あなたがテニスをしたことがないとします。
完全な初心者であれば、普通はあまり上手くいかないはずです。
ラケットの握り方・振り方からして最初は違和感ありまくりだと思います。
サーブも入りませんし、レシーブに至ってはボールがどこに飛んでいくか保証の限りではありません。
コートの中を駆け回りながらラリーの応酬を繰り広げるなんて、夢のまた夢です。
テニスの初心者がテニスをするというのは、0歳の赤ちゃんがブロック遊びをするのと同じです。
頭と体(行動)が全く連動しません。完全に行動において不自由な状態です。
そんな中、3ヶ月後にテニスの大会があるとします。
1万人のエントリーがあり、うち2000人が合格です。
けっして少ない合格者数ではありません。
奇跡が起きなければ受からないという数ではありません。
しかし、この大会には、ある大変な条件が課せられています。
その条件とは、この大会で落ちたら、戦争に行かなければならない、というものです。
そこは、行ったら最後、9割は生きて帰って来られないと言われる、文字通りの地獄です。
こんなとき、あなたならどうするでしょう。
誰に言われなくても、ほとんど100%の人が、同じことをするはずです。
すなわち、テニスをして、テニスをして、テニスをする はずです。
間違いなくそうするはずです。
もちろん、自分の「テニス力」を最大化するために、道具に拘ったり、ビデオでフォームをチェックしたり、テニスの指導書を開くこともあるかもしれませんが、練習の9割以上はテニスに振り向けるはずです。
ここで、道具選びに時間をかけたり、可処分時間の半分以上をテニスの本を読むことに費やしたり、テニスの原型となったスポーツや数十年前のテニスを知ることも一定の意義があるんだとかいって、周辺領域にもどんどん関心を広げていく・・・なんて、ふざけた態度をとる人はいないでしょう。
3ヶ月の中でやるべきことは、その3ヶ月で自分の「テニス力」を最大化することです。
あなたのすべきことはそれだけだと思いますし、実際ほとんど100%の人はそうするはずです。
命がかけられ、3ヶ月という差し迫った期限が示されれば、どんな人でも、基本的には正しいことをする(せざるを得ない)ものだと思います。
ところが、話が司法試験のような、命の危険がなく、時間的な猶予も漠然としたものになってくると、その途端に、人々の意識は変わってしまいます。
本当は、命はかかっていなくても、人生はかかっているのに。
本当は、3年間で効果を最大化することは、3ヶ月で効果を最大化することと、ほとんどイコールなのに。
話が司法試験になった途端に、突然みんな余裕綽々な態度になってしまうのです。
・司法試験に命がかかっているとしたら、あなたは何をしますか?
・3ヶ月後に司法試験を受けなければならないとしたら、あなたは何をしますか?
