雑感① | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

※この雑感①②③は、2022年3月以降に書かれたものです。

ブログの(最終的な)終了にあたって、最後に広い視点から言いたいことをテキトーに書き残しておこうと思います。

 

 

********************

 

 

「法的思考力」とは何か?

 

●昔、芦部先生がその定義を書いたことがあります(法学セミナーか法学教室か…)。

正確に覚えてませんが(検索しても出てこない)、↓こんな感じの定義でした。

法的思考力=相対立する利益に目配りしつつ論旨を展開する能力のこと

 

●2つ下線を引きましたが、重要なのは前者です(後者はただの論理展開の話なので)。

この相対立する利益に目配りという部分こそ、私が法の本質と考えるものです。

 

●なぜかというと、法の本質は紛争であり(紛争があるから法が必要になる。逆かも?)、そしてその紛争(=対立)を解決するのが法だからです。

 

●「解決」とは、治めるということです。

戦争なら、相手を全員消し去って「解決」というのもアリかもしれません。

しかし、法はそうではない。負けた側にも社会に居続けてもらわなければなりません。

そこで必要になるのは、相手方(特に負けた側、付け加えるならギャラリー)の納得です。

勝つ側・負ける側の双方(両当事者)を、同じだけ大事にするのが法(的処理)の姿です。

 

●私がこの定義をこそ法の本質と考えるのは、何より、条文がこの形をしているからです。

どの条文でもいいのでよく読んでみてください。ほとんどの条文がこの形をしています。

もちろん、条文の具体的顕現としての紛争もこの形です(紛争のほうはすべてこの形です)。

 

●ブログを始める何年か前にはこのことに気づいていましたが、はっきり書きませんでした。

なぜかというと、「それを答案にどう書けばいいのか」がよく分からなかったからです。

適当なことならいくらでも言えますが、想像するにこれは、一流の法律家のみがざっと読んでさっと分かる、そういう類の「何ものか」であって、具体的な答案の書き方として「こう書いてください」と提示できるものではないのだと思います。

 

 

 

 

地頭論再考

 

Q.本当に地頭が凄い人っているんじゃないの?

A.そりゃ間違いなくいる。

世の中には、闘う前から負けを悟らざるを得ないような、脳細胞から違う人がいる。

ただ、司法試験がどうとかいう場面では、そんな人は無視して構わないくらいの数しかおらず、一見「天才!」と思ってしまうような人も、よく見れば相応のことをしてきた人ばかりです。

ブログ本編で基本的に地頭の話をしなかった(認めなかった)のは、実質的にその必要がないと考えていたからです。

 

 

 

 

中村さんの思い出 ~その一~

 

●中村さんが(旧司の)論文試験に落ちたとき、一緒にいました。

合格祝(予定)は「励ましの会」に変更され、どこかの居酒屋でしばし食事をし、地下鉄で帰りました。

途中、横に座っていた中村さんが、「おかしいなぁ~、あんまり悔しくないなぁ~」と2-3回くらい言ったのを覚えています。

 

●数日後、ゼミ(※勉強を一切しない勉強会)に中村さん(=N)が現れました。

私「調子はどうですか?」

N「なんか、あれからしばらくして、すっごい悔しくなってきて・・・」

私「そうなんですか」

N「1日20時間くらい勉強してます」(うっすら笑っている)

私「ん?・・・20・・・睡眠は・・・」

N「1日2時間くらいしか寝てないですね」(うっすら笑っている)

私「(たしかに目が据わっている・・)」

 

●つづき

私「ゼミなんて来てていいんですか?(他に論文落ちた人は誰も来てないのに・・・)」

N「勉強法の相談に乗ってもらおうと思って」

その後、一緒に書店回りをしながら何冊か本を買って、ゼミの教室に戻りました。総論的な勉強法から具体的な答案の書き方に至るまで、すべてを見直すとのこと。それから数ヵ月、なぜか私も一緒に考えていくことになりました(中村さんは、それからも、この「勉強を一切しない勉強会」に、毎週来ていました)。

 

●「開成から東大行くような人がこんなに勉強したら、受かるに決まってんじゃん」

そう言いたくなる人もいるでしょう。

「方法論とか言うんだったら、もっとエレガントに受かってくれよ」

そう言いたくなる人もいるのではないでしょうか(かく言う私がそうでした)。

 

●そうじゃないのです。

こういう人だから、開成東大弁護士なのです。

優秀な人は、やるときはやるのです。

やるときはやるから、優秀なのです。

そんな当たり前のことを、しかし目の前でありありと見せられたことは、私にとって貴重な体験となりました。

 

●ちなみに、こういうことを書くと、中村さんが方法小手先要領テクニックを(本音ではor事実上は)軽視ないし否定してしまっているように思う人が出てくるかもしれません。

 

●もちろんそれは大きな誤解です。

方法や小手先や要領やテクニックは、勝負に不可欠です。

方法なしに、努力などほとんど意味を成しません。

 

 

 

 

日本○○の監督と積み上げ型

 

●いま(これを書いている2022年3月現在)話題の日本○○の監督が、

「優勝は狙わない」

「地味な練習を積み重ねることが一番大事」

等々の、戦前の無能な指揮官のようなクズみたいな発言をしています。

 

●彼が言うには、「まずは目の前のやるべきことを積み重ねていって、その延長線上に優勝があればいい」のだそうです。

 

「積み重ねる」って、いったい「どっち」にだよ!

