【冒頭サンプル】7744 | つうしんたいきちゅう

つうしんたいきちゅう

ポケモンの小説やゲーム状況や何かの感想など

何か言いたげな顔が、僕の方から逸らされる。
 言いたいことがあればいいじゃないかという思いと、『言いたいこと』であろう内容の予想に対する苛立ちと、そう思う癖に己とて何も言わない自身への怒りが、頭の中でない交ぜになった。
「そういうんじゃなくてさぁ」
 二メートルほど挟んで隣に座った相手は溜息混じりに言う。俯いたその顔から読み取れる表情は無かったけれど、声から滲み出る諦観に大体の察しがついた。僕の方は感情を隠すには既に遅く、目の前にある黒の箱に、憮然とした顔が映り込んでいた。
 僕たちのために貸し切られた練習室。数十分前までは多彩な音を響かせていた二台のピアノは、気まずい空気を感じ取ったように黙ったままだ。ずらりと並んだ白と黒の鍵盤を見ていると、先程血が上ったせいでぼんやりとしている頭がくらくらした。そこから視線を外してみるも、もう一台の前に座るその人はこちらを見ていない。
 他の部屋よりも音を遮る壁の向こうから、賑やかな喋り声が聞こえてくる。人とポケモンとが入り混じった足音、羽音、騒音、いくらかの轟音。ピアノの音が止み、廊下から聞こえるそれらに耳を傾けるしかない。これ以上こうしていても時間の無駄だと思った。
 さっきの台詞以降未だ何も言わない相手にも、罵声も謝罪も口に出来ない自分にも、いい加減嫌気が差してくる。ついでに、僕の方を見る気も無さそうな、この人の態度にも。
 一度は収まったはずの怒りが頭に上る。それが完全に形を取ってしまうよりも前に、僕は諦めにも近い言葉を吐き捨てた。
「じゃあ、もういいですよ」
「巡く、……」
 ギシ、という音を立てて椅子から立ち上がった僕の名が呼ばれたが、それは途中で遮られた。同時にその意味するところ、僕を引き留める気は相手に無いということを、頭が勝手に理解する。苛立ちに任せて噛み締めた口内に弱い痛みを覚えた。
 雑な動きで荷物をまとめ、僕は狭い部屋のドアノブに手をかける。出て行こうとしているのが明確になっても尚、何も言ってくれない相手への憤りは強まる一方だった。
「……鍵、よろしくお願いしますね。芦田さん」
 わざとらしく付け加えた僕に、相手がどんな顔をしたかはもう見えない。振り返る気など少しも起きなくて、僕は部屋の中に彼を取り残したまま、冷えた廊下へと飛び出した。


 ◆


 芦田さん――芦田樂という名前の彼は、タマムシ大学一回生である