右足をヒョイと上げる競技 | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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会場の真ん中に進み出て、右足を「ヒョイ」と上げる(→で、そのまま帰る)。

ただそれだけの競技があったとします。

 

右足をヒョイと上げる美しさ、俊敏さ、力強さ、滑らかさ etc…

競技者がどれだけ右足をヒョイと上げることに習熟しているか。

競技の評価基準はだいたいそんなところでしょうか。

 

いずれにしても、大した身体動作を要するわけではない、極めて単純な競技です。

 

この、右足をヒョイと上げる競技で高い得点をあげるにはどのような練習をすればいいでしょうか。

一番とはいわなくても、相対的に上位何分の一かに入るために、最も必要なことは何でしょうか。


言うまでもありませんが、それは、右足をヒョイと上げること です。

 

本番の競技会場で行う、右足をヒョイと上げる動作と同様の動作を、その人がどれだけ経験したか。

競技の優劣は、この右足を上げる動作の経験の質と量によって決まります。

つまりは、その人が大会までに、どれだけ右足を上げ慣れたか

競技の勝敗は、ほとんどその一点にのみかかっています。


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試験対策も、本来はこれと全く同じです。

実際の本試験会場で行う動作(思考過程)を、その受験生が普段からどれだけ行ってきたか。

その経験の質と量によって、試験の相対的な実力も決まってきます。

 

問題を読んで→解答するという経験を試験本番までほとんどしてこなかった人が、いきなり試験本番で、上手に問題を読んで→解答することは、普通はできません。


使わないパイプが目詰まりを起こすように、日常的に問題から解答へ思考を流していなければ、試験本番で、問題から解答へ向かって思考がスムーズに流れることはありません。

問題を読んで→解答することができるのは、問題を読んで→解答する経験をしてきた人だけです。

問題を読んで→解答することができるようになりたかったら、普段から問題を読んで→解答するしかありません。

 

そうやって、問題→解答へ向かうパイプを、太く、強くしておく しかありません。

つまりは、問題を解き慣れる しかありません。

これはあまりにも当たり前の理屈です。

問題を解き慣れた人には、問題が解ける。

問題を解き慣れていない人には、問題が解けない。


右足をヒョイと上げることと、まったく同じ理屈です。

ところが、試験の話になった途端、多くの受験生がこの単純な理屈を複雑にしてしまいます。

多くの受験生が、問題を解き慣れることと間接的にしか関係のないことに、多くの労力を使っています。

 

いろいろな情報に惑わされて、「なんか最近、頭の中が複雑になってきちゃったな」と思ったら、いったん、この右足をヒョイと上げる競技まで戻ってください。

 

 

 

 

【補足】


この補足は、付記を挿入した箇所が特に多いため、ピンク字青字の部分は(関心のある方以外は)飛ばしてください。

 

実は、右足を上げたときに得られる、その人に固有の具体的効果は、人によって異なります

 

「え? 右足を上げたら、右足を上げられるようになるんじゃないの?」

このブログを読まれてきた方の中には、あるいはそう思われる方がいるかもしれません。

 

もちろん、抽象的にいえばそれはその通りなのですが、その人がどのようにして自分の右足を上手に上げられるようになるか、というその人個人に帰属する具体的効果は、実は、人それぞれとしか言いようがないのです。

 

右足をヒョイと上げるために必要な動作や筋力は、細かくみれば数えきれないほどあるわけです。

 

たとえば、右足を上げるには、当の右足の筋肉はもちろん、背筋だって臀部あたりの筋肉だって使っているでしょうし、筋肉とは別のバランス感覚のようなものも働いているでしょう。

 

そもそも右足の筋肉だって細かく分ければいくつもあって、おそらくはそれらの全てをバランスよく使うことによってはじめて、右足はスムーズに上がっているのです。いえ、右足の全筋肉だけでなく、たぶん全身の筋肉を無意識にバランスよく使うことで、その人は右足をヒョイと上げているはずです。

 

このように、右足をヒョイと上げるために必要な要素は、個別の筋肉や身体能力だけでも何十個・何百個とありますし、それらの組み合わせまで併せて考えれば、それこそ無数に存在していると考えて間違いないでしょう。

 

ここで重要なのは、人の身体は人によってそれぞれ異なる、という当たり前の事実です。

 