 

●こういう「地道に積み上げていきましょう」みたいな、5歳児でも言えるような「指導」しかできないコーチや講師があまりにも多くてげんなりします。

 

●彼らには頭を使って戦略を考えるという習慣が(人生を通して)全くないため、彼らの唱える「戦略」は常に体育会系的な根性論一択になります(ちなみに、弁護士だって人生で1秒も頭を使ったことがない人はたくさんいます)。

 

●仮に「方法」の問題が示唆されたとしても、彼らは方法と努力をゼロサムの関係で捉えることしかできないため、結局は常に「努力」のほうが選び取られることになります。

方法は頭を使うので、人生で頭を使ったことがない人には、その存在意義が理解できません。

そのため、彼らの目の前に方法努力を並置してみせても、結局彼らは努力のほうしか選び取ることができないのです。

 

「方法なの? それとも努力なの?」 「方法じゃなくて、努力だよね」

自分の頭で考えることができない受験生・合格者・講師たちは、昔から↑こんなことばかり言ってきました。

 

●私の答えはかんたんです。

方法の限りを尽くし、努力の限りを尽くすのです。

これしか正解はありません。あたりまえじゃないですか。

 

 

 

 

積み上げ型学習

 

●この、目的の前に何かを積み上げることからスタートする「積み上げ型学習」こそが教育・学習の本意である、とするこの誤った教育思想は、一体いつから私たちの社会の常識になったのでしょうか。

 

●人類が文明を築いて以降しばらくの間は、「積み上げ型」などという、学習者にひたすら奴隷的苦役を強いるだけの変な(変ですよ!)「方法」は存在しなかったはずです。

 

できるようになりたい当の行為(目的)を定めることなく、まずは「積み上げ」ることから始める。言ってるだけでかなり無理があります。

 

●何のために積み上げるのか分からないまま、積み上げる。

どこにどう積み上げるのか分からないまま、積み上げる。

まったく不合理極まりない。

 

●こんな不合理な学習法が、自然に出来上がってきたものとは考えにくいです。

歴史のどこかの段階で、誰かが人工的に「発明」したものに違いありません。

 

 

 

実践型学習

 

●「積み上げ型学習」の反対は、言うまでもなく「実践型学習」です。

歴史のある段階まで、人類はこちら(実践型)の方法しか持ち合わせていなかったはずです。

 

「実践型」とは、目的とする当の行為と同じことをすることです。

かつては、大工の息子も漁師の息子も、実際にそれぞれの仕事を手伝いながら大工・漁師になっていきました。弁護士のような職業ですら、「弁護士見習い」のような形で、実際にプロの横に付いて見よう見まねで学習していくのが普通でした(古代ローマでは後の学校のようなものが出現したこともあったようですが)。

 

●かつては世界中が身分制社会でしたから、何かを教育(学習)するとしたら、「実践型学習」で十分でした。「実践型」こそが、最も効果的な、ただ一つの学習法だったのです。

 

●特に理由がなければ、現在でも教育(学習)は「実践型」で十分です。

「実践型」が最も効果的な学習法であることは、昔も今も、何ら変わっていません

(↑ここがあまりにも理解されていないところです)

 

 

 

英語学習

 

●たとえば、「英語が話せるようになりたい」とします。

お金はいくらでもある。時間も十分にある。つまりは、英語に人生を全振りしてよい状態だとします。

 

●ただし、たとえば「英語ができるようにならなければ殺される」といった厳しい条件がついているとします。このとき、皆さんならどうするでしょうか?

 

●99.99%の方が留学を選ぶはずです。

アメリカの学校に通い、アメリカ人の家にホームステイして2~3年も生活すれば、100%の人が英語を話せるようになります(※驚くべきことに例外は存在しません)

どんなに英語が苦手な人でも、どんなに偏差値が低い人でも、100%話せるようになります。

 

●「そんなの当たり前だろー」と言いたいでしょうか。

もちろん当たり前です。これが「実践型学習」の力です。

目的とする当の行為をしていれば、誰でもその行為ができるようになるのです。

 

●とはいえ実際には、お金がなかったり、時間がなかったり、勇気がなかったりして、そこまで踏み込めない人が大半です。それは仕方ありません。

私たちの人生には、そのようなボトルネックが常に存在します。最も有効な手段が何か分かっていても、その手段が様々な理由で実行不可能ということは多々あります。

 

●ここで重要なのは、実行が可能か不可能かの話ではなく、「最も効果的な学習法が何なのか」を私たちは(本当は)一人残らず最初から全部知っているということです。

 

英語も司法試験も同じです。

「実践型学習」が最も効果的な学習法であることは、今も昔も同じです。

本当は、全員がそのことを知っているのです。

 

●このことは、強調してもし過ぎることはない、というくらいの人間の真実です。

全ての人間が「最も効果的な学習法が何なのか」を、言われるまでもなく知っています。

しかし、ほとんどの人が、まるで何も知らないかのように振舞っています。なぜでしょうか?

