袖振る(後) 暮らしの古典69話 | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今週の「暮らしの古典69話」は、「袖振る(後)」です。

手を振り交わす動作が気になるのです。

写真図 女性の後ろ姿 作者:ACworks

この女性は、いったい何方に手を振っているのでしょう。

 

今回は、想像・空想での「袖振る」動作をみてみましょう。

男性自らが女性に袖振をしている場面を想像している歌は巻20ー4423です。

足柄の み坂に立して 袖振らば 家(ルビ:いは)なる妹は さやに見もかも

 右一首、埼玉郡上丁藤原部等母麻呂(中略)

 (天平正宝7(755)年)二月廿九日、武蔵国部領防人使正六位上安曇宿祢三国進歌数廿首。但拙劣歌者不二取掲一之。

 

左注から分かるように、この歌は「防人歌」で、

徴発された男性が「足柄のみ坂」に立つ時を想定して予め作った歌です。

「袖振らば」を『テキスト4』1975年通釈には「袖を振ったら」と訳しています。

その時、男性の袖振を女性がはっきり見てくれるだろうかと詠んでいます。

袖振の場所に想定されている「み坂」につき、『集成5』1984年は、

「東の国を見納める地、足柄峠での最後の袖振りを先取りした歌」と記しています。

実際に足柄峠から見ることが出来たか否かはともかく、「足柄のみ坂」が武蔵国の人にとって

国境を思わせる場所であったことが分かります。

袖振る場所は境界となる場所です。

 

男性が女性の袖振を想像しているのは巻12ー3212です。

◆問答歌 3211(略)

3212 八十梶掛け 島隠りなば 吾妹子が 留まれと振らむ 袖見えじかも

 

「島隠りなば」を『集成3』1980年通釈には「島蔭に隠れてしまったならば」と訳し、

この歌を「船出の後、妻のあたりが見えなくなる悲しさを思いやって答えた夫の歌」と解説しています。

この先、行く末の場面を想像しての歌です。

袖振の主体は、この歌では「吾妹子」です。

『集成3』1980年は「留まれと振らむ袖」の註に

「袖を振るのは、ここでは去るものを招き返そうとする行為」と記しています。

「留まれ」という命令口調に女性の強い意志を想像しています。

祈りとも思える女性の行為を想像するところに振る袖に呪術性を感じます。

「袖振れ」という命令口調の歌もあります。

その歌は巻18ー4055です。

◆可敝流廻(ルビ:かへるみ)の 道行かむ日は 五幡の坂に*袖振れ 我をし思はば

右二首、大伴宿禰家持前件歌者、*(天平20(748)年3月)廿六日作之。

 

この歌もまた、想像上の場面を想定しております。

『集成5』1984年の通釈には、

「・・・・道を通って行かれる日には、いつの日にかまた五幡の坂で別れの袖を振って下さい」とあります。

「いつの日にか」とあって帰京の日を想定しての歌で、左注によれば作者は大伴家持です。

帰京するのは田辺福麻呂で、その福麻呂に対し

「袖振れ 我をし思はば」は強い口調のようでありながら、前代以来の

惜別の歌の常套句である袖振を踏まえてのことで、

『テキスト4』1975年通釈には「五幡の坂で袖を振りたまえ わたしを思ってくれるなら」と

サラッと訳されています。

注目すべきは袖振の主体は部下の男性であって、受け手は上司である点です。

袖振行為が行われるのは異性間だけではありませんでした。

そればかりではありません。

 

巻20ー4379の袖振は誰に対してでしょう。

白波の 寄そる浜辺に 別れなば いともすべなみ *八度袖振る

 右一首、足利郡上丁大舎人部祢麻呂

(中略。以下4383番歌の左注)

 *(天平正宝7(755)年)二月十四日、下野国防人部領使(ルビ:ことりづかひ)正六位上田口朝臣大戸進歌

数十八首。但拙劣歌者不二取掲一之。

 

