雑感③ | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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※この雑感③は、2023年末に書かれたものです。

 

 

すでに起こった未来

 

●P.ドラッカーに『すでに起こった未来』という本があります。

現在の中に、すでに現れている未来がある、という話です。ようするに、多くの人が気づいていないだけで、すでに現在になってしまっている「未来」がある、ということです。

現在をよく観察すると、多くの人に見えていない「未来」が、すでにその姿を現しているということが確かにあります。

 

●しかしその一方で、すでに現在になってしまっている「未来」を正しく捉えることができない人々が(もちろん私を含めて)大量に存在することもまた確かです。

 

 

 

現在の「実感」と現実の価値との乖離

 

●たとえば、東京大学の価値について考えてみましょう。

「東大」と聞いたときに感じる世間一般の実感体感的価値)は、私の親の代からほとんど変化していません。しかし、これは本当はとてもおかしいことです。

 

●私が高校生の頃に読んだ本の中に↓こんな一節がありました(再現は適当です)。

「もし君が将来ノーベル賞を受賞するような研究者になりたいのであれば、東大か京大に行くしか選択肢はない。それ以外の大学へ行けばノーベル賞の可能性はない」

 

●↑これは、今も現役で活動する著名な評論家が(20世紀の終わり頃に)書いたものですが、今から振り返ると実にふざけた文章であったとしか言いようがありません。

よくもまあこんな学生の未来の可能性を先回りして摘むような「嘘」を断定的に書いたよなぁ…と今となってはそんな気分です。

 

●しかし、当時(90年代)の私はこの本を読んで、「それはその通りだろうな」と思っていました。だって、当時の日本で現実にノーベル賞を受賞していた人たちは、たしかに全員が東大・京大の出身者だったわけですから。その時からすぐあとに(2000年以降)東大・京大が全体の少数派になる時代が来るなんて、当時の私には想像もできませんでした。

 

●しかし、ここからが大事な話ですが、潜在的な次元では、もうこのときすでにノーベル賞級の研究が、他大学出身者によって(早ければ1960年代、70→80年代と進むにつれてより)大量に行われていたということです。

かつて東大が実際に手にしていた絶対的と言ってもいい地位は、遅くとも1980年代にはすでに(分かる人には明白な形で)終わっていたのです。

 

●そして、さらに大事な話をするならば、実は、上記の事実はちょっと調べれば誰にでも分かることだったということです。少なくとも80年代には(真剣に調べれば)文系のド素人でも分かったはずです。

 

●思想家とか評論家とかを名乗っている人たちが、こういう「ちょっと調べれば誰にでも分かること」を、ちょっと調べてみることさえせずに、ただ彼の中にある実感」だけで書いていたんだなぁということを後に知り、私の(特に文系の)知識人に対する信頼が一段低下しました。

 

●何を言いたいのかというと、「東大王」とか「東大式○○」とか、「ドラゴン桜」とかを含めてもいいですが、現在のメディアが煽り立て、一般人が「実感」している東大信仰は、当の昔に賞味期限が切れたものだということです。彼らは(どんなに控えめに言っても)数十年前の人々の「実感」に基づいて現在の東大を評価しています。

 

●つまり、彼らが「実感」している東大など、もう既にこの世のどこにもないのです。

彼らは半世紀以上前の東大(あるいは戦前の東京帝国大学)に存在していた価値を現在の東大にそのまま当てはめ、それを「現在の東大の価値はこんなに高い」と信じているだけなのです。

 

●東大云々はただの例です。

こういった現在の「実感」現実の価値との乖離は、世界の至るところに見られます。

 

●なんとなく思うのですが、人の不幸の(一つの)原因は、この「乖離」(が正しく認識できないこと)にあるような気がしています。

 

●人の認識(=実感)が現実に追いつくのには、ふつう長い年月を要します。

言いかえると、人間の認識(=実感)は、常に現実に遅れをとるということです。

 

●反対に、この人間の認識の「遅れ」「乖離」にいち早く気づき、対処することができた人たちが成功者になるんだなぁ…と今はそんな気がしています。

 

●ドラッカーの話に戻れば、したがって私たちが知らなければならないのは、これから世界がどう変わるかではありません。そんな予言者みたいな真似ができる必要はないわけです。

