年末に日本のあちこちで第九をやるのは何故か | Bokensdorfのブログ

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国際結婚から考えた「隠れた構造・隠れた文化」について
加えて「世の中の仕組みは実はこうなっている」について書きます


年末に日本のあちこちで第九をやるのは
日本人が第九が好きとか
年末にふさわしい曲だからとかではなく

客が入るから

に他ならないのであって、
この時期に新しいことをやる人が日本には必要です



以前、ドイツから家内のママ《ドイツ人です》が日本に来たとき
年末だったので一緒に(二人で)

※話しの腰を折るようですが、あちらの方というのは個人が独立していて
 みんなが「個人的関係」でお付き合いするのです(このブログにも何度も書きましたが)


※だから、家内のママと、ではなくて、正確に言うと私の友人のイリスと、なのです
 日本人どうしでは考えられない組み合わせです私にとっては。




第九のコンサートに東京まで電車に乗ってでかけました。

イリスは言いました

「ドイツでは年末にベートーベンの第九を演奏する習慣は無い」
「年末と第九の関係性はドイツには存在しない」

「そもそも、ドイツには《年末》が行事という考えは無くて12月とはクリスマスである」



※※※ 要暗記 ※※※
ドイツには「年末行事」は無い。
※※※ 要暗記 ※※※




以下は私の別のブログに書いた「歓喜の歌」についての話し

--------ここから------


リーベショコラーデ


シラーによる元の詩、ドイツ語は日本語にするのがとっても難しい言葉ですが

この部分
Wem der große Wurf gelungen,
Eines Freundes Freund zu sein,
Wer ein holdes Weib errungen,
Mische seinen Jubel ein!

Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund!

ここは日本語では
「心の通い合う友を得るという困難な望みが叶った者」から
「人知れずみじめに去っていくがよい」までなんですが、

Eines Freundes Freund zu seinというのは、「誰かの友達となった」という意味で、
自分の存在の意義(zu sein)を「誰かの親友」(Eines Freundes Freund)という
他者からの視点で測るという所に奥深い意味があるのです。

つまり

誰かの「本当の友達」だったかどうかを問うているのであって
自分が何を成し遂げたとか、何になったかとか、そういう自分基準の物差しではないのです。

そして更に続けて
Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
「そうだ、心を分かち合う魂が一人でもいる」人は、
歓喜せよ!とアジってるわけです

歓喜の歌の歓喜の意味は、この部分にあるわけです。

「誰か一人でも、その人の親友になったか」

奥深い話しではありませんか☆



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