このような条件が課せられているとき、それでもなお必要だと思うものこそが、あなたにとって本当に必要な勉強です。
そこから外れるものは、あなたにとって本当に必要な勉強ではありません。
このように、与えられた条件を極限まで切り詰めてみると、自分が本当にすべきことが見えてきます。
【補足】
このエントリーの趣旨は、今この時点で得点効率を最大化する勉強を最初から最後まで続ければいいということです。
得点効率を最大化する勉強とは、たとえば3ヶ月後に本試験が迫っているとしたときに、その本試験本番における合計得点を最大化させる勉強のことです。
今この時点で、今している勉強以上に得点効率の高い勉強が一つも存在しないような勉強のことです。
試験で点になる勉強の中でも、群を抜いて「点になる」勉強のことです。
内容がよく理解できていなくても、とにかく試験で1点でも多くの点が取れるようになる勉強のことです。
「3ヶ月」というのはフィーリングです。
得点効果の最大化のために今どういう勉強をしたらよいかは、その受験生のその時点での状況・レベルによってある程度は異なってきますが、だいたい3ヶ月先あたりから手段は変わらなくなってきます。
たとえば、ここに完全な初心者がいるとして、彼が30分後に司法試験を受けなければならないとしたら、(私がその人を指導していいなら)基本的な答案の書き方を5分で教えて、あとはひたすら六法の体系を教え込むことに費やすでしょう。もうそんなことくらいしかする時間がないからです。
ここで「試験対策は過去問分析が王道だから」といって、いきなり過去問分析をやらせるかというと、私ならしないと思います。
もし、試験まで丸1日あるなら、過去問は見せると思います。ただこの場合でも、問題演習を勉強の中心に据えるわけにはやはりいかないでしょう。1日しかなければ、得点を最大化する勉強は、やはりインプットメインにならざるを得ないでしょう。
そうやって、3日、1週間・・・と期限を延ばしていくと、ある時点から、それ以上どれだけ長い期限を提示されても、得点効率最大化の手段はほとんど変わらなくなるといえる期間が見えてきます。
私の感覚では、その期間がざっといえば3ヶ月なのです。
3ヶ月から先は、基本的に演習メインで行くことが最良の手段だと思います。
たとえば、先ほどの完全な初心者に、もし3ヶ月の猶予があれば、(私がプランニングするなら)1ヵ月を中村さんのインプット講座に充てて、あとの2ヵ月は基本的な方法論の解説と主要過去問のマスターに全て使い切るだろうと思います。
あと3ヶ月の初心者に、基本書を読ませたり、シケタイを加工させたり、百選や事例研究をちらっとでも見せるかというと、そんなふざけたことは絶対にしないでしょう。
このプランは、それ以上期間が延びても、内容はほとんど変わりません。
あと1年でも、あと3年でも、同じようなものです。
たとえば、試験まで3年あるからといって、丸1年かかる伊藤塾の基礎マスターを勧めるかというと、今の私なら絶対にしません。得点効率の最大化という観点からいえば、1年にもわたるインプット講座は端的に長すぎるからです。
インプットは、頑張れば1ヶ月で全科目を終了できるくらいのサイズが最も効率的で効果的です。
単に「効率的」であるばかりでなく、「効果的」でもあるという点を、自信をもって強調しておきます。
(このことは、当の伊藤塾(と私)が身をもって実証してくれています から間違いありません)
さらに、3年あっても、私なら基本書は読ませませんし、シケタイを加工させることもありません。
なぜなら、たった3年では、演習メインで行ったとしても、短答・論文の全過去問のマスターさえ実際にはできないからです。そんな段階で基本書やシケタイを読書させるのは、あまりにも勿体ないです。
(ほとんどの受験生には、5年でも普通に無理なんじゃないでしょうか)
【得点効率を最大化する勉強の一例】
ここで突然ですが、得点効率を最大化する勉強例を一つ紹介します。
これは数年前、私が民法の肢別本潰しをしていた際に、中村さん(@このときまだ受験生)に伝授された方法です。試験に強い人間はこんな風に考えるんだ、という一例としてお読みください。
