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鑑定士新の悩みのない自分に変身!

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親には到底及ばずまだまだ未熟な身ですが、どうかよろしくお願いします

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もし自分だったら、なんて言葉を口からこぼす。

大抵は知っている人の不甲斐なさを攻めるときに。

道でこけた人を上から見下ろしていられるときに。

 

この意味なんか一つもない鈍い言葉を、僕は何度投げてきたのだろう。

「もし自分だったら」なんてくだらない、暖かさのかけらもない鈍い切れ味。

みんな、自分とは違うのだ。

当たり前に生まれた、当たり前にそれぞれの人生を生きている。

その人生には当たり前に辛いことあって、当たり前の苦労を抱えて生きている。

みんな、自分とは違うのだから。

自分とは違う選択を取ることは当たり前のはずなのに。

 

「多様性」を振りかざしながら、足を踏み出せないその人の個性を嗤っている自分に。

苛立っている自分に気づく。

みんな、同じではないのに。

吐いた言葉の切れ味に、確かに人を傷つけたのだと。

その人の頬にナイフを当て、さも言ってやったかのような清正とした顔で刃を滑らした自分に気がつく。

みんな、同じではないから、美しいのに。

その感触を覚えていようと思った。

吐いた言葉は飲み込めない。

行動はいつだって元には戻せないもので。

「人を傷つけた。」という事実は変わらない。

 

だからせめてもう間違わないようにと。

 

そういう自己嫌悪。

 

 

 

1秒1秒が重なるたびに怖かったのを覚えています。

このままではダメだというのはわかっているけれど、僕のような小さなことでさえも…身体の中の命の危機というのは恐ろしいものです。

 

最初の1日は重力のない時間でした。

過ぎているのに変わらない、取り返しのつかないことが迫っているのに実感の湧かない不気味さ。

受け止めたつもりでぶらさがったままの自分の病気。

2日目は実感を少し持ちます。

病院で目が覚めて、病院食を食べる。

そのプロセスが「あぁ自分は『病人』なんだな」と思わせるからです。

身体になにもなくても心は死んでいくように、恐怖とともに過ごすということはそれだけで心の大切な部分を刺激していきます。

 

抗がん剤が迫るあのときの感覚。

誰にも心配をかけないように笑いながらも瞳の奥深くの自分が『どうして僕なんだ』と仕切りに嘆いていた。

今になっておもえばあの感情を表に出すのは確かにいけなかったけれど、あの想いを否定してもいけなかったのでしょう。

だってこんなことは明らかに理不尽で、自分はここまで罰せられるようなことなんてしていないのだから。

心が死ぬ前に泣いてしまうこと、泣いて泣いてそれでも泣いて…。

それこそが病と付けられた人の入院生活。

少なくとも僕は泣くことに関しては誰より積み重ねました。

 

彼の脳腫瘍の手術、それに関しては僕は心配していません。

きっと治るだろうという数多の祈りは届くと信じているから。

僕のお願いとしてはどうか泣き出してしまっても、彼を「可哀想」にしないでほしいということです。

それは本当に惨めで嫌なぬめりです。

涙を流すこと、表情を殺すこと、1秒を刻むこと。

その一つ一つがこの世界の誰も掴めない戦いなのです。

「可哀想」なんかじゃない「今この子は戦ってるんだ」とどこかにメモを貼ってあげてください。

僕はその終わりを確信しています。

戦いの後は笑顔でいなくては、それが闘争の常でしょう。

この戦いはハッピーエンドで終わる。

そのために、祈ることを忘れない。

 

ノスタルジーに恋をして

 

人が時間の区切りに意味を見出だし始めたのは一体いつからなのだろう。

この人生が始まった頃より遥か前、過ぎ去った想いの残照。

僕は、そういうものに強く惹かれる。

 

毎朝、顔を上げるたびに。

毎晩、くたびれた枕に頭を任せるたびに。

昨日、そして今日の自分はどれだけ前に進めたのだろうと考える。

置いてきた昨日に自分から、何を託されたのだろう。

そうやって少しずつ、1kbずつ更新されていく自分を想う。

 

一年の区切りは、その想いはより重みを増していくように感じる。

1日1日と増えていったこころの体重から解放されるような予感。

今までの自分を読み返したくなる衝動。

 

そんな刹那的で、感傷的で、感情的なこころのうねり。

 

僕は、ノスタルジーに恋をしている。

 

 

 

 

新年あけましておめでとうございます。

毎年大晦日は3千円分おやつを買い込んで、あれ食べたいとか思わないでいられるようにしようという儀式をしているのですが、今年は母から銀のさらも貰っていたのを普通にど忘れしていて、思うほどおやつがお腹に入りませんでした。

懲りずにじゃがりこを貪っていたのですが、年越しそばを貰っていたことも忘れていて、胃の限界を超えました。

 

去年は本当に心が動くことが多く、お客様にも大変ご心配をおかけしました。

自分1人では見れなかった景色。

自分の限界。

「自分」と「自分以外」そういうものに強く触れて、決して相容れない者がいることも学びました。

それはこれからの人生で本当に大切な学びだったように思います。

Fijiについて、不安そうにしていた自分が心に浮かびます。

恥ずかしいけれど、頑張れと願う、そうできるようなった今に感謝を。

皆さんに感謝を、どうか幸多からんことを。

今年もよろしくお願いいたします。

 

ps.

皆様に頂いた来年の運勢と言う名のお年玉。

今年こそは計画的に使おうと決心していたのですが失敗しました。

どこに飛んでいったのか。

変身ベルトを買ったあたりから記憶が曖昧です。