必要なのは、すでに(いま現在)世界がどう変わっているか、を正しく知ることです。

これなら誰にでもできる可能性があります。

 

 

 

ロースクール構想と「すでに起こった未来」

 

●むかし、ロースクールが出来たばかりときの話です。

ちなみに、それ以前まで唱えられていた「ロースクール構想」では、ローに進んだ学生の7~8割が司法試験に合格するという、夢のような「計画」が発表されていました。

ところが、蓋を開ければ当初の予想を超えてロースクールが乱立。最初の既修者・未修者が入学した時点で、7~8割など嘘でしかないことがはっきりしていました(より正確にいえば、最初のロー入試が行われている段階ですでにそのことは明らかでした)。

 

ロースクール生の7~8割が合格するなんてことがあり得ないということは、

①各ロースクールの募集要項を読み、定員数を確認する(識字)能力があって、

②そこに記載されている人数を足し合わせる(足し算)能力があって、

③司法試験の合格者数をその足し合わせた数で割る(割り算)能力さえあれば、

誰にでもすぐに結論が出せることでした(もちろん私はすぐにやってみました)。

 

●「それなのに、それなのにですよ」(←城塚翡翠風に)、入学した当初ならまだしも、なんと入学から3年もの月日が経った司法試験の直前になって、(特に未修者を中心とする)皆さんの先輩方が、いきなり↓こう騒ぎ出したのです。

「7~8割が受かるんじゃなかったのか!」

「これじゃ話がちがう!」

「だまされた!!!」

 

●…私たち旧司経験者は、みな言葉を失いました。

「お前たち、なんで、足して、割ってないんだ…?」

 

ロースクール生の7~8割が合格するなんてことがあり得ないことは、誰の目にも明らかな、簡単すぎるくらい簡単な、「すでに起こった未来」でした。

しかし、これほど簡単な「すでに起こった未来」さえ、人は正しく認識できない(ことがある)のです。おそらくは「当事者としての恐怖」が、彼らの視界を遮ったのでしょう。

 

 

 

ヨーロッパの未来

 

●少し壮大な話をすると、西ヨーロッパは、今世紀の終わりを待たずにイスラムに取って代わられるはずです。つまり、今世紀中に(西)ヨーロッパはイスラム圏になるということです。

これは「そういう蓋然性が高い」とかそういう話ではなく、見えている人にはすでに明白すぎる形で見えているはずの「すでに起こった未来」のひとつです。

 

●マスメディアも国際政治学者も、不気味なほど皆さんその話をしませんが、

①西ヨーロッパのイスラム系移民+国民(←ここ大事)の割合と、彼らの出生率

ヨーロッパ系白人(キリスト教徒・無神論者)の割合と、彼らの出生率

以上の※推定値を元に(※こういうのはもう公式には調べてはいけないことになっている)

③あとは小学生でもできる計算(掛け算の繰り返し)をすれば、

数十年後の西欧でムスリムが「最大宗派」になっていることは、もうほとんど確定した事実だと分かります(ヨーロッパが今さら移民排除に乗り出したりしないかは若干気懸りですが)。

 

●その後(ムスリムが「最大宗派」になった後)「ヨーロッパ型のリベラルデモクラシーが継承されるか」という政治的に興味深い論点がありますが、とりあえずそれは脇に置きます。

驚くのは、この「事実」はすでにほとんど確定したものであるにもかかわらず、誰もそのことに触れようともしないことです。ひょっとして当事者には(当事者だからこそ)現実が見えていないのかもしれません。

 

 

 

生成AIと弁護士の未来

 

●実は、このブログは2023年の初頭には終了する予定でいました。ところが、2023年の1月にchatGPTの存在を知ってしまい、内容を大幅に変更しなければならなくなってしまいました。

(本当は「成功論」や「東京論」などを長々と書いていたのですが、全部消しました)

最後は短くAI論で終わりたいと思っています。

 

●私は基本的に「流行には後れて乗る」タイプの人間なので、パソコンが登場したときも、インターネットが普及し始めたときも、周りの人が言っていた「これから世界が変わる」的な感想にはついていけませんでした。そんな私でも、chatGPTの登場には衝撃を受けました

 