私は当時、短答の過去問を解くことが嫌で嫌で仕方なかったので、差し当たり勉強しやすそうな肢別本に逃避していまいた。特に肢別本が短答対策に最適な教材だと考えているわけではありません。
では、まず1周目からです。ここが一番大事です。
普通の受験生は、この1周目にもの凄く時間がかかってしまいます。
しかし、中村さんは時間をかけさせません。
私が1周目を始めたばかりのときのことです。一肢一肢問題を解き、正解不正解を確認し、解説にマークをしていた私を中村さんは「キッ」と睨み、そしてこう言いました。
「NOAさん、だめですよ。左にある問題を全肢解いてから正誤をチェックしてください」
「わかりました・・・」
左ページの肢を全部解く。中村さんの言うように時間を計って解く。
そうすると、ずいぶん早く終わる。終わったら正誤チェック。意外と(半分以上)正解している。
○or×の5割問題なんだから当たり前だけどね・・・と思いながら解説にマークをしようとすると…
「うわっ、何やってるんですか。その肢、正解してるじゃないですか。なんで正解した肢の解説見てるんですかっ!」
「・・・・?」
「法律問題は人の常識感覚で答えを出せるんですよ。その肢はNOAさんの常識感覚に照らして○だと思って○だった。ってことは、NOAさんがNOAさん自身の常識感覚に基づいて判断する限り、その肢は今後も正解する可能性が高いんです。本試験でその肢が出ても、“今のNOAさん”で正解できちゃうんです。そんな肢を勉強してどうすんですか。その肢は最高レベルの後回しです。解説は見ないでいいです」
「・・・じゃ、次のページ っと」
「いやいや、間違えた肢の解説は読むんですよ。その肢はNOAさんの感覚に照らして○だと思ったのに×だった。ってことは、NOAさんは今後もその肢を間違える可能性が高いということです。高いというより、現時点で既に間違えているわけですから、仮に次の機会にまぐれで正解したとしても、その肢がNOAさんにとって“あやしい肢”であることに変わりはない。その肢は“あやしさ度100%”ということです。それはどういうことか分かりますか?それは、その肢を潰すことは、今のNOAさんにとって100%効果のある勉強だということです」
「ちなみに、試験は満点を取らなくても受かるんです。ほとんどの受験生が全分野くまなく100%の準備をして試験に臨もうとしますけど、そしてその結果、7割なら7割できればいいという感じで構えてますけど、本当はそんな必要ないかもしれないんです。仮に民法が1/4取れれば合格するなら、極端な話、総則だけ完璧にするっていう考え方だってあるんです。物権以降は全く知らない・・みたいな。
それで受かるならいいんですよ。試験なんだから。でも、ほとんどの受験生は、試験で点を取るための勉強とは全く別の勉強を、同時進行で追及してるんです。それは、試験範囲として指定された部分は全部ちゃんと押さえておかなければならないという真面目な思い込みからでてくる勉強です。試験勉強にはこちらの勉強も必要だと思ってるんです。でも、本当は後者は要らないんです。合格点さえ取ればいいんですから。合格点を取ること、合格点に一歩でも近づくことが“試験勉強”なんです。だから、正しい試験勉強をしてるかどうかは、合格点に一番大きく近づく勉強(得点効率を最大化する勉強)を常にやってるかどうか、それだけなんです」
「得点効率を最大化する勉強を見つける方法は一つしかありません。それは問題を解いて間違えることです。自分が間違える問題を見つけて、その間違えた問題を次に間違えないようにすることです。これ、純度100%の勉強ですよ。この純度100だけやってればいいんです」
「でも、そういう風に激しく濃淡をつけて、正解した問題は無視!みたいにやってたら、その正解した問題の中に実は理解不足や取りこぼしがあって、そこを突いた問題が出ちゃったらどうするんですか」
「純度100%の勉強を本試験までやり続けて、それでも間に合わなかった問題が本試験で出ちゃったら、それは間違えるしかないですよね。間に合わなかったんだから。それとも純度100の勉強を犠牲にして純度30くらいの勉強を網羅的にやります?得点低くなるけどいいですか?試験は満点取らなくても受かりますけど」