それは、人間が基本的に自分に(こそ)ウソをつく生き物だからです。

自分の一番弱い部分、聞きたくない部分、認めたくない部分をこそ誤魔化す生き物だからです。

 

 

 

 

 

積み上げ型学習の起源

 

●ところが、現代ではなぜか「積み上げ型学習」が常識的で真っ当な学習法だとされています。なぜこんなことになっているのか。

 

●実は、この「積み上げ型」の教育思想が広く社会の全体に普及したのは、長くみてもせいぜいこの100年のことです。私たちの「常識」は、つい最近塗り替えられたものなのです。

 

●現代教育の常識となった「積み上げ型学習」の思想は、17世紀に唱えられました。

コメニウス(1592~1670)が最初の人です(←教育学部の人には有名)。

私の見立てでは、良くも悪くも↑この人からすべてが始まっています。

 

●「近代教育の父」コメニウスのスローガンは↓こうです。

「全ての人に、全てのことを」

ようするに、身分を問わず全ての人間が、世界の全ての事柄を学ぶ。

これが教育の理想なんだ、ということです。

 

●分析的に書けば、

①教育の対象⇒全ての

②教育の内容⇒全ての内容

となります。わざわざ分けて書く意義はあります。

 

●これが教育の近代を開いたという歴史的な意義もありますが、それより重要なのは、近代教育思想に照らせば、この①「人」と②「内容」は(分けて書いといて何ですが)実は全く同じことを言っていることになるからです。

そして、この思想こそが現代人の「積み上げ型学習」という「洗脳」を生みだしたという側面も無視できません。

 

●まず、①(=全ての人)から。

①「全ての人」が教育の対象になるということは、貴族や僧侶だけでなく、軍人も農民も、男も女も、富める者も貧しき者も、ようするに全国民がそこに含まれる、ということです。

 

●ここから何が帰結するか。

「全ての人」が対象ということは、学校や教師が、その教育を「誰」に対して行うのか全く分からないことを意味します。教育の名宛人、つまりは「誰」が、全く分からないのです。

そして、その「誰」が分からないまま、それでも教育が行われるのです。

 

●それまでの時代なら、弁護士になるなら弁護士になるための、司祭になるなら司祭になるための、(あえて似たのを挙げておくと)修道士になるなら修道士になるための教育(というよりは訓練・修行)があって、目の前にやってきた人にそれを宛てがえば十分だったはずです。

なにせ、目の前にいるのは、「修道士になることが決まっている人間」なのです。

それ以外の人間が目の前に座っているなんてことはあり得ないのですから。

 

●目の前に座っているのが、「修道士になることが決まっている人間」から、①「全ての人」に変わると、教育(教える内容)はどのように変わるでしょうか。

 

●その人は何者なのか、その人は大人になったら何になるのか。

目の前に座っているのは、そういう具体的属性を何ひとつ持たない「人」(抽象的一般人)なのですから、具体的な教育プログラムなど「ない」ということに(まずは)なります。

 

●しかし、それでは困る。それでも何かを「教育」しなければなりません。

その場合、どうするか。

 

何でもかんでも教えるしかありません。

だって、目の前にいるのが「誰」なのか。

これから先、「誰」が来るのか。

彼らは「何」になろうとしているのか。

こういったことが何ひとつ分からないのですから。

 

●ようするに、ここで人は平等になったわけです。すばらしい。

しかし、それは同時に、目の前に座っている生徒たちに「何を教えればいいのか分からない」という大きな困難を生むことにもなります。

 

①人(全ての人)のことを書いているうちに、いつの間にか②内容(何でもかんでも)の話に踏み込んでしまいました。

先ほど、①と②が「全く同じことを言っている」と書いたのはそういうことです。

 

●近代以降、少しずつ身分制度が壊れ、平等化が進む中で、人は「なりたいものになれる」ようになっていきます。なりたいものにはなれなくても、将来自分が何になるのか分からない存在になっていきます。

 

●農民の子が軍人になるかもしれないし、漁師の子が科学者になるかもしれない。

だとすると、ある生徒に教えるべき「内容」は、「全てのこと」にならざるを得ません。

(→「ざるを得ない」というところがポイントです)

 

●だって、何になるのか分からないということは、すなわち、何にでもなる可能性があるということなのですから。何にでもなる可能性がある人に教える「教育」があるとすれば、それは森羅万象・一切合切となる他はありません。

 