どこの筋肉がどれだけ付いているか(付いていないか)や、どのようなバランス感覚をどのような場合にどれだけ働かせることができるかetc…といったことは、生まれつき、そして(こちらのほうが重要ですが)その人がそれまでにどんな人生を歩んできたかによって、異なってくるものです。

 

ある人はそれまでの人生で下半身を強化してきたかもしれないですし、ある人はバランス感覚を鍛えてきたかもしれない。ある人は日常生活に必要な身体動作以外、何もしてこなかったかもしれない。

 

このような中で、ある人が「右足をヒョイと上げる」ためにどのような筋肉・身体動作を鍛えなければならないかは、(繰り返しますが)人によって異なるとしか言いようがないのです。

 

もっとも、これは完全な不可知論を意味するわけではありません。

この「人それぞれ」の状況の中でも、やはり、誰にとっても絶対に間違いない処方箋は存在します。

 

それが、右足をヒョイと上げること なのです。

 

右足を上げることによって、どの筋肉・身体動作を鍛えることになるかは、たしかに人それぞれです。

しかし、キレイに右足を上げるには、少なくともその中の何かは鍛えられなければなりません。

 

自分で自分の右足をヒョイと上げなければ、その「何か」が具体的に「何」を指すか分かりません。

自分が鍛えなければならない筋肉・身体動作が「何」なのかを知るためにも、右足をヒョイと上げることは、その人にとって必要不可欠な作業なのです。


【暗黙知による欠陥の発見】

 

自分が鍛えなければならない筋肉・身体動作が「何」なのかを知る、というときのこの「知る」は、必ずしも言語化できるものではありません。

 

人間には、表層の言語には還元できない「知る」という認識作用があります

(こういった言語化できない認識のことを、ここから先は「暗黙知」と呼ぶことにします)

暗黙知というのは何も特別な能力のことではありません。
たとえば、私たちが渋谷の交差点を歩いている際に、たくさんの群集の中から友人の顔を瞬時に識別するときにも、この暗黙知が働いています。このとき、私たちは友人の顔を識別するに至ったその認識の仕組みを言語化することが全くできません。人間の顔の形など大雑把に見ればほとんど変わらないものなのに、その微細な情報の差異を私たちは瞬時に読み取ることができてしまうのです。

暗黙知の活動領域は、表層的な知の領域よりもはるかに広大です。また、言語化できない領域であるがゆえに、欠陥があったとしてもその修正が困難な部分でもあります(本当は、欠陥の修正は難しいとも言えるし簡単だとも言えるのですが、とりあえず通常の勉強法では難しいと考えておいてください)。

 

たとえば、Aさんという人がいて、彼が過去問演習によってある論点の理由づけの欠如に気づいたとします。つまり、このときAさんは自分の欠陥を一つ「知る」ことに成功したわけです。もっとも、これは言語化できる認識(欠陥)にすぎません。このような言語化できる類の欠陥は発見も修正も容易です。問題演習によらずとも、基本書や予備校本などのテキスト学習によっても発見→修正することが可能です。

 

この言語的な明瞭さ、悪くいえば上っ面の分かりやすさが、センスの悪い受験生を惹きつけます。

彼らは、その認識力の貧弱さから、自らの意識の表層に表れた言語化可能な領域だけが世界の全てだと思い込んでいます。彼らには言語化可能な世界しか見えていませんから、当然、自らの欠陥もその言語化可能な世界にしか存在しないと思い込んでいます。

 

言語化可能な世界で見つかる言語化可能な欠陥だけを片っ端から修正していけば、欠陥という欠陥はやがて全て制圧できる。そう思い込んでいます。そうやって彼らは一心不乱に言語化可能な欠陥だけをひたすら発見し→修正していくのです。

 

しかし、少し考えてみれば分かりますが、私たちが問題文を読んだり解いたりする行為の中には、言葉で説明し切れない暗黙知が大きくかかわっています。かかわっているというより、その作用なしには何かを読んだり解いたりすることが叶わないというくらいの重大な役割を暗黙知は果たしています。

 

たとえば、あなたがアメリカ旅行の感想を友人に語るとします(あるいは、友人から感想を聞いているとします)。西海岸は暑かったよ~。砂漠が広大だったよ~。空が高かったよ~。ラスベガスは夜でも昼みたいだったよ~等々…色々なことを話すとします。