「八度袖振る」について『テキスト4』1975年は、

「故郷の方へ別れを惜しむさま。難波出発後の予想される事態を確定的に表現している」と。

「予想される事態」を想定しての作歌です。

場所は難波津です。

『集成5』1984年に「陸続きで故郷につながる難波津・・・・」と記述しています。

「下野国」は今の栃木県ですので、たしかに難波津までは陸路で来ました。

それだけに「津」を離れれば海路です。

「津」(みなと)もまた境界なので、袖振動作を想像したのでしょう。

時もまた境界の時です。

『テキスト4』1975年に「巻第二十」の目録が載せられ

4321番歌の詞書に次の記述が見えます。

「天平勝宝七*(755)歳乙未二月、相替遣二築紫一諸国防人等歌」

これと4383番歌の左注を重ね合わせますと、

「白波の寄そる浜辺」を実感として詠んだとするならば、難波津到着時、

想像とすれば陸路途次考えられますが、「進歌」の時が境界と考えられます。

築紫への出航に向けての通過儀礼の一環として歌を差し出すことが行われていたのです。

それにしましても「進歌数十八首。但拙劣歌者不二取掲一之」とあって掲載歌は11首です。

40%程が不採用です。

地方訛りが多々見られるものの防人制度が奈良朝国家の「国語化」を推進したとも考えられます。

女性が男性による袖振を想像している歌が先に挙げた額田王歌の他にもあります。

これが痛烈なのです。

巻14ー3376です。

◆相聞

3376 恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ

 

この歌での女性は袖を振ったのでしょうか?

『テキスト3』1973年の「恋しけば」に

「この恋シケは、形容詞恋シの未然形。主語は作者自身」と註をつけています。

未然形に「ば」が付けば仮定であって、この歌の場合、実際は袖を振っていないのです。

『集成4』1982年の通釈は次のとおりです。

「恋しかったら私は袖でも振りましょう。

が、あなたは、武蔵野のおけらの花の色のように、おもてに出してはいけませんよ。けっして。」

男からの袖振が傍迷惑なのです。

副詞「ゆめ」を添えて念押しをして、断っているのです。

くれぐれも女性の袖振を空想してはなりますまい。

最後に冥界にまで至る袖振の歌を挙げます。

巻2ー207の人麻呂による長歌です。

◆柿本朝臣人麻呂、妻死之後、泣血哀慟作歌二首並短歌

207 天飛ぶや 軽の道は 吾妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど(中略)

吾妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず

玉鉾の 道行き人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ *妹が名呼びて *袖そ振りつる

 

「冥界にまで至る」と書きましたのは、妻の死の報せを聞いての歌が、

この「妻死之後、泣血哀慟作歌」なのです。

妻の里の軽の巷に妻を求めて立ち居出ても、誰一人として妻に似た人をみない。

恋う人の「不在」に気づいたのでした。

『集成1』1977年は「妹が名呼びて」の註は次のとおりです。

「妹の名はそのまま妹自身。呼び求めたその幻影に袖を振ったのである」と。

袖を振ったのは「幻影」に対してと解釈しています。

いっぽうで『テキスト1』1971年は「袖そ振りつる」の註は次のとおりです。

「袖を振るのは一般に愛情の表現だが、ここは生き返ることを願う宗教的呪術か。」と。

「生き返ることを願う宗教的呪術か」とくれば、

「恋も招魂(ルビ:コヒ)ー魂よばひ(タマー)から来た一つの精神の分化」とする考えに誘われます。

大学時代、共同研究室内で禁断の書とされた折口信夫の書に当たることになります。

最近の女性は、よく手を振るといった軽い話題の誇大妄想が

このまま進めば「古代妄想」にまでゆきそうです。

どうやら不純な天気も回復したようで、

春の日を待って、ゆっくり書き継ぐことにします。

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師 田野 登