●コメニウスの作った「教科書」をみてみると、それが現代の教科書ととてもよく似ていることに気づきます。一言でいうと、何でもかんでも書いてあるのです。

 

「何でも書いてある」とは、裏を返せば、

・教師がそれを使って「誰」に教えるのか、その教科書からは何も推測できない

・生徒がそれを学んで「何」になるのか、その教科書からは何も推測できない

ということです。

 

●このことに驚かなければなりません(どうか真剣に驚いてください)。

実際にはほとんどの人が驚かないか、せいぜい「あぁこの頃から教育は平等に向かっていったんだなぁ」みたいな(陳腐な)感想しか思いつきません(ちなみに私の不勉強のせいだとは思いますが、ここに書いた内容を正面から主題化した教育学者すら私は知りません)。

しかし、現代の教科書と変わらない姿がそこにあるからといって、これが当たり前だと思ってはいけません。

ここで驚いてはじめて、コメニウスを祖とする近代教育思想(理想)の意義とその限界(弊害)が分かるからです。

 

●たとえば、ここに「全ての人を愛している人」がいるとします。

しかし、愛がその定義上、排他的な性格をもつものである以上、その人は全ての人を愛しているのと同時に、実際には誰も愛していないと言うこともできます。

 

「全てのことに関心がある人」なんかでも同じです。

ありとあらゆるものに「関心がある」なんて、そんなのはほとんど語義矛盾でしかありません。

 

●他に分かりやすい例を挙げるなら、「私」という概念もそうです。

「私」とは、言うまでもなく「この私」のことを指し示していますが、実は同時に、誰のことも指し示していません。この二重性がなければ、「私」という概念は成立も存続もできません。

 

●ここで書いているのは、(教育に限らない)この世界の真理の話です。

「全て」というニュアンスをもった概念は、多くの場合その意味が二重性を持ちます。

 

「誰に対しても役に立つ教育」とは、実際、誰の役にも立たない教育です。

嫌味を言っているのでも、無理な逆説を駆使しているのでもありません。

(そう思ってしまう人は、人生であまりに頭を使ってこなかった己を恥じるべきです)

世界は(あるいは言語は)、不可避的にそういう構造をしているのです。

 

●したがって気に入らなければ、↓こう言い換えても構いません。

誰の役にも立たない教育だからこそ、全ての人の役に立つ

これもまた真理です。

 

●「私」という概念に中身(内容・性質etc…の具体的属性)が一切ないからこそ、全ての人が自分のことを「私」と呼ぶことができるのと同じです。

 

●なるほど。グダグダ書いてきたようだけれど、ようするに「役に立つ」って認めるんだね。

⇒そうです。そうでないと、世界は平等になりません。近代教育には明らかに「意義」があるのです。

 

●問題は、この近代教育(=全ての人に全てのことを教える教育)が、ある種の「断念」のもとに作られた、致命的欠陥を有した制度であることを、現代人が忘却してしまっている点です。

 

●近代教育は、平等に「全ての人」を対象に行われなければならなくなりました。

その結果、教育の平等が実現しました(←ここまではいい)。

しかしその結果、近代教育は論理必然的に、誰の役にも立たないもの(=何の効果のないもの)になり果ててしまった(ならざるを得なくなった)のです。

 

●まとめます。

近代~現代に至る教育システムには、「誰」のために、あるいは「何」のためにが、完全に欠落しています。それは、「全ての人」を教育の対象として包摂するためです。

中身を「ゼロ」にしなければ、「全ての人」を包摂することはできません

 

●譬えていえば、全人類が一人の例外もなく平等に口に入れられる「食べ物」があるとしたら、それは一切の成分を欠いた水や空気くらいしかない、みたいなものです。

 

●現代の教育制度は、成分(=教科書)から食べ方(=学習方法)まで、その内容を「ゼロ」にすることで教育の平等を実現しました。

 

●この「食べ方」を、別名「積み上げ型学習」と呼びます。

 

 

 

積み上げ型学習の目的

 

●つまりは、教育の平等を実現しなければならないというメタレベルの「目的」があったから、「教科書」という誰のためでもない教材が出現し、「積み上げ型」という何の効果もない学習法が世に広まることになったのです。

 

「教科書」「積み上げ型」も、このメタレベルの目的(教育の平等)の実現に奉仕する限りで意味を持ち、効果を発揮するものです。

(しつこいですが、「意味を持ち、効果を発揮する」とは、何の意味もなく、何の効果もないということと完全に同義です)

 

●メタレベル(国家・社会レベル)の観点から教育を考えるなら、こうするしかありません。

何者でもない、何になろうとしているかも分からない匿名(透明)の存在に授けることのできる「教育」なんて、せいぜいこんなものしかないからです。

 

 

 

目的のある勉強

 

●しかし、その匿名の存在がひとたび明確な目的を持ったなら、そのような存在にとってこんな教育は(今度こそ本当に)何の意味も効果もありません

 

