト 作者:kabuさん
今から50年ほど前「雪が溶けて川になって流れて行きます」が歌い出しの曲が流行りました。
たしかエンディングは「もうすぐ春ですね。恋をしてみませんか」でした。
当時のボクは雪解けの実感はないものの、独り身の新米教師で
キャンディーズの「春一番」(作詞作曲・穂口雄右)の
「恋をしてみませんか」に浮かされていたものです。
「恋とは「不在」に気づくものなり」とは、
その新米教師時代以来の思いか否かは知りませんが、
図らずも、3月2日(土)《福っくらトーク》に、高校時代の同級生である神原文子さん(社会学者)からの
「結婚と夫妻関係-そこに愛はあるのか?」の話題が提供されることになりました。
写真図2 《福っくらトーク》のポスター 作成:《福っくらトーク》代表・玉尾照雄会友
いくら柳田國男、折口信夫をあさっても、彼女から提供される話題としっくり来ない。
それなら、いっそ昨年末の「夕陽を見る会」後のナオライの帰り、
山林誠一郎会友との会話に「最近、女性は屡々手を振りますよ」とあった動作について、
真剣に考えてみることにしました。
これなら古代人が「袖振る」に通底するやも知れぬ。
「ことのは考67話」は、題して「袖振る(前)」です。
新村出編2008年『広辞苑第六版』岩波書店の「袖振る」を検索しました。
◆①別れを惜しみ、あるいは愛情を示して袖を振る。(以下略)
はたして最近の女性に見られる手を振る動作に「愛情」が示されているのでしょうか?
早速、小学館『萬葉集』をテキストに、新潮社『萬葉集』を参照することにしました。
「袖を振る動作」(以下「動作」)が含む歌を23首拾い上げました。
作歌者による実際の「動作」、当事者間での想像の「動作」の他、
「動作」を余興とする歌もあります。
実感の乏しい「動作」を余興とする歌4首から始めます。
挨拶歌:(5):1首
七夕歌:(9) (10) (21):3首
「挨拶歌」の一首は(5)巻3ー376です。
◆湯原王宴席歌二首
376 あきづ羽の 袖振る妹を 玉くしげ 奥に思ふを *見たまへ我が(ルビ:あー)君
注釈に次の記述があります。
◆*見たまへ我が君:テキスト245頁:君は宴席の貴人をさす。
『集成1』1977年210頁:軽妙に主賓に呼びかけた挨拶歌。
本稿に「挨拶歌」としたのは、『集成1』によるものです。
この歌は宴席の場での女性による蜻蛉の舞を「袖振る」と形容したものです。
男女の交情を表現するものではありませんので、
今回の考察から外します。
次に「七夕歌」を挙げます。
「七夕歌」は(9)巻8ー1525、(10)巻10ー2009、(21)巻18ー4125の3首です。
◆1525 袖振らば 見もかはしつべく 近けども 渡るすべなし *秋にしあらねば (1526中略)
右、天平二年七月八日夜、*(大伴旅人太宰)帥家集会(訳文ルビ:つどふ)。
*袖振らば:『テキスト2』1972年:袖を振るのは愛情の表現。
*秋にしあらねば:『テキスト2』1972年:この秋は、二星*(牽牛と織女)の逢うべき七月七日をさす。
◆秋雑歌 七夕
2009 汝が恋ふる 妹の命(ルビ:みこと)は 飽き足らに *袖振る見えつ 雲隠るまで
*袖振る見えつ: 『テキスト3』1973年:この袖振ルは別れを惜しむさま。
◆七夕歌一首 併短歌
4125 天照らす 神の御代より 安の川 中に隔てて 向かひ立ち *袖振りかはし 息の緒に 嘆かす児ら(略)
*袖振りかはし:『集成5』1984年160頁:「袖振る」は愛情を示す動作。
1525番歌の右注本文に「集会」とあって訳文に「つどふ」と訓じています。
一日遅れの七夕の夜、歌会での場での作歌であります。
歌題に挙げられている「動作」の主体は、1525番歌の註にある「二星*(牽牛と織女)」で、
伝説上の人物であって、作歌者および「動作」の及ぶ相手ではありません。
「動作」は、2009番歌に「別れを惜しむさま」、4125番歌に「愛情を示す動作」とあります。
今回の「ことのは考 袖振る(前)」に適う解釈であります。
後篇には「袖振る」動作を男女の性差に留意し、恋の心理を探ることにします。
なお、《福っくらトーク》第9回「結婚と夫妻関係-そこに愛はあるのか?」の進行は以下のとおりです。
写真図3 第9回《福っくらトーク》進行表 作成:《福っくらトーク》代表・玉尾照雄会友
《福っくらトーク》は、参加費無料、手続き不要。
会場に駐車場があります。
興味のある方は直接、お越しください。
大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師 田野 登