●これまで、テクノロジーの進歩によって「これからの時代は、人間にしかできない仕事が重要になる」みたいな掛け声が盛んでしたが(私もその主張自体には賛成ですが)、その「人間にしかできない仕事」とされるものが、想像と大きく異なるものになるだろうということをchatGPTによって教えられたと思っています。

 

●これまで人々は、AIをはじめとするテクノロジーによって不要となるのは、それまで人々が「下等」と位置づけてきた仕事、要は肉体労働(+単純労働)だと考えていたと思います。

反対に、生き残るのは「上等」な仕事、つまりは知的労働だと考えていたと思います。

 

●でもこれ、どう考えても勘違い(考え方が真逆)でしたよね。

私たちは未来を自分たちに都合よく考えてきたんだなぁと(今となっては)思います。

 

人間が重要で価値のある仕事だと見做しているものは、重要で価値のある仕事だからこそ、(資源・エネルギー制約がない限りは)「代替」へのインセンティブが働きやすくなる

よく考えてみればこれは当然のことです。

 

●たとえば、数万年前の人類にとって、危険な獣の気配を察知する能力や、食べてはいけないキノコを識別する能力は、最も欠かせない能力のひとつであったはずです。そういった能力を高いレベルで有していた人間が、その時代の「エリート」であったはずです。

 

●しかし現在は違います。現在では、そんな能力は基本的に必要とされていません。

それは、これらの能力が(本質的な意味で)価値を失ったからではありません。そうではなく、これらの能力が人間にとってあまりに重要で価値があるものであったために、社会から「無化」された(そのような能力が無用になるように環境が作り変えられた)と考えるべきです。

 

●もっとも、当時の「エリート」「数万年後にはそういう能力は全部不要になるよ」と教えてあげたら、きっと彼らは「すごい!」と驚き、今の社会を称賛する…のではなく(そう思うのは現代人の勘違いである可能性が高いと思います)、「それはたしかに良いことかもしれないが、しかし、獣の臭いも嗅ぎ分けられなくなるほど「バカ」になった人類など、もはや人類と認めることはできない!」と怒り出す可能性も十分にあると私は考えています。

 

●私たちは普段、疑問の余地なく「人類は賢くなり続けている」と信じていますが、あくまでもそれは、①後の人類の視点から、②長期的な視野で評価した場合の話であって、その時代時代における短期の評価基準で測るなら、むしろ「人類はバカになり続けている」と言ったほうが適切なのではないかと私は思っています。

 

●同じように、現在の社会で(資源・エネルギー制約のない)重要で価値があるとされる高度に知的な仕事のほとんどは、いずれ社会から「無化」(=AIによって代替)されるはずです。

 

●ここで私が「無化」と表現しているものの典型的なイメージは、電卓です。

電卓に「2+3」と「問い」を打ち込めば、「5」という「答え」を得ることができます。

電卓こそが、「問い⇒答え」の能力を「無化」してみせた人類史上最初の道具といえます。

 

●実際、現代人の多くは、電卓が計算過程をどのように「無化」しているかを知りません。

電卓の内部で何が起こっているのかを知りません。知らないまま、使えるというだけです。

知っていなければならないものがあるとしたら、それは「足し算」という言葉の意味だけです。

実際に計算ができる能力は必要ありませんし、電卓を製造できる能力も必要ありません。

 

●このように現代の生活に必要不可欠な計算能力を電卓の中に押し込めたのと同じような形で、私たち人類は自らの生存に必要不可欠な要素を様々な道具の中に押し込めて(=「無化」して)きたのです。

 

この押し込め(=代替・無化)は、人類が存続する限り、これからも続いていくでしょう。

会計士やコンサルや弁護士の仕事の多くも、いずれは何かの道具の中に「押し込め」られることは間違いありません(10年やそこらで「押し込め」が完成することはないと思いますが)。

 

●ちなみに、私は「シンギュラリティ」などのSF話は(今のところ)全く信じていません。

50年経っても100年経っても、一定数の弁護士や裁判官が存在し続けると思っています。

 

●道具の中に「押し込め」たあとは、その中のことはほとんど分からなく(無知に)なります。

哲学や神学で、よく神の「全知全能」という属性が議論されますが、私は「全知」と「全能」を無理にセットで考える必要はないと考えています。

全能である(十全に使える)けれども全知ではない(=無知であるにもかかわらず全能である)という在り方も「あり」なのです。それはまさに人類の歴史が証明してきたことです。

 

●そうやって人類は、その時代時代に必要とされた様々な「知」を平然と葬り去ってきました。

この露骨なまでの厚かましさが、人類をここまで「進化」させてきたのだと思います。

 

 

 

試験の終焉?