何かの目的を持った瞬間、その人にとっての学習は、中世以前に戻らなければなりません

中世以前の学習とは、その教育を必要とする人が、必要とする内容を、必要とする仕方で学ぶことです。ようするに、目的とする当の行いを、見よう見まねですることです。

 

●「あぁ、これでようやく、本来(=中世)の教育・学習に戻れる

「さようなら、コメニウス」「よく考えたらお前、必要なかったよな」

…本来はすぐに↑こうなるべきなのですが、事はそう簡単にはいきません。

 

すぐに中世に戻れる人がいます。

東大をはじめとする一流大生の中に、そういう人たちが少なからず存在します。

実は彼らは、(驚くべきことに)近代教育にそのままでは順応できなかった人たちです。

順応できなかったにもかかわらず彼らが高学歴なのは、一言でいえば、勉強を目的化することが上手だったからです(たとえば、合格を目的化するとか、試験をゲーム化するとか…です)。

彼らは近代教育思想に最初から「洗脳」されていないので、その役割が終わると、自然にそこから離れていくことができます。

 

途中で気づいて中世に戻る人もいます。

このブログを読んで感心してくれた人がそうですし、なにより私自身がそうでした。

このタイプの人は、若いときから近代教育の「嘘」に漠然と気づきながらも、それがどのような「嘘」であるのかを自力で解明することはできず、長く苦しんできた人が多い気がします。

 

 

 

目的のない勉強

 

●もっとも実際には、ほとんどの学習者(受験生)が中世には戻れません

多くの東大卒も、多くの早大卒も、多くの弁護士も、多くの予備校講師も、近代式の平等教育で施された(洗脳された)内容量ゼロのプランを、終生愚直に守ろうとします。

 

●そうなる理由はもちろん、彼らが本質的に○○だからでしょう。

要は、人生で一秒も頭を使って考えたことがないからです。

ただただ、システムに従って生きてきただけだからです。

 

●本当は↑これで全部済ませたいのですが、もう少し踏み込むと、一流大出の人は、

目的のない勉強を、目的のないまま実行(勉強)する

というほとんど奴隷的な苦役を、そうとは知らず(あるいはそうと知りつつ)実行することで、利益(プライド・称賛・学歴・資格・地位・収入etc)を得てきた人たちだからです。

そうやって、自らのアイデンティティを確立してきた人たちだからです。

 

●彼らが、やたらに

「基礎から積み上げる」とか、

「愚直に」とか、

「揺るぎない基礎力を」とか、

「確実な知識を」とか、

こういった目的のはっきりしないモヤっとしたポエムのような助言ばかり口にするのは、(もちろん彼らに明確な目的意識がないことが一番の原因ですが)彼らが子どもの頃から、何だかよく分からないものを、よく分からない状態のまま受け入れる、という行動に長けていたからです。

 

●さらに言えば、このような奴隷的忍耐を示すことで、周りの大人たち(親や教師たち)から「えらいねー」と褒められてきたからです。

こうして一流大出の弁護士も、学校から社会に出た瞬間に一瞬で「○○」になるのです。

 

●先ほど世界の二重性の話をしましたが、何かの利益を得るということは、同時に(必然的に)何かを失うということです。誰もこの法則から逃れることはできません。

 

●近代教育システムに順応すれば、それに見合った不利益はきちんと生じます。

近代教育システムへの順応が進めば進むほど、その不利益は、深く、強固に、その人を内側から硬化させていきます。これは世界の真理(法則)ですから、一流大を出たくらいではこの法則の例外になることはできないのです。

 

●悲しいのは、そんな利益など得ていない(どころか不利益まで被っている)人たちまでもが、近代教育思想に「洗脳」されていることです。まるで、(本当の話かどうか知りませんが)足に繋がれた鎖を引きちぎれないゾウのようです。近代教育システムに順応できなかった人たちまでもが、「積み上げ型学習の外には出られない」と思い込まされているのです。

 

●該当者の皆さん、よく聞いてください。

投資で資金を溶かす人たちのことを、株の世界ではよく「市場の養分」と言いますが、皆さんは本当に東大や早慶出の弁護士たちの(彼らのアイデンティティを補強するための)「養分」になっていないでしょうか。

 

●自分が彼らの「養分」になっていないか。

まずは、司法試験をはじめようとするとき、よく考えてください。

そして、司法試験の勉強をしているときも、彼らが最も得意とする「目的のない勉強」に引きずりこまれていないか、よく考えてください。

 

目的のない勉強(=積み上げ型学習)なんて、できないほうが自然なのです。

自然の本性に適った学習法は、実践型学習だけです。

 

●上で書いたように、アメリカに留学すれば、誰でも100%話せるようになります

このことの意味を、もう一度よく考えてください。

中世人のやり方(実践型)で勉強すれば、その人にとって最大の効果が得られます。

わざわざ、日本で文法書を開いて「積み上げ」ていく必要はないのです。

そのやり方で「私はできた」と言っている人の自慢話に、お付き合いする必要はないのです。

 