「んん~たしかにそうなんだけど、なんだろう・・・そういう勉強って、なんか強烈に気持ち悪い感じがしますよね。痒いところを掻かないで放っておくような感じの気持ち悪さ。でも、ほとんどの受験生はそうやって試験で点を取るための勉強よりも、痒いところを掻いて気持ちよくなる勉強をしてるんだってことは分かりました。私も完全にそっちでしたね。勉強って、もっとちゃんとやるものだって思ってました。試験って、全ての分野をちゃんとくまなく理解した上で受けるものだと思ってました」
「やっと分かってもらえました?」
「なんか、もっといいこと、インパクトのあること言ってください」
「う~ん・・・・・たとえば、試験問題に正解するのに“理解”してる必要はないですよね。理解してなくても正解はできますよね。理解してる奴より正解した奴のほうが偉いのが試験なんです」
「うわ、ほんとだ・・(メモメモ・・)」
(休憩タイム)
「ところで、2周目以降はどうすればいいんですか?」
「2周目以降は、1周目で間違えた問題だけを回してください」
「えっ!3周目も4周目も、1周目に間違えた問題だけをやるんですか?」
「そうです。間違えた問題だけです。まだ分かってないですね。1周目に間違えた肢は、NOAさんにとって“あやしさ度100%”なんですよ。それを完全に潰すことは、NOAさんにとって純度100%の勉強なんですよ。その純度100%を差し置いて他に何をやるんですか」
「でも、正解してた肢も、偶然合ってただけかもしれないし・・・」
「法律問題は常識感覚・リーガルマインドを鍛える場なんです。NOAさんはあんまり勉強してないから知識ないですよね。でも、それは法律問題を解くのに最高の条件なんです。司法試験は最終的に自分の中にあるリーガルマインドを鍛えなければ合格できないのはご存知ですよね。でも、知識がある人は、ある問題が合っていた場合に、それを知識として知っていたから正解したのか、自分のリーガルマインドが正しかったから正解したのか判別ができないんです。もし、知識で正解しただけなら、その人は同じ価値基準で作られた別の問題では、普通に間違っちゃうと思いますよ。司法試験では全く同じ問題はほぼ出ませんから、そうなっちゃうのは本当はもの凄く怖いことなんです」
「ここでもし、幸運にも知識がなければ、その人は問題を解いて間違えることで自分のリーガルマインドの歪みに気づいて、それを修正する機会を得るわけです。けれど、なまじ知識があると、それだけで歪みに気づけなくなります。つまり、司法試験では、知識を付ければ付けるほど、肝心のリーガルマインドが鍛えられなってしまうんです。実力者は、どんな問題を解いても全部知識という外側の鎧の部分で解いちゃうので、リーガルマインドという内側の価値判断は使わなくなってしまう。このように、知識は付ければ付けるほど問題を解くのに役立ってしまうが故に、その人のリーガルマインド修正の機会を失わせるんです。NOAさんは知識がない状態で肢別本を始めて、結構な数を正解してるんだから、その常識感覚にはもっと自信を持っていいんですよ。いずれにしても純度100以外は後回しですけど」
「じゃあ、純度100%の問題がなくなちゃったらどうするんですか?つまり1周目に間違えた肢を完璧にしたら、もう“あやしさ度100%”の問題はなくなっちゃいますよね」
「そしたらいよいよ1周目で正解した肢をもう一度解いてください。そこで間違えた肢があったら、今度はそいつを叩き潰すんです。問題を解く効用には2つあって、ひとつは問題を解く感覚を鍛えられること。もうひとつは自分ができない問題が見つかることです。問題を解くことで自分のできない部分を見つけて、得点効率を最大化する純度100%の勉強をするんです」
(おわり)
私の肢別本(民法)潰しの成果を報告すると、まず、1周目にかかった日数は4~5日でした。
正解した肢の解説を読んでないのだから当然です。でも、それまで何度もチャレンジしながら総則さえ終わらずに投げ出していた肢別本を、こんな短期間でひと回しできたというだけで、私には驚きでした。