 

●画像生成AIまで出てくると、人類のそれまでの技術進歩が、実際には制約だらけのものだったことに気づかされます。

 

技術とは、人類にあって当然(必要)だったものを実現し、なくて当然(不要)だったのものを消滅させるわざのことです。「あって当然」のものがそれまで実現しなかったのは、何らかの制約があったせいですが、その制約を取り払うことが、すなわち技術の進歩ということです。

 

●生成AIの登場によって、産業革命以来の技術進歩が、人類に本来「あって当然」だったものをほとんど実現できていなかったという事実に気づかされました。

実際、産業革命から現代までの技術進歩とされてきたもののほとんどは、少なくとも教育分野に限っていえば、文字情報に関係するものばかりです。

 

活版印刷・書籍・図書館・新聞・教科書・初期のインターネット・・・人類は本来五感を駆使して活動する生き物なのに、これまでの近代化(=技術進歩)は文字一辺倒だったのです。

 

●それまで文字の領域に留まってきたテクノロジーの進歩が、メディアの登場によってようやく文字以外の(映像や身体性などの)多様な領域に広がっていく未来をいち早く(1960年代に)予言した知識人として、マクルーハンの名前を挙げておきたいと思います。彼の予言はあまりにも早すぎて、現在は半ば忘れられた存在になっていますが、今こそ読み直されるべき思想家だと思っています。

 

 

学校教育試験も、とどのつまり社会の現実的必要性から逆算して必要とされる能力を事前に身につける(測定する)ための制度だといえます。

 

●つまりは、現代社会で(抽象的・一般的な観点から)「エリート」と見做される人間ができること(彼らが持つ能力)を事前に教え込む(測定する)ことこそが、教育であり、試験であったのです。

 

●少し前の世界を想像すれば分かりますが、何かの問題を解決しなければならないとき、昔の人はまず第一に教科書・書籍・学術論文・新聞・雑誌・その他さまざまな書類の束・・・といった文字情報を頼るしかありませんでした(あとは人を頼るくらいだったでしょう)。

 

●このような文字情報を十全に操れる人間が、これまでの時代の「エリート」でした。

 

●これらの文字情報には、

記録媒体がない

文字情報が勝手に考えてくれるわけではない

という特徴(=極めて強い制約)がありました。

 

●したがって、問題の解決のためには、人間の側から主体的に

文字情報をできるだけ正確(かつ大量)に理解・記憶

問題に対する解答を独力で導き出すことが必要になります。

 

●そう考えると、近代~現代に至る学校教育制度&試験制度の内容が、

文字情報を主体とする教科書の理解・記憶と、

文字情報の処理(=解答能力)に偏重してきたことは偶然ではありません。

それは何より、これらの制度が、その時代に必要とされた一般的・抽象的「エリート」像を雛形(理想形)とし、そこから逆算される形で設計されたものだったからに他なりません。

 

●しかし、現在はPC・スマホの時代です。そして、これからはいよいよAIの時代です。

つまり、これからの「エリート」は、教科書の内容を大量に記憶したり、上手に文章が書けたりする人間ではなく、一言でいえばAIを使いこなせる人間(能力)となるはずです。

 

●現時点では、せいぜいPC・スマホを使いこなすことができる人間(能力)が「エリート」の条件になっている、という程度の段階でしょう。PC・スマホ(だけ)では、せいぜい文字情報の理解・記憶(上の青字部分の①の能力)が「無化」される程度の話でしょう。

 

●もっとも、AIの領域でも、たとえば文章力などは、私が言うところの「無化」が想像以上のスピードで進んでいて、すでに文章スキルの格差が縮小し始めているとの研究があります。

文章力については、早ければ数年程度で「無化」が完了するはずです。

 

社会の現実的必要性から逆算して必要とされる能力を事前に身につける(測定する)ことが、教育・試験の存在意義だとするなら、現在の試験制度がすでに時代遅れの制度となっているのは明らかです。

 

●そう思う一番の理由は、試験が閉鎖環境を前提にしたものだからです。

 

