僕が初めてオーナーの古賀さんとお話して公演を打たせて頂いたライブハウス兼劇場です。キャパシティは約30席。
バーカウンターが有り、少し怪しげな雰囲気を醸し出している空間です。
そこで初めて上演させて頂いた公演。
「葛藤裁判~キミがダイスキだからボクは唄う~」
カットウという場所にちなんで、
「葛藤裁判」というタイトルで何かやってみたらいいんじゃないか?
という古賀さんの一言から、
ストーカー被害に遭った女性が裁判を行い、被告人の供述を通していく中で、自分自身が実はストーカーの事が好きだった事に気付き始める。という、奇妙なラブロマンスのお話を上演致しました。
僕自身が黒虹サンゴという演劇ユニットを立ち上げてから一年も経たない頃です。自分自身で物語を「書く」という行為を心から喜び、仲間と共に創作し「形」にしていく。僕達の青春時代の「居場所」でした。
そこから本当に少しずつ、集客を伸ばし、初めて「満席」を経験した場所です。
30席という小さい会場ですが、僕の幸福感は宇宙の様に果てしなく広がっていきました。
その東高円寺カットウが新型コロナウイルスの影響で、閉館致しました。
これ以上、自分達の「居場所」を失くさないために、現在クラウドファンディングを行っております。
▽小劇場を守りたい~「わたし、の、せかい。」▽
https://motion-gallery.net/projects/watashi0sekai1
そして、過去公演の事を思い出しながら
「小劇場の持つ役割」について考え始めました。
なぜこれ以上閉館する劇場を増やしてはいけないのか?
感情的に「思い出の場所を守りたい」という事ではなく、20代前半のアホな表現エネルギーだけの集団が東高円寺カットウから巣立っていった過程を、記憶を辿りながら記述していきます。
【東高円寺カットウで公演を行ったばかりの状況】
・お金も無い
→先に投資できるお金は3万円程度
(会場への初期費用、チラシ、当日パンフ等々で消える)
・集客もできない
→土日の4回公演で各回10人程度 総動員数は40人程度
・公演を打つ事で表現したいエネルギーだけは膨大
→正直、現在、台本を見返してみると粗削りで、登場人物のインパクトや、面白いワンシーンが挿入されているだけで、物語としてのクオリティが低いが、発想力だけはある。
―上記の環境下で体験できた事―
・破格の低予算で照明と音響を使い、物語を表現する事ができた。
(表現活動の喜び)
・実際にお金を払って舞台を見てもらう事により、対価として面白い作品を提供しなければならないという意識を持つ事ができた。
(演劇をビジネスと捉える目線)
・自分が面白いと思う作品で、お客さんの生の反応を見る事で、何が良いのか悪いのかを身をもって体感した。(顧客のニーズ)
―その後の行動―
・自分達の公演は何が面白いのかを話し合う
(公演の商品価値の研究)
・自分自身はどんな作風で何を描いていくのかを考える
(作家・演出家としての成長)
・予算の規模の拡大、用途を考える(収益化の研究)
・面白い作品を届ける、以外に集客を伸ばす方法を考える
(顧客を増やす方法)
・役者のファンを増やすにはどうすればいいのか?
どういう役がハマるのかを探る。
(キャスティングの重要性・役者を通した収益の追求)
【新中野ワニズホールへ拠点を変えた時の状況】
・少しだけ公演で黒字が出るようになりちょぴっとだけお金がある
→先に投資できるお金は7万円程度(会場への初期費用、チラシ、当日パンフ等々+台本販売等々のグッズ販売が可能になった!)
・作風を観客が認識し始め、集客が少しマシになった
→金土日の5回公演で各回30人程度 総動員数は150人程度
(集客できる出演者の起用、団体を見に来る人がちょぴっと増えた。)
・表現したいエネルギーに加えて、何を人は見に来るかを考え始めた。
→台本を見返してみるとまだまだ粗削りではあるが、登場人物のインパクトや、面白いワンシーンを繋ぎ合わせられている所が数か所。
―東高円寺カットウが持っていた役割―
当時の黒虹サンゴの状況を踏まえながら、東高円寺カットウで何を体感し、行動したのかを書きました。「失敗と成長を身をもって体感できる場所」でした。色々書きましたが、
東高円寺カットウが持っていた何よりの役割は
「粗削りな若者たちが低予算で自由に表現活動ができる」
という一言に尽きると感じています。
個人的な経験ですが、20代前半の頃、僕は演劇を通して
「他者に叫び散らしたかった」
暴発的なエネルギーを抱えていました。理由は分かりません。
何なのでしょうか、あの当時の表現欲求は。恐ろしいです。
公演を打たないと爆発してしまいそうな感覚でした。
そして作品を通して、そのエネルギーを他者に飛ばし、反応を見て、
どうすれば自分はもっと面白いものを創作できるのか?
どうすればもっと楽しんでもらえるのか?
考えながらまた作品を創作していく。
「ただ叫びたい奴」→「なにあの叫び方?」→「叫び聞かせて!」
という順序を経て、作品のテイストが定まっていきました。
「行き場の無いエネルギーの発散場所」
「新しい演劇が生まれる可能性の場所」
これこそ、小劇場の持つ役割だと僕は感じています。
「若者が手軽に失敗できる場所」
それを温かく見守ってくれるオーナー。
それが東高円寺カットウというかけがえのない場所でした。
これから自分で書いて上演したい!してみたい!という若者に、その場所を失くすという事は、
「ビジネスを理解し、どのように収益化し、作風は〇〇、使う俳優は〇〇、~」という公演の打ち方になり、
「成功方法を理解した上で事業として公演を打つ」ようになる。
予算もしっかり整え、作風が定まるまで書き続け、一定のクオリティを保った商品(公演)をお客様に提供する。
いや・・・いいのかもしれません。
それは「小劇場はつまらない」という評判を打開する素晴らしい手段なのかもしれません。
僕自身も過去に小劇場で行われる公演のクオリティの差にうんざりし、どんなジャンルの作品でも一定のクオリティ以上でお金を取れよと、思っていました。
しかし今思うのは
「商品価値がまだよくわからないもの」
を見れる場なんだと感じています。
近年、僕が小劇場へ足を運ぶ時の理由は
「見た事のない演劇を見れそうだ」です。
スポンサーや会社が運営する公演とは違い、
「規制の無い自由な空間で行われる現象」
わざわざ小劇場へ行って「テンプレ通りの話が見える公演」は見たくありません。
「わけわからんけど、可能性感じる」演劇を見たいです。
そしてその「可能性をお客さんと共に高めていける場所」であるべきだと感じています。
僕自身もまだまだ未熟者ですが、その可能性を日々高めていくように努力しております。
そしてそれは「その可能性を見出してくれたお客様・関係者・小劇場」の存在があってこそ。
「新しい演劇の可能性」の芽を育てるためにも、小劇場は失くしてはなりません。