正答率ですが、1周目が終わった時点で友人にランダムに「達成度チェック」をしてもらった結果から推測すると、1周目終了時点で、既に95%以上正答できる状態になっていたと思います(実は、ランダムチェックでは一問も間違えていません・・)。
1周目で不正解だった肢については、4~5日前までに一度見た(しかも解説まで読んだ)肢ですから、どの肢も明らかに見覚えがあって、再度は間違えようがない感じでした。
1周目で正解だった肢についても、中村さんが言うように、私は常識感覚だけで○×を付けていたので、その感覚に従って再度○×を言えばいいだけでした。なので、これもまた間違いようがない感じでした。
また、不正解の肢と同じく、4~5日前までに一度見た肢ですから、ほとんどの肢について、「あぁそれは正解した肢だなぁ」という記憶も残っていました。
2周目は2日くらいしかかかりませんでした。それ以降、どんどん時間は短縮されていきました。
時間の短縮とともに正答率も上がってきて・・・と本当は言いたいところですが、単なる正答率だけの話なら、正直に告白すれば、1周目終了時点でほぼ100%だったかもしれません。
自分ができたこと(正解)とできなかったこと(不正解)を明確に仕分けることが、こんなにも人間の頭脳を自覚的にするとは、正直思いもしませんでした(もちろん、私は全然頭のいい人間ではないです)。
皆さんもほんと真似してください。。
ここで一点だけ、忘れないで欲しいことがあります。
それは、ここに書いたことは、あくまでも肢別本潰しの方法論だということです。
もちろん、短答過去問潰しにも論文試験対策にも、十分に応用可能な方法ではあると思いますが、私の意図に反して、ここに書いた方法を効率的に物を覚える方法と受け取った方がいるとすれば、それははっきり誤読であると申し上げておきます。たしかに、この方法で問題集を潰せば効率的にその内容を覚えることができると思いますが、そういう単純暗記の勉強法は司法試験ではおすすめできません。
当ブログの記事に対して、様々な受験生が様々な反応をしてきますが、その中に、インプット系の方法論ばかりに食いついてくる受験生が数多くいることに、ブログをやっている途中で気づきました。
具体的にいうと、桜蔭の女の子がそうです。本音をいえば、私の書いた多くの記事の中で、この記事は特に水準の高いものではありません。方法論として非常に単細胞であり、その効果も限定的です。特に、強い目的意識に裏づけられていない点が最も致命的です。
しかし、このような単細胞な方法論に対して、極端な人になると、司法試験情報局で価値のある記事は「桜蔭の女の子」だけで、あとは価値がない記事だ…と言いだす人まで出てくる始末です。
こういうのは非常に良くありません。このような単細胞な方法論にしか価値を見出せないのは、その人の頭が単細胞だからです。易しい試験(覚えれば済む試験)ならそれでもいいですが、司法試験などの難度の高い試験(覚えるだけでは済まない試験)になると、それでは全く対応ができません。
今回の方法論は、暗記・理解の危険性を強調したものとして、正しく受け取っていただきたいです。
もちろん、そうやって正しく学習すれば、結果として、素早く効率的に内容を覚えてしまうことにもなるでしょう。しかし、そのことはあくまでも結果の問題であり、今回のレクチャーの本旨ではありません。
最初から最後まで、大切なのは目的意識です。
したがって当然のことですが、目的に定位して有効だと思えば、今回のレクチャーとは方向性が全く違う方法、たとえば「全てを覚え倒す」ような方法を採っても構いません。目的に定位してそれが最善の方法だと思えばそうしてよいし、むしろ、そうしなければならない場合さえあるでしょう。
ようするに、私が言いたいのは、その目的が何なのかが決まる前に、手段が先に決まっているのはおかしいでしょうということです。どうかこの点を忘れないようにしてください。
件の桜蔭の女の子も、きっと「大学入試」の「センター試験」の「世界史」だったから、あのような方法を採用したはずです。言いかえれば、試験や科目が変われば、当然、別の方法を採ったはずです。