●試験が「現実離れ」しているポイントをいくつか挙げておきます。

①まず第一に、受験生を一つの部屋(閉鎖空間)に閉じ込めること。

②次に、参照物不可であること。

③さらに、厳しい時間制約を課すこと。

 

●現実の世界では、仕事の際に、①閉鎖空間に監禁されたり、②調査を禁じられたりすることはまずないので、これらは特に試験のためだけに仕方なく行われる非現実的設定といえます。

(③も現実から遊離しているという点では似たようなものです)

 

●そのような非現実的な設定が人々に今まで(何となく)受け入れられてきたのは、それまでの私たちの現実の社会のあり方が、一定程度は閉鎖環境だったからだと私は思っています。

 

●さらに付け加えるなら、文字を読み、文字を覚え、文字(テキスト)で学び、文字で答える、という試験のあり方が、近代から現代までの「文字=紙文明」と非常に親和的だったという点も同時に指摘しておきたいです。

 

●歴史というのは本当に不思議なもので、

活版印刷による書物の大量生産

全国民を対象とした近代教育制度による識字率の向上

宗教改革(プロテスタント)による聖書(=文字の読解)中心主義

↑これらの現象が、まるで歩調を合わせるかのように同時に出現し、この300年あまりの時代を支配したことには、単なる偶然では片づけられない「時代の精神」のようなものを感じずにはいられません。

(そして、その時代が今ようやく終わろうとしている…というのが私の主張です)

 

●現在はPC・スマホの時代ですが、その本質はインターフェースであるということです。

つまりは、外部と自由に繋がる開放環境を可能にする道具だということです。

 

●私たちの社会の現実は、誰もが認めるように、すでに開放環境に完全に移行しています。

当然、(本来ならば)試験制度も、その現実(=開放環境)に適応する形で変わっていなければならなかったはずですが、実際にはそうはなりませんでした。

 

●たとえば、外部と自由に繋がる開放環境下で試験を行えば、生徒は単に情報を検索するだけに留まらず、親や家庭教師とダイレクトに「繋がって」しまうかもしれません。

そうなれば、試験の平等性・公平性が維持できません。

このような問題(制約)が、試験を開放環境に繋げることを妨げてきたのだと思います。

 

●しかし、これからの時代は、そのような問題(=制約)を心配する必要はなくなるはずです。

なぜなら、誰もがAIと繋がる(AIを使う)ことができる時代になるからです。

 

●これからの時代は、いつでも誰でもAIと繋がる・AIを使える時代です。

それが、これからの社会の現実です。

社会の現実がそのように変わったとき、試験制度はどう変わるでしょうか。

 

●行き先は2つしかありません。

①閉鎖環境が維持される

②AIと繋がることが認められる

 

閉鎖環境が維持された場合(①)、試験は社会の現実から遠く離れ、結果、誰の目から見ても有用性を失ったものと映るようになるでしょう。やがて自然消滅するはずです。

一方、AIと繋がる道を選んだ場合(②)、これなら社会の現実と離れることはありませんが、私には②もあまり上手くいくようには思えません。

 

●試験とは、「問い」の存在を前提に、その問い対して「答え」る制度のことです。

この「問い⇒答え」のパッケージこそが試験の本質です。

 

●本ブログでしつこいほど確認してきたのは、一言でいえば↑この一点だったと思います。

 

●このような「問い⇒答え」の形をした仕事は、これまではほぼ人間の仕事でした。

しかし、これから先は、「問い⇒答え」の形をした仕事という仕事は、すべてAIが代替すべき仕事となるはずです。

 

「問い ⇒ 答え」の構造は、試験という存在の本質です。

そしてその構造は、電卓の本質であると同時に、AIの本質でもあるからです。

 

●電卓に「2+3」という「問い」を打ち込み、⇒「5」という「答え」を得ることは、chatGPTに質問して回答を得ることと本質的に異なるところは何もありません。

単に「2+3」や「5」の部分が、(どんな試験にも耐えうる程度に)複雑になるだけです。

言いかえると、できる仕事の範囲が、「計算という問い⇒答え」から、「あらゆる問い⇒答え」に拡張するだけです。

 

電卓の登場によって、人類は「計算という問い⇒答え」から解放されることになりました。

同様に、AIによって、人類は「あらゆる問い⇒答え」から解放されることになるでしょう。

 