 

 

 

ここまでのまとめ

 

●一連の「tweet」を読んで、「近代教育に何の効果もないなんて大袈裟だ。私の場合、小学校のときに習ったことが今こんな風に役に立ってるぞ。そのとき役に立たないと思っても、将来何の役に立つか分からないじゃないか」と言いたくなった方へ。

そういう言い方自体がすでに、近代教育の無効性を示しています。

「将来」「分からない」という言い方がすでに、今このときには、現に何の役にも立っていないことの自白になってしまっています。

 

「教育(勉強)ってそうじゃないよね。今のことばかり考えるんじゃなくて、将来を考えるのが教育だよ」と言いたくなったでしょうか。

その言い方がすでに、今このときには本当にやりたいこと(やるべきこと)なんかないはずだという良くも悪くも近代人的な(偏った)考え方を前提にしてしまっています。

 

●こういった、人生の本番は常に未来にあり、現在はそのための準備にすぎない、という発想(現在より未来を重視する発想)は、近代以降、強力に私たちの心に植え付けられました。

私たちは、「未来」とか「将来」と聞くだけで、理屈抜きになんだか良い気分になるはずです(翻って、「過去」と聞くだけで、なんだか重苦しい気分になるはずです)。

これは現代人に植え付けられた典型的なバイアスの一つです(中世以前の人間にとって「過去」はもっと輝かしいものだった)。

 

●(私を含む)多くの人間が、学校・試験制度に愛着のようなものを感じていますが(ex.まだ学生でいたいというモラトリアム的欲求や、学生時代は良かったなぁというノスタルジー等が典型)、その正体は(あえて名付ければ)学校・試験制度が持つ「プロセス的性質」への執着なのではないかと私は思っています。

 

●学校制度の中にいるとは、すなわち、自分が何らかのプロセスの中にいるということです。

この中にいる間は、誰しもが自分の未来(将来)に無限の可能性を認めることができます。

無限の(選択)可能性を与えられているという実感は、私たちに究極の自由の感覚(≒全能感)を齎します。

(生まれる前から大工になることが決まっていた中世の若者には、この感覚は絶対に理解できないでしょう)

多くの現代人が、程度の差はあれ、この甘美な感覚の奴隷になっている、と私は感じます。

 

●社会人になってからも(たとえば「キャリアアップ」のような言い方が典型ですが)、現在ではなくその「先」にこそ人生の真のステージ(目的)が待っているかのような仕事観・人生観を持つ人たちがたくさんいます。

そうやって人生の「目的」を先へ先へと順延させ続けること自体が、彼らの人生の活力になっているようです。

私には彼らの心情がよく理解できます。ようするに、あれは学校・試験制度(=プロセス)の延長戦なのです。

 

●誤解のないように言っておくと、私は、現在を何かの準備と捉えること、人生の目的を未来にスライドさせていこうとする思考の一切が「ダメ」だと言っているわけではありません。

先ほども書いたように、そもそも近代社会というものが、私たちにそういうバイアスを持たせるよう「設計」されているのですから、そのような思考から完全に逃れることはできません。

 

●私が言いたいことはひとつだけで、要は、

目的のある勉強をするときに、そのバイアスを持ち込むな

ということです。

 

●別の言い方をすると、目的のある勉強は、近代教育システムにおける「勉強」とはまるで違う勉強であることを自覚してください、ということです。

 

目的のない勉強=現代の教育システム=将来のための「勉強」=何の効果もない内容ゼロの「勉強」を強いられ、それに従順にしたがうことに慣れてしまった(ばかりかそのフィールドで高いパフォーマンスをあげてきてしまった)人間は、今このときの勉強を常に「準備」とみなします(そういうクセが染みついてしまっています)。

 

●彼らが入門講座好きなのも、基本書好きなのも、なんだか分からない「基礎力」的なものが好きなのも、「地頭」的なものが好きなのも、いつもいつも何かを「積み上げ」たがるのも、それらがすべて目的とする「何か」の前段階(準備)だからです。

つまりは、近代教育システムの構造そのものだからです。

 

 

 

 

法学は学問か

 

●話は変わって、もの凄く炎上しそうなことを書きますが、法学の能力って他の学問分野と比べるとかなり変わってますよね。何が変わってるって、大学卒業時(22歳時、あるいは18歳時)の能力的序列が、将来にわたって(数十年後にも)ほとんど変わらないところが、です。

 

●知らない方もいるかもしれませんが、日本を代表する法学者の多くが、実は大学院に行っていません(この時点で相当に変!)。かなり東大に偏った現象ですが、とにかく東京大学法学部の学生で、指導教官から推薦された学生は、大学院に進まずそのまま助教(助手)になるという謎の慣習が法学(特に東大法学部)の世界にはあります。

そして、驚くべきことに、そのときなされた「評価」は、ほとんど外れることがないのです。

 