このように、目的との関係で常に柔軟に対応を変えられることこそが、試験に強い受験生になるための必須の条件なのです。
【いつか得点効率を最大化する勉強をするための勉強】
3ヶ月の期限の話に戻ると、ほとんどの受験生が、
今この時点で得点効率を最大化する勉強を放棄して、いつか得点効率を最大化する勉強をするための勉強 ばかりをしている気がします。
「いつか得点効率を最大化する勉強をするための勉強」とは、
・いつか始める予定の過去問演習や答練のために、今は一生懸命に基本書を読む勉強
・いつか全体を総ざらいするために、今はせっせとシケタイの加工をする勉強
こういった勉強のことです。
彼・彼女たちの心の中は、きっとこんな感じ↓です。
今やっている勉強で3ヶ月後に試験が来てしまうのは、たしかに非常に困る(←分かってんじゃん)。
だけど、実際の本試験は3ヶ月後じゃない。よって、計画は長期的に考えてよい(←おいおい)。
私の勉強(←作業でしょ)を非効率と馬鹿にする人がいるけど、今に見てらっしゃい(←何を?)。
きっといつか、私の基本書・シケタイは、最強の武器になってるんだから(←「いつか」っていつだよ)。
きっといつか、この最強の武器で過去問が解けるようになってるんだから(←いいから過去問解けよ)。
…と、こんな風に、今の自分が楽をするために、将来の自分に全責任(負担)をなすりつけるのです。
もちろん本人は、「将来楽をするために、いま苦労をしている」つもりでいるのでしょう。
けれど実際は、「将来の苦労から逃げるために、いま楽をしている」だけです。
それが、彼・彼女の真(まこと)の心の内なのです。
彼・彼女は、ようするに、いま痒いところを掻いて気持ちよくなっているだけです。
そうやって気持ちよくなることで、本当に考えなければならないことから目を逸らしているのです。
気持ちのよい勉強とは、一言でいえば“分かる”勉強です。
分からないことが気持ち悪くて不快なので、それを一つずつ消していくと、気持ち悪さや不快感がひとまず消えます。この効果は人に大きな快感をもたらします。それは決して得点力を上げる効果ではありませんが、そこには何かしらの麻薬のような効果が、確かに発生します。
この効果の魔力は、想像以上に怖いものです。
全ての勉強には(目的との関係を問わなければ)必ず何かしらの効果が発生します。
・よく理解した感じ(腑に落ちた感じ)がしたとき
・1日10時間勉強して充実感に浸っているとき
・思いがけず先生や友人に褒められたとき
・(合格者などから)自分だけの特別な耳寄り情報を手にしたとき
こういったものも全て、気持ちの良い「効果」です。
このときに得た自分固有の「効果」を、人は必要以上に過大評価する傾向があります。
人はみな、自分がした経験を特別なものだと思いたいからです。
この「効果」の発生によって、受験生の心に一種のすり替えが起こります。
「私の心の奥の実感がこの効果は本物だと言っている」(←たしかに効果自体は本物です)と思うときのその「実感」は、非常に強烈で心地よいものです。その勉強が単に「分かる」だけでなく「点になる」効果をもたらすに違いないと「実感」しないではいられなくなります。
こうして、その受験生の目的は、晴れて「点になる」ことから「分かる」ことへとすり替えられます。
もっとも、その実感はしょせん個人的な思い込みにすぎないので、そしておそらく本人もその事実に薄々は気づいているので、試験の客観的事実や目的そのものを再認識させようとすると、その人は自らの欺瞞を暴かれまいと大抵は激しく抵抗し、最後には怒りだします。
よほど目的意識の強い受験生でなければ、ここで発生した「効果」が、当初の目的とは関係のない効果であることに気づくことができません。なぜなら、彼らも彼らなりにその「効果」を正当化するためのゴマカシの論理を用意しているからです。
その論理とは、「点になる」ことをするためには「分かる」を経由しなければならないという論理です。