●今回の一連のスレッドを裏側から一言でまとめるなら、ようするに、人が何をもって人を優秀と見做すかというときのその「優秀」の基準は、時代によって変化する、ということに尽きます(そして技術こそが、その「基準」の変化の仕掛け人であるということです)。

 

「優秀とは何か?」という問いに、時代を通じて変わらない普遍的な答えなどありません。

何が「優秀」とされるかは、常にその時代の「必要」との関係で決まるものでしかありません。

 

ある時代に「優秀」とされた能力が、次の時代に不要となることは(人類の歴史をみる限り)ほとんど宿命的で必然的な成り行きです。

 

●「閉鎖空間に閉じ込められた状態で、紙に書かれた問題群を相手に、制限時間内に解答する」という現代を生きる私たちにとって馴染み深い「優秀」のあり方もまた、いずれ賞味期限切れになることは必定といえます。

 

●そして、その「いずれ」は、すでに「すでに起こった未来」になっていると私は考えます。

 

●現時点で確実に言えることは、次の時代の「優秀」は、記憶力でも文章力でも「問い⇒答え」を導く能力(=解答能力)でもないということです。試験によって測定される解答能力もまた、一定の時代的制約の中で必要とされた、暫定的かつ過渡的な能力(の一つ)に過ぎません

 

試験の解答能力とは、この世界のどこかに既に存在している「問い⇒答え」のセットを、閉鎖環境下で、正確かつ迅速に導き出す(想起するor組み立てる)能力のことです。

 

「この世界のどこかに既に存在している」というところが重要です。

つまりは「既製品」です。こんなものは、本来は人類に「あって当然」だったものです。

すなわち、本来ならば、何の労力も要することなく瞬時に取り出せて当然だったものです。

 

●こんな「既製品」を作る能力(=解答能力)を、これまで人類が切実に必要としてきたのは、既存の「問い⇒答え」のセットを、瞬時に目の前に取り出してくる技術(方法)が、21世紀の初頭まで(たまたま、不幸にも)なかったからにすぎません。

 

●つまりは、人類の技術進歩の著しい遅れゆえに、ほんの一時、私たちに「知の停滞」が生じてしまっていたからにすぎません。

 

●このように、技術(technology)というものの本質を、人類に僥倖(思わぬ幸運)を齎すものとしてではなく、「あるほうが当たり前のもの」として、つまりは医術や芸術(art)と同様の、人類が本来的に有していた可能性・全体性を回復させるための営みとして捉えなおす視点が、これから一層重要になると私は考えています。

 

●今後は、この世界で「問い⇒答え」の形をしたあらゆる事柄が人間の仕事ではなくなります

「7051591×603」を、電卓を使わずに手計算する人はいないでしょう。それと同じです。

 

●これから先の人間の仕事は、電卓の外から電卓を「使う」ことです。

もう電卓の中身を「知る」必要はありませんし、自分の手で「計算する」必要もありません

 

●AI時代に人間が担うべき知的な仕事があるとすれば、すでに一部で唱えられ始めていますが、それは問いを作る(ex.質問をする)という仕事でしょう。

実際、chatGPTでも、質問が下手で使いこなせていない人が大勢いるようです。

 

●この「問いを作る」という方向での教育(≠試験)には、依然として大きな意義(必要性)があると思います。

 

●もちろん、「問い」or「答え」がなければ、人間の出番は依然としてあるでしょう。

AIは「問い」がなければ何も始められないですし、「答え」がないならなおさらです。

 

●ただ、こと試験(として成立しうるか否か)に限っていうなら、「問いが与えられない試験」あるいは「答えが存在しない試験」というのは、どう考えてもあり得ないとしか思えません。

それはほとんど語義矛盾であり、制度として存在しえないもののように私には思えます。


●まとめ。

AIの本質は、試験(問い⇒答え)の構造そのものである。

AIの進化とともに、試験すなわち「問い⇒答え」の構造は、これまでの人類の進歩(ex.電卓)と同様、そう遠くない未来に特定の端末の中に押し込められる(=無化される)運命にある

 

これが私の(あくまでも現時点での)答えです。

 

 

 

 

以上です。

ここまで読んでくれた方に感謝します。

 

(2023.12.30)