●思いつくままに挙げていくと、憲法の芦部・宍戸先生、民法の内田・大村先生、刑法の西田・前田・山口先生、商法の神田・田中先生etc…このへんでやめておきますが、学部時代に指導教官から「一本釣り」された学生の多くは、まるでエスカレーターを昇るようにそのまま法学界の重鎮になっていきます。

彼らはみな東大法学部卒であり、学部を卒業後、大学院に進むことなく助手(助教)採用されるのも同じ。こんな判断が、22歳で行われているというのは、もっと多くの人が驚いていい事実です。

 

●ちなみに、「学力」(※後述)ではなく、力技(努力と根性)で「一本釣り」を勝ち取った(ようにしか私には見えない)先生も一部にはおられます(さすがに名前は言えません)。

このタイプの学者は(たいへん失礼ながら)真の第一人者と比べると、そもそも日本語のレベルから違っていて、こういうとき「学力」ってすごいな(というか怖いな)と素直に思います。

 

●どうやら法学の世界では、22歳の段階で、その才能が「○○法学会」を代表する存在になるのかどうかが分かってしまうらしいのです。

これは解釈法学に限った話ではなく、法哲学の井上達夫さんや大屋雄裕さんなんかもそう(学部卒→即助手採用)ですから、法学全般に妥当する「法則」のようです。

 

●まあでも、これはあくまで「法学」の才能の話で司法試験は別…と書こうと思ったのですが、本音の本音をいえば「必ずしもそうとも言えないかな~」というのが本音です。

なぜなら、上に挙げた先生方は、在学中に司法試験を受験して、トップレベルの成績で合格している方がほとんどだからです。あくまでもトップレベルの人に限った話ではありますが、法学の圧倒的な実力⇒司法試験の圧倒的実力でもある、ということです。

 

●「でも、それは色んな学問分野の研究者に東大出が多いという事実や、もっと抽象的に東大出には優秀な人間が多いという一般論で説明できる話なんじゃないの?」と思うでしょうか。

私はそうは思いません。はっきり法学は異常だと感じます。

 

●ロシア・ウクライナ戦争が始まって以降、数多くの国際政治学者がTVや雑誌に登場していますが、皆さんは彼らの学歴を調べてみたことがあるでしょうか。

私は政治学科から大学をスタートした人間で、それからも趣味的に色んな学問分野に興味を持ってきた人間なので、法学を除くほとんどの学問分野で、ある特定のAならAという学生(←なんと学生!)が、将来その学問分野を代表する学者になるのかどうか、そんなことが22歳の段階で判断できてしまうなんてことは通常はあり得ないということをよく知っています。

 

●特に政治学にかんしては元々の所属学科だったということもあって、酷いとき(?)は200人くらいの学者の名前と研究テーマを覚えていました(試験好きでもあったので、もちろん学歴の情報もセットで把握していました)。

 

政治学者の学歴は、法学者のそれとは比べものにならないくらい「低い」んですよ。

馬鹿にして言ってるのではありません。逆です。

政治学を志す学生にとって、まだ「子ども」にすぎない18歳時点で(たまたま)所属することになった大学やそこでの成績がその人の未来を拘束する、なんてことはありません。

18や22で決まることなど何もないし、18や22で諦める必要なんてないのです。

 

●これはとても正当なこと(学問は勉強とは違うんだから当たり前)だと私には感じられます。

普通は、学者に限らずどんな職業だって、18や22で決まることなどほとんどありません。

当然、法学を除く学問分野においては、あるAさんならAさんが「○○学の第一人者」になれる可能性は、もっとだいぶ後まで残るのです。

 

●特定の学問分野を代表する文字通りその世界の「第一人者」になるのに、東大・京大を出ている必要はありません。これは法学以外の分野では全く普通のことです。

 

●政治学を例にとれば、(早慶や旧帝大どころか)MARCHレベルの大学を卒業した人が特定の分野の第一人者になっている例も(けっして稀ではなく、いくらでも)確認できます。

いわゆる「底辺大学」出身者で東大教授をしている人もいます(こんなのは法学ではまず絶対にあり得ないことです)。

政治学が特殊なのではなく、その程度には逆転が生じるのがむしろ普通です。

 

●ところが、法学ではそのような逆転はほぼ生じません。

第一人者になるには、前提として東大(か京大)を出ていることは必須で、それ以外の人間にはほとんどチャンスがない、と言ってしまっても大きな嘘にはならないでしょう。

 

●このように、法学という「学問」は、他の学問とは決定的に異質な存在なのです。

法学では、学校・試験制度→大学→研究者と続いていく過程で、その「能力」にほぼ逆転が生じません。

 

●そうなる理由は、学校・試験制度でその能力が試され終わっているからである。これが私の解釈です。

 

 

 

学力論 ~法学に向いている人、いない人~

 

●繰り返しますが、法学の世界では、能力の逆転はほぼ生じません。

要するにそれは、法学の能力が学力と(ほぼ)同一だからでしょう。

 