たしかに「分かる」だけでは試験には受からないのかもしれないけれど、それは「点になる」ための前提条件として必ず必要となる、という論理です。いわば「分かる」ことを壁に見立てた間接シュートの論理とでも言うべきものです。つまり、「分かる」という壁に向かってボールを蹴れば、その壁に当たってボールはゴールに入るはずだ(入りやすくなるはずだ)という論理です。
この「論理」の欠点はいくらでも指摘できます。
まずそもそも、ボールはゴールへ向かって直接蹴り込んでいいのです。
なんでわざわざ壁を経由させなければならないのでしょうか。直接ゴールを狙ってはいけないルールはどこにもありません。直接ゴールを狙ったほうが簡単ですし、ゴールの位置を見間違うこともありません。
さらに、この間接ショートの論理の最大の欠点は、【得点効率を最大化する勉強の一例】の青字部分で指摘した、暗記・理解の危険性です。
こと司法試験において、先に覚えてしまうこと(理解してしまうこと)は、その人のリーガルマインドという伸びしろを決定的に失わせる虞の強い危険な行為です。この点は致命的です。
しかし、ここまで言っても彼・彼女らが自分の考えを改めることはありません。
その理由はすでに指摘したように、「分かる」という快感が受験生の心を麻痺(逃避)させるからです。
そしてもう一つ、ゴールを見ること、ゴールに向かってボールを蹴り込むことへの恐怖です。
たしかに誰にとってもゴールを見ることは恐怖です。ついつい、武器をたくさん買い揃えてから、鎧で武装してから敵(ゴール)に立ち向かいたくなります(何度も言いますがそれをするとアウトです)。この敵(ゴール)への恐怖が、彼・彼女らに更なる麻薬を必要とさせるのです。麻薬を吸っている間は、敵(ゴール)のことは忘れられるからです。
彼・彼女らは、「分かる」という名の快感の奴隷です。
本当は「点になる」勉強をしなければならなかったはずなのに、そのために始めた司法試験だったのに、いつの間にかそんなことは忘れて(忘れたふりをして)、今日も「分かる」という麻薬を吸い続ける・・・。
いつの日か自分も麻薬依存から脱して「点になる」勉強をするつもりだけど、それは「今」じゃなくてもいいよね、と・・・(←今でしょ)。
結局、その後(たとえば1年後)、彼らはどうなっているのでしょう。
実は、彼らの大部分は、1年後も、「いつか得点効率を最大化する勉強をするための勉強」をしているのです。そうやって、永遠に到達することのない「いつか」に向かって、永遠の順延を繰り返すのです。
私が「3ヶ月」と直観的に書いたのは、方法論的な観点からだけでなく、人間が自分の行動に誤魔化しなく責任が持てるのは、せいぜい3ヶ月後くらいまでということがあったかもしれません。
実際、1年も後のことなんて、人間にとってほとんど妄想でしかありません。
「1年後のため」と称して、たとえばシケタイをせっせと加工している受験生がいますが、彼らはこの妄想を利用して目的から逃げているのです。「1年」という期間は、それくらい人を無責任にします。
現実に試験に向き合って、試験問題を間違えて、それをどうにかしなければならないと真剣に思ったら、どんな時期であれ、普通シケタイなんて読んでいられないはずです。
真剣に問題に向き合ったら、「これを解けるようにならないといけないのかぁぁぁ~」「やばいぃぃぃ~」と普通は焦るはずなのです。
あるいは、矛盾するようですが、「うわ、本試験問題って、意外と解けちゃう」「シケタイなんか経由しなくても解けちゃうじゃん」「えーっ、解けたら合格じゃん」「もう解けるようにしちゃおっ」と調子に乗ってきちゃうはずなのです。
真剣に問題に向き合えば、「分かる」ことと「問題が解ける」ことが、思った以上に関係がないという事実に気づくはずです。あるいは、同じことですが、分からなくても(分からないまま)問題が解けてしまうという事実に気づくはずです。そうなればもう一人前です。
あなた自身に誤魔化しなく問うてみてください。
もし、3ヶ月後に、人生一度きりの、一発勝負の司法試験を受けなければならない状況に置かれたら、あなたはそれでも基本書を読みますか。シケタイを読みますか。百選を広げますか。
この問いを「1年後」にしてはダメです。
「3ヶ月」という切迫した期間を想定することが大切なのです。