前回「後篇には「袖振る」動作を男女の性差に留意し、
恋の心理を探ることにします」と予告しました。
今なら別れる時、「バイバイ」と手を振り交わすだけのことです。
写真図 バイバイのイラスト 作者のぶちゃん
それを、いくら春が待ち遠しい時季とて、
古代人の「袖振る」を探るとは、「コダイ妄想」でしょうか?
異性間の恋心を穿鑿する作業を通じて、あわよくば今に通じる
霊魂観のようなのがみえてこないでしょうか?
「暮らしの古典68話」ではまず、作歌に見える「袖振る」表現を、
現実に「袖振る」動作を詠った歌と、想像の「袖振る」動作を詠った歌とに分類しました。
例えば、現実の「動作」を詠った歌には、巻2ー132があります。
◆柿本朝臣人麻呂従二石見国一別レ妻上来時歌二首並短歌/反歌二首
132 石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
「我が振る袖を 妹見つらむか」とあって、「袖振」の主体は「我」男性(柿本人麻呂)で、
「妹」女性(妻)に向けての動作であります。
詞書「従二石見国一別レ妻」から石見国を立ち去る時の妻との別れを詠んだ歌であります。
これに対して、巻15ー3725は如何でしょう。
◆3725 我が背子し けだし罷らば 白たへの 袖を振らさね 見つつ偲はむ(中略)
右四首、娘子臨レ別作歌。
「袖を振らさね」を『集成4』1972年の通釈には女性の言葉であって、
「衣の袖を私に振って下さいね」とあります。
「我が背子」に「娘子」が別れに臨んだ時に「袖振」動作をお願いしているのです。
男性は、いったい何時、女性に袖を振れば良いのでしょう。
「けだし罷らば」を『集成4』の通釈の「ば」に注目します。
「万一、遠い国へ下ってゆかれるなら、その時は」とあります。
「その時」を仮定して、「娘子」は「我が背子」に袖振動作をお願いしているのです。
この歌は、男性が地方への赴任のため別れる場面を想像しての歌です。
これを本ブログでは想像の「袖振る」動作に分類します。
それが、この《想像の「袖振る」動作》がけっこう多いのです。
《現実の「袖振る」動作》から男女別にみましょう。
例に挙げた巻2ー132の他にもあります。
有名なのは額田王作歌の巻1ー20です。
20 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや *君が袖振る
「君が袖振る」の「君」は男性で大海人皇子のちの天武天皇であります。
『テキスト1』1971年は「君が袖振る」の註に「袖を振るのは愛情の表現」とあります。
如何にも寵愛を受けた女性を思わせますが、
詞書に「猟二蒲生野一時」とあり、『集成1』1977年には
「内容は相聞だが、雑歌の部に入れられたのは、
天皇遊猟という公的行事の際の宴歌だからである」とあります。
「公的行事の際の宴歌」で「袖振」をあしらった戯れ歌であって、
作者・額田王自身が大海人皇子から愛情表現を受けたのを番人が見ているので
一悶着ありますよとでも詠っているようです。
『集成1』1977年は「野守」の註に「天智天皇を寓したもの」と記しています。
じじつ、この男性二人は壬申の乱で争うことになります。
この宴歌の「袖振」表現は単純なものではなく、
寓意にとんだ込み入った宮廷内での事情が潜んでいそうです。
真率、男性から女性への「袖振」動作は、
巻14ー3389「東歌/常陸国相聞往来歌」に詠まれています。
◆3389 妹が門 いや遠そきぬ 筑波山 隠れぬほとに 袖は振りてな
『集成4』1982年に「筑波山麓に妻を残して旅行く人の歌」とあります。
この歌の「袖振る」は男性が女性を残して発つ時の惜別の動作です。
巻14ー3402は、女性の視線で男性の袖振動作を見届けた歌です。
◆3402 日の暮れに 碓氷の山を 越ゆる日は 背なのが袖も
さやに*振らしつ(布良思都)
東歌/上野国相聞往来歌
『集成4』1982年通釈は
「日暮れ時なのに、あの方が碓氷の山を越えて行かれたあの日には、
あの方のお振りになる袖まではっきり見えた」とあります。
過去にあった男性の袖振動作を
「袖もさやに*振らしつ」と確認しております。
『テキスト3』1973年に
「振る袖が見えたと歌うことで、魂の交流ができたと喜ぶ歌」とあります。
これは幸せな別離というべきです。
巻11ー2485や如何?
2485 袖振らば 見つべき限り 我はあれど その松が枝に 隠らひにけり
「我」は女性であって「袖振らば見つべき限り」を『テキスト3』1973年は、
「夫の袖が見えなくなる、その間際まで」と註に記しています。
「その松が枝に 隠らひにけり」と事態の終息に詠嘆しております。
寄物陳思歌の「物」は「松の枝」でありますが、
「上野国相聞往来歌」巻14ー3402と同様、
袖振動作による「魂の交流」が完遂したというべきです。
いっぽうで女性の方から男性に「袖振る」動作を詠んだ歌や如何?
巻6ー965です。
◆冬十二月、太宰帥大伴卿上レ京時、娘子作歌二首
965 *凡ならば かもかもせむを 恐み(ルビ:かしこー)と 振りたき袖を 忍びてあるかも
『テキスト2』1972年は「凡ならば」に以下の註を付しています。
「オホは、普通、通りいっぺん、の意。相手*(大伴)旅人が高貴な身分であるので憚られるのである」と。
この歌に続く966番歌は、以下のとおりです。
◆966 大和路は 雲隠りたり 然れども 我が振る袖を *なめしと思ふな
『テキスト2』の「なめし」の註に「無礼だ。身の程をわきまえない」と付しています。
当時、女性が男性に「袖振る」動作が躊躇われる風潮があったのでしょうか?
それとも身分違いなる故のことでしょうか?
女性が男性に空想でなく現実に「袖振る」動作を詠んだのは、
この2首の他には巻13ー3243があります。
◆雑歌
3243 娘子(ルビ:をとめ)らが 麻笥(ルビ:をけ)に垂れたる
続麻(ルビ:うみを)なす 長門の浦に(中略)
その波の いやしくしくに 吾妹子に 恋ひつつ来れば 阿胡の海の
荒磯の上に 浜菜摘む 海人娘子らが うながせる
領巾(ルビ:ひれ)も照るがに 手を巻ける 玉もゆららに
『テキスト3』1973年に*相思ふらしもの註には、
「相思フは、互いに思う意。
海人おとめも作者に好意を持っているらしいな、の意」とあります。
「吾妹子に 恋ひつつ来れば」とあり、
旅中での男性の束の間の儚い思いと解釈されます。
ちなみに男性が女性に「袖振る」動作をし損じた歌が2首並んであります。
そのうちの先の歌は巻12ー3184であります。
◆羈旅発思
3184 草枕 旅行く君を *人目多み 袖振らずして あまた悔しも
『テキスト3』1973年は「人目多み 袖振らずして あまた悔しも」を
「人目が多かったので 袖を振らずに別れて ひどく悔しい」と通釈しています。
人目を憚り女性に「袖振」動作をできずに悔やんでいる男の歌です。
男性には世間体というのが、この時代にもあったのでしょうか?
「袖振」動作から男女の万葉人の感情の機微が垣間見えます。
想像するだけの「袖振」動作の心境や如何?
次回に考えます。
大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師 田野 登