そのとき、そんな断片的な情報だけで、なぜか話が通じてしまうことがあると思います。私の脳裏に浮かぶアメリカの光景が、友人にも同様に浮かぶのです。あるいは反対に、友人だけがリアルに体験したアメリカの光景が、いくつかの角度から断片的な言葉で説明されただけで、あなたの脳裏にも(言語的な情報をはるかに上回る密度で)再構成されて浮かび上がってくるのです。

このように、表面的な言葉で伝えた以上の内容が、相手に伝わってしまうことがよくあります。暗黙知の作用を考慮しなければ、これは本当はもの凄く不思議なことなのです。あるいは、暗黙知の作用を考慮すれば、これはあまりにも当たり前のことなのです。

こんな断片的な情報だけで人に何かが伝わるというのは、いわば「驚くべき当たり前のこと」なのです。

 

たとえば、人が目の前の文章を読み取るとき、その人はそこに書かれた表面的な文字情報だけを頼りに文章を解析するのではありません。人がその事実を殊更意識しないだけで、大げさにいえば、その人が置かれている環境文脈その他の潜在的な全人格的要素が総動員されることで、目の前の文章は読み解かれているはずです。

 

もしそれらを動員することなく、表面的な情報操作だけで会話をしたり文章を読んだりすれば、その人はある種の発達障害の患者のように、相手から言われた(書かれた)そのままの情報を、まるでロボットのように言われたままの形でベタに受け取ることしかできなくなるはずです。

 

私たちは、表面的な文字情報だけを操作して日常生活を営んでいるのではありません。

問題文の文章を読み解く作業ひとつ取っても、そこには膨大な量の潜在的情報が動員されています。だからこそ、私たちは目の前の文章を読み解けるのです。あるいは、他人と会話を成立させることができるのです。

ですから、Aさんが問題演習をすることで見出した先ほどの「欠陥」は、残念ながら、Aさんのあらゆる欠陥の中のほんの一部でしかありません。「理由づけの欠如」という欠陥はテキスト学習でも発見できるかもしれませんが、暗黙知にかかわるAさん固有の欠陥は、Aさんが目的とする動作を実際に行わない限り発見されることはありません

 

もういい加減誤解はないかと思いますが、その「発見」(=知る)は必ずしも言語化できるものではありません。言語化できないまま、Aさん自身がそのことを「知る」ことが求めらる。そんな類の発見です。

 

「そんな訳の分かんないこと言われたってどうしたらいいんだよ」と嘆く必要はありません。

だって、私たちは毎日のように「そんな訳の分からないこと」を平然と遂行しながら生きているのです。

 

常日頃から人の顔をやすやすと見分けるなんていう「神業」を平然と行っている人間が、司法試験学習になった途端に、基本書やシケタイに書かれている表層的な文字情報の理解・記憶に走るというのは、本当は実におかしなことなのです。

 

人の顔を識別することと、司法試験学習の間に、本質的な違いなど何ひとつありません。

両者を同じではないと感じてしまうあなたのその実感は、完全な誤解なのです。


いったん話をまとめます。

 

右足を上げるために、あなたに必要なことが何なのかを知るためにも、右足を上げなさい

 

人の身体は人によってそれぞれという状況の中で、確実に言えることは↑ここまでです。

 

これ以上の具体的な事柄を、皆に向かって説く人は、ただの嘘つきです。
次にその話をします。

 

私は、目的-手段の譬えとして、よく富士山を例にだします。

 

その例にしたがっていえば、

 

富士山(=目的)のある場所は、誰にとっても絶対的 です。

 

しかし、

 

富士山の見える方角、富士山までの距離、富士山に登るための基礎体力etc…は、あなたが誰であるかによって相対的 なのです。

 

たとえば、Aさんは東京にいるとします。

Aさんは、それまでの人生で得た果実として、地図やトレッキングシューズを手にしています。

 

Bさんは大阪にいるとします。

Bさんは、地図は持っていないけれど、自動車を購入済みです。

 

このとき、AさんとBさんが、いったいをすればいいかは、それぞれで異なります。

 

Aさんは南西のほうに進まなくてはなりません。

トレッキングシューズを持っているといっても、それは富士山に着くまでは封印しなければなりません。

 

Bさんは北東のほうに進まなくてはなりません。

自動車を持っているのは素晴らしいですが、その前に地図を買い、まずは地図の読み解き方をマスターしなければ話になりません。

 

このように、AさんとBさんでは、やるべき課題がいちいち違うのです。

 

こんなとき、甲さんという、「富士山に行ったことがある」と称する迷惑な人が現れることがあります。
甲さんは、自慢げに皆さんに↓こう言います。

 