●ちなみに、私は「学力」=学校・試験制度における能力と定義しています。

つまり、学校教育制度の中で6歳から18歳(or22歳)までの間に測られてきた頭脳的能力全般のことを指して「学力」と言っています。

 

●これも先ほどと同じ話になりますが、この「法学力=学力」という私の主張を司法試験に全面適用してよいかには議論(疑問?)の余地があるでしょう。

しかし、少なくとも司法試験の合格には法学の習得が必須であることは間違いないのですから、司法試験が法学と全く無関係だと強弁することはできません。

 

●つまりは、司法試験が「学力」と全く無関係だと強弁することはできない、というのが現在の私の偽らざる本音です。

 

●なので、とりあえず3年くらいやってみて「私、向いてないな」と思ったら、素直に撤退したほうがいい。学力(法学力も)は、非常に早い段階でその有無を判定できるものだからです。

 

●もちろん、↑こんなのは余計なお節介なのですが、たとえば↓こんな人をみるとき、私の中の「あなた向いてないよセンサー」が強く反応してしまいます。

 

●絶対に見つかることはないと思うので書いてしまいますが、私の知人に、10年近く行政書士試験にチャレンジし続けている人がいます(もう1年以上会っていないので、もう10年経っちゃったかもしれない)。

どう考えても10年かかる試験ではありません。彼は明らかに「向いていない」のです。

私のほうも10年以上前に勉強した記憶を拾い集めながら彼の「勉強」の進行具合を聞いてみたりするのですが、○○塾に100万円以上「献金」してきたとはとても思えないレベルです。

 

●何度も入門講座を受講してきた(はずな)のに、ほとんど何も入っていません。

「あ、また過去問解いてる」

「先週と同じとこやってる」

一向にできるようになる気配がありません。

やる気だけはある(ように見える)のですが、なぜか実際にやっているようには見えません。

同じ場所で延々と足踏みをし続けている(何も進んでいない)ようにしか見えないからです。

これでは仮に合格できたとしても、行政書士の実務を滞りなくこなせるとは思えません。

 

●ちなみに、彼の「献金額」は○○塾に100万以上と書きましたが、○○塾に出会う前にすでに何百万も搾り取られています(合計でいくら「献金」したのかは不明です)。

 

●…ようするに私は、この世には搾取の構造があるということを言いたいのです。

搾取にも(お金の搾取や、やりがい搾取など)いろいろな種類がありますが、ここで私が問題にしたいのは、学校・試験制度に纏わる搾取です。

 

●世の中で、学校・試験制度に向いている人(=「学力」がある人)はごく僅かです。

それ以外の人は、向いている人を喜ばせるための「養分」になることしかできません。

あるいは、学校(ロースクール)・塾・予備校の「安定財源」になることしかできません。

 

●あなたは、学校・試験制度という土俵で勝たなければならないと思い込んでいませんか。

あなたは、本当に学校・試験制度に「向いている」人ですか。

学校・試験制度に「向いている」人を、ただ喜ばせるためだけの存在になってはいませんか。

心当たりがある方は、一度立ち止まってよく考えてください。

 

●この世界(社会)の「勝負」は、学校・試験制度だけではありません。

むしろ現実には、学校・試験制度における勝負など、世の中全体の「勝負」のごく一部でしかありません。

にもかかわらず、多くの人が学校・試験制度に纏わる「勝負」に高い価値を置いていますが、それは、学校・試験制度が全員参加型の制度だったからにすぎません。

 

●就活生の人気企業が、誰もが知る有名企業に偏りがちになるのと同じです。

よく考えない人が思いつきで始めるビジネスが、決まって飲食店になるのと同じです。

パニック時に、皆がひとつの扉に殺到するのと同じです。

 

●単に、6歳から18歳(22歳)までのあいだ、全員がそこで競争させられていたから、その競争の仕方に馴れてしまっただけの話です。

 

●ようするに、皆が知っている場所には、皆が殺到する

ただそれだけの話なのです。

 

●結論。

学校・試験制度は、学校・試験制度で勝てる人(=学力のある人)のためにある制度です

勝てない人(=学力のない人)のためにある制度ではありません

このことを肝に銘じてください。

学校・試験制度に、人生を危険に晒すほどの価値はありません。

 

●自戒の念を込めて言いますが、「東大・京大生にだって負けない」「逆転できる」とあなたが本気で思っているのであれば、なにも無理に試験で勝ちにいかなくてもいいはずです。

 

東大をはじめとする学力の猛者たちが最も得意とするフィールド(=試験)で勝負をしようとしている時点で、あなたはすでに彼らの「養分」にされている可能性があります。

 

大事なことなので3回言います。

真に優秀な人間は、自分が向かない分野で勝つことに拘ったりしません

真に優秀な人間は、自分が向かない分野で勝つことに拘ったりしません

真に優秀な人間は、自分が向かない分野で勝つことに拘ったりしません

 

 

 

 

(雑感① おわり)

 

 

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