◇最後の大君◇ -The Last Tycoon-
スコット・フィッツジェラルド 村上春樹 訳
映画の製作現場に君臨しながら、悲劇の影を背負う辣腕プロデューサー、モンロー・スター。ハリウッドの撮影所で繰り広げられる人間模様と、映画ビジネスの舞台裏。
『グレート・ギャツビー』の先を目指し、フィッツジェラルドが死の前日まで書き続けていた最後の長編小説。
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「最後の大君」です(・∀・)
こちらと同じく村上春樹版も読むことにしました。前の「ラスト・タイクーン」は返してしまって手元に無く、読み比べは出来ませんが、なんとなーくでも翻訳の妙と村上春樹を感じられたら良いと思って。2度読みだからなのか、やっぱり読みやすい。
村上春樹とフィッツジェラルドは似ているのか、あまり癖は感じなかったです。しかし6年前(!?)と変わらずあまり読んでいなくても村上春樹を感じる不思議。
話は逸れますが日本語の翻訳というのは厄介なもので海外文学においてその主人公の性格を、翻訳者が固定してしまうところがあると思うんです。例えば今の海外文学に「〜したまえ」はてんで出て来ませんが、昔はしょっちゅう出て来たと思うんです。そしてそれが名作だったり、なかなか再訳されなかった場合、そのイメージを覆すってかなり大変です。
話を戻して。
ギャツビーもそうですが、フィッツジェラルド作品の主人公のほとんどは1人の女性を狂おしく愛してそこから破滅の運命の足音が聞こえて来ます。自ら望んだ、というか開拓した仕事で成功を収めさせる、その「優しさ」は有るのに最期については残酷だ。モンローがギャツビーの鏡であり、「最後の大君」が「華麗なるギャツビー」の先を行く話なら……やはり「文スト」のフィッツジェラルドの人生も悲劇で残酷に幕を閉じるのでしょうか。「アメリカの人生に第二幕は無い」ならアメリカそのものを体現しているフィッツジェラルドのライジングの行方は……
「最後の大君」でした(・∀・)/
もし長編として完成したら、どんな話になったのだろう?(*^o^*)/