「いやいや君たち、富士山に行くにはだね。とにかく徹底して南に向かってまっすぐ歩くのだよ。

君たちの前には必ず山脈が現れて君たちを邪魔してくるから、そのときはトンネルを探すんだ。

私はこのトンネルという便利な道具のおかげで、ずいぶんと距離を短縮できたからね。

分かったかい、南だよ。南を目指して進むんだ。」

 

・・・こんな風に、要らぬ「助言」をしてくる「合格者」が、受験界にはごまんと存在します。

 

なぜ彼らの助言が迷惑なのかというと、合格者の体験談やブログに書かれているのは、「その人」が経験した「その人」固有の具体的処方箋ばかりだからです。というか、本当に「その人」にとって役立った話ならまだ許せますが、大抵は(その人が自覚していなくても)地図も持たずに日本中をさんざん徘徊した挙句、偶然運よく富士山を見つけた、といったような聞くに堪えない話ばかりです。

 

こんな状況だからこそ、私は、

 

・まずはとにかく地図を買うこと

・その地図を使い倒すこと

・富士山を目指していることを強く意識すること

・富士山との関係で自分の位置を測ること

・あなたが富士山に行くために必要な準備をすること

 

・・・等々を提案してきたのです。

 

富士山を目指すことは大事ですが、もっと大事なことがあります。

それは、いまの自分が、いまの自分の位置から、富士山を目指すことです。

 

もっというと、富士山を目指すにあたって、自分に何が足りないのかを知り、富士山と自分がどの方角にどれくらい離れているのかを知ることです(方法論)。

 

最後に、そうやって導き出された富士山と自分との距離を埋めていくことです(努力)。

 

ずいぶんたくさんのことを言ったように思われるかもしれませんが、これらはすべてたった1つの動作を行うだけで済みます。あなたが実際に行うことは、様々なことではなく、たった1つの動作なのです

 

それこそが、右足をヒョイと上げること です。

 

右足をヒョイと上げれば、右足をヒョイと上げることがどういうことかが分かります。

右足をヒョイと上げれば、右足をヒョイと上げるために、自分に「何」が必要かが分かります。

右足をヒョイと上げれば、その自分に必要な「何か」を、最も効果的に鍛えることができます。

 

右足をヒョイと上げる動作の中には、あなたがなすべき全てが含まれています

だからこそ私は、右足をヒョイと上げることを提案してきたのです。


【暗黙知による欠陥の修正】

先ほどの暗黙知の話をもう少しだけ続けたいと思います。

先ほどのピンク字部分で、私は暗黙知に纏わる欠陥の修正は困難であると書きましたが、それは、多くの受験生が好むインプット学習によっては困難である、という意味です。

 

インプット学習は、言語化可能な情報の習得だけを目的としていますが、このような学習をいくら行っても、言語化可能な情報が修正→付加されていくだけで、その学習効果は暗黙知に届きません

 

暗黙知を鍛えたいならば、実際に暗黙知が働く状況で、それを行わなければなりません

1000人の見知らぬ人々の顔を一瞬で識別できるようにしたいときに、人間の顔のパーツの配置や表情筋の変化についての研究論文をいくら読んだところで、そんなものは大した役には立ちません。

 

そんな情報をいくら集めても、「1000人の顔が識別できない」という現時点でのあなたの欠陥を修正することはほとんどできません。1000人の顔を一瞬で識別できるようになりたかったら、実際にその1000人に会って、それぞれの顔をしっかりと見て、様々な状況においてそれを識別できるようにシミュレーションを繰り返していかなければどうしようもありません。それが、1000人の顔を識別するための、最も手っ取り早い方法です。暗黙知を鍛えるとはそういうことです。

 

もっとも、この方法で欠陥を克服しても、おそらくあなたは、なぜ自分が1000人もの顔を識別できるようになったのかを正確に言葉で説明することは最後までできないでしょう。

でも、それでいいのです。「全てを言葉にしよう」「全てを言葉にできるはずだ」という考え方のほうが、人間の本性に反した異常なものの見方なのです。

 

人間の認識・判断は、そのほとんどが言語化できない暗黙知の産物です。

それを鍛えようというのですから、自らの勉強に無理に言語的な根拠を与える必要はないのです。

 

