言語に思考は支配される | Bokensdorfのブログ

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国際結婚から考えた「隠れた構造・隠れた文化」について
加えて「世の中の仕組みは実はこうなっている」について書きます

事情があって別ブログに三ヶ月時間を取られていましたが
片付いたので再開致します。


世界の言語学者でスティーブン・ピンカーほど
私を悩ませた学者はいません
という話しを何度かしていますが、


彼の説は非常に説得力があり、昨今の日本の言語学者の著作などバカバカしくて読むのも時間の無駄なくらい力量の差があるが(鈴木孝夫先生だけは尊敬しています)、彼の信念は私とまったく違う。


バイリンガルの定義を念のため書きますが
(私とドイツ人の妹との会話で決定したもの)

『バイリンガルとかトリリンガルというのはその言語が話される社会の枠組み
 の中での思考方法によって自分が考え話す内容に自分自身が違和感を持たなく
 なったときのことを意味するのであって、
 単にその言葉が流暢に話せることではない』


なので、

「そのとき話している言語によって思考は支配される」

という私の信念がスティーブン・ピンカーの信念と逆なのです。




つねづねそう思いながら日本人のバイリンガル以上の人(TOEFLの点数などまったくバイリンガルとは関係ない)と出会うたびに「そのとき話している言語によって思考は支配されるか?」という話題を振るのを生きる楽しみの一つにしているのであるが、最近「そうだよな!そうだよな!」と久しぶりに相づちを打った話しを聞いたので採録させていただきます。



それは、「外国語で喋っているときは物凄く怒る事が出来る」という事実です。(笑)


ホントに、アタマに来る事ができるのです。(そういう経験談をその人と二人でしました)

「自分がこんなに怒れると言う事をそのとき初めて知った」

「そのときの怒りの度合いを100とすると日本語のときは感情の幅の30くらいしか使っていない」

「あんなに相手を攻撃できる言葉があるからどんどん怒りが亢進していく。日本語ではそれはできない」(笑)


どうだ、スティーブン。君には日本人が日本語で話している時の事は分からないのではないですか。



皆様のご意見を募集しています(笑)