【私は人に職業を聞かれたとき、「空手家」と答える。いわゆるスポーツの分野でのアマ、プロにわけるとすれば、私はいわゆるプロ空手を催しておらず、プロ空手家を養成もしておらず、自分の空手を観衆に見せて報酬を得るという生活もしていないから、アマチュアであると信ずる。~中略~私の職業は「空手家」であるから、「職業空手家」かといわれると、当然「職業空手家」という言葉には“プロ的”なニュアンスがあるから、私は「そうじゃない」と否定したくなる。おそらく問題は、どこまで「売るか」という感覚の問題であろう。また、なんのためにそのスポーツなり、武術をするかという第一目的の問題であろう。】 (大山倍達・著『大山カラテもし戦わば』より抜粋)
私は人に職業を聞かれたとき、「芸術家」と答える。
いわゆるアートの分野でのアマ、プロにわけるとすれば、私は誰からも芸術を学んでおらず、特に独学で勉強もしておらず、自分の作品を観衆に見せて報酬を得るという生活もしていないから、アマチュアであると信ずる。
私の職業は「芸術家」であるから、「職業芸術家」かといわれると、当然「職業芸術家」という言葉には“プロ的”なニュアンスがあるから、私は「そうじゃない」と否定したくなる。
おそらく問題は、どこまで「売るか」という感覚の問題であろう。
また、なんのためにそのアートなり、作品を作るのかという第一目的の問題であろう。
そして、私にとっての第一目的は、「好きなことをやり続ける」ということだ。
たとえ、それが社会的に見て“遊びごと”であろうとも、たとえ、それ自体が一銭の金も生み出さなかったとしても、好きなことをやり続けることには、それ以上の絶対的価値があると、私は思っている。
本来、人間とは弱い生き物である。
欲を捨て、厳しい修行のすえ悟りを開いたお釈迦様でもない限り、人間は皆、それぞれに幾多の煩悩を抱えて生き、そして、そもそも、人間は皆、「快楽原則」に則って生きている。
つまり、乱暴な言い方をすれば、人間は“気持ちがイイこと”しかしないのだ。
例えば、ここに、世間からは非常に“真面目”だと見られている人がいるとする。
その人は普段から、酒やタバコもやらず、女遊びやギャンブルも一切しない、無駄遣いをせず、家族のために日夜、一生懸命に働いている。
そう、確かに、その人は真面目だ。
だが、“好きなこと”をやっていないか、というと、そうではない。
その人は好きなことをやっている。
その人は、“酒やタバコもやらず、女遊びやギャンブルも一切しない、無駄遣いをせず、家族のために日夜、一生懸命に働いているという自分”が好きで、又は、そのように人から見られて、「偉いわねぇ、凄いわねぇ、真面目でカッコイイわねぇ」と思われることが気持ち良く、もっと言えば、健康で長生きし、何のトラブルもなく、お金だけを貯めて、そのことで周りの人たちから尊敬されたいと思う“こと”が“好き”なのである。
つまり、人にはそれぞれ好きなことに形があり、その好きなことをやるためには、ある程度の犠牲や我慢が必要だということだ。
そして、もちろん、人に迷惑をかけるようなことはあってはならず、又、人間には理性や羞恥心といったものがあるから、そこまで無茶苦茶な行動や生き方ばかりができるわけではない。
しかし、人間は好きなことをやらなければ生きていけないのだ。
さらに、最も重要なことは、それをやり続けるということだ。
つまり、プロでもなければアマでもない何かになりたいなら、第一目的は「好きなことをやり続ける」ということだ。
そして、“結果”や“名誉”や“金”は、その後の問題である。
押忍!
“好きなものは一生好き魂”
総合自分自身芸術イチロットン流総裁