表層の意識が決してなしえないことを、暗黙知は当たり前のように行います。

先ほどから暗黙知の作用を「発見」と「修正」に分けていますが、暗黙知の領域では、「発見」と「修正」は本来渾然一体のものです。暗黙知はまるで免疫機能の如く、欠陥を発見した途端にそれを自動的に修正していきます。そこに人間の意識的作用が参加できる余地は少ないでしょう。

 

意識的コントロールが効かないことを嘆く必要はありません。むしろ、意識(≒知識)の介在する余地が少ないからこそ、暗黙知の「判断」は正確なのです。私たちは、自らの暗黙知の働きにもっと信頼を寄せるべきです。


このように、

誰にとっても絶対に必要なあたりまえの動作を行い、

・誰にとっても絶対に間違いのないあたりまえの手順で(まさにトートロジー的に)考えていくことが、

その人にとって必要な「何」をあぶり出すための、最も確実で効果的な方法なのです。

 

しかし、この「あたりまえ」の提案は、一部の受験生にはなかなか理解が難しい事柄のようです。

 

たとえばある人は、そんな提案はトートロジーだから無意味だと言います。「なるほどなぁ~」と思います。適性試験などで生半可に論理を食い散らかしてきた人がいかにも言いそうな台詞です。

 

しかし、その批判にあえて反論するなら、論理や言語表現は全て、言葉を言い換えているだけの広義のトートロジーなのです(言い換えの連鎖 で書いた通りです)。

 

すべての文章は、文と文をイコール(=)で繋いだ広義のトートロジーです。

すべての文もまた、単語と単語をイコール(=)で繋いだ広義のトートロジーです。

言葉はすべて広義のトートロジーなのです。


仮に、あらゆるトートロジーを「形式的トートロジー」と呼び、その中で特にトートロジーらしさの強いものを「実質的トートロジー」と呼ぶとすれば、要するに彼らは、ある命題の実質的トートロジー性は、その命題の形式的トートロジー性で全て判別できると思い込んでいるのです。簡単にいえば、論理の形式性だけで事の有様が全部切れると思い込んでいるのです。

適性試験が行われるようになってから、こういう論理の形式性だけを振りかざして何かを言った気になっている「論理警察」みたいな(根本的に頭の悪い)受験生が増えてしまったような気がします。

こういう受験生は、①内容よりも人の属性ばかりを見たがる、②内容よりも権威(ex.出題趣旨)ばかりを頼みにする・・・といった特徴があります。彼らは常に「形式」しか見ません。自分の頭で内容を判断できないから(判断する自信がないから)、形式にばかり目が行くのです。
 

もちろん、広義のトートロジーがあるなら、狭義のトートロジーもあります。本ブログの「トートロジー性」を批判する人たちの言う「トートロジー」とは、この狭義のトートロジーのことなのでしょう。

 

では「狭義のトートロジー」(ここから先は単に「トートロジー」とします)とは何でしょうか。

 

一般に、ある主張を「トートロジーだ」と批判する場合、それは単に形式的な同語反復を指摘しているのではなく、その主張が実質的にも無意味であると批判しているのが普通です。

 

つまり、本ブログの提案を「トートロジーだ」と批判している人たちは、

「司法試験情報局に書いてあることは(形式的に)トートロジーだ」と言いたいのではなく、

「司法試験情報局に書いてあることは(実質的に)トートロジーであるがゆえに無意味だと言いたいわけです。

 

では、「無意味」とは何でしょうか。

言語表現の意味を有用性に求める考え方に従っていえば、すなわち、言語は使えるかどうかが本質だとする考え方に従っていえば、「無意味」とは、「有用性がない」「使えない」ことを意味します。
 

そうだとすると、「司法試験情報局の提案はトートロジーだから無意味だ」という先ほどの批判は、どうやら「司法試験情報局のトートロジーには有用性がない(使えない)」という意味らしいのです。

どうしてここまで執拗にこの問題を追及しているかというと、私自身、このような批判が出る(出た)ことに心底驚いているからです。今まで何人もの仲間にこの「トートロジー」の発見を報告してきましたが、よほどのBAKA鈍い人以外は、この提案の革新的な(←ちょっと言い過ぎ)意義を理解してくれたからです。

 

たしかに、「上」に行けば行くほど大きな反応が返ってきて、「下」に行くにしたがって反応が鈍くなるという傾向は(いつものように)ありましたが、それでも三振した受験生でさえ、この提案(トートロジー)の意義はおおよそ理解してくれたように思います。

 

ともあれ、
 

「基本書を読んでも、基本書が読めるようになるだけ」 であるとか

「司法試験の問題が解けるようになりたいなら、司法試験の問題を解きなさい」 であるとか

「右足をヒョイと上げられるようになりたいなら、右足をヒョイと上げなさい」 であるとか

 

これらの「トートロジー」から(恐ろしいことに)1ミリグラムの意味(=有用性)も取り出すことができない受験生がネットの向こう側に大量に存在している、という事実が私を畏怖させたことは確かです。

だって、そういう人って、私の言葉を理解できないだけじゃなくて、なぜかセットで怒りだすんだもん 

 

今まで何度も書いてきたことですが、どんなにあたりまえの重大事(ex.「条文が大事」とか)でも、それを空気のように軽く扱う人は必ずいるし、一転ゴールドのように重い価値(有用性)を認める人もいます。

そして、あたりまえの事柄ほど、優秀な受験生とダメ受験生との間で決定的な差があらわれます

これも再三述べてきた通りです。ようするに今回もやっぱりまたそういうことであるようです…。


たとえば禅の公案(いわゆる禅問答)などは、このような「有用性」を引き出せる人間と引き出せない人間とをふるいにかけるための仕分け道具だったのでしょう。Xにとって驚愕するほど意味のある問いかけも、Yにとっては無意味なトートロジーやナンセンスにしか感じられない。このようなことは決して珍しいことではありません。どれだけ親切に表現しても、それを読み取れる人と読み取れない人は必ずでてきます。可哀そうですが、それはある程度仕方のないことです。

 

ともあれ、「司法試験の問題が解けるようになりたいなら、司法試験の問題を解きなさい」というトートロジーから何ひとつ意味(有用性)を読み取ることのできない受験生が相当の割合で受験界に存在しているというこの驚くべき事実は、逆に、この禅問答を読み解ける受験生にとってこの上ない福音となるはずです。どうかそのことを忘れないでください。こういう人がいてくれるからこそ、方法論は有効に機能するのですから。


長い補足になってしまいましたが、

 

「司法試験の問題を解けるようになりたければ、司法試験の問題を解きなさい」

「富士山を目指すなら、あなたから見た富士山を目指しなさい」

「右足をヒョイと上げられるようになりたいなら、右足をヒョイと上げなさい」

 

↑このような提案(=トートロジー)に、想像以上の重要性があることはお分かりいただけたでしょうか。


それとも、「これじゃ抽象論だけで具体論を言ってないじゃないか」と言いたい人がまだいるでしょうか。

でも、何度も述べてきたように、それは「人それぞれ」なのです。

 

あなたが鍛えなければならない内容、つまりは、あなたにとっての真に必要な「何」を、あなたではない私が具体的に「これですよ」と教えてあげることはできません。あなたに固有の具体的処方箋は、あなた自身が見つけるべきものであり、あなた自身にしか見つけることができないものだからです。

さらにさらに、(もうしつこすぎますが)私の言っていること(=司法試験情報局のトートロジー的主張)が、その人固有の具体論から逃げているわけでは全くないというその点だけは、最後にもう一度だけ確認しておきたいです。

 

右足をヒョイと上げることに纏わるその人固有の困難、右足をヒョイと上げるためにしなければならないその人固有の課題は、右足をヒョイと上げる行為それ自体によって解消されます。さらに踏み込んで言えば、右足をヒョイと上げる行為それ自体によってしか解消されない、とさえ言っていいです。

右足をヒョイと上げることそれ自体が、その人が右足をヒョイと上げる際の弱点を鍛えます。

 

もちろん、本当に必要を感じれば、ジムに行ってその必要な箇所を筋トレで鍛えても構いません。

しかし、その必要の自覚自体が、右足をヒョイと上げることによってしか生まれてこないものなのです。

 

このように、

 

右足をヒョイと上げるという抽象論の中には、あなたにとって必要な全ての具体論が含まれています

だからこそ、右足をヒョイと上げること(=司法試験の問題を解くこと)が、他のあらゆる方法よりも効果の高い練習(学習)だということになるのです。

抽象論を正しく経由すれば、その先には、必ず、あなたにとっての正しい具体論が待っています。

 

抽象論→(ならば)→あたりまえ、あたりまえ→(ならば)→無意味 ・・・ではないのです。

右足をヒョイと上げることは、十分に有意味で有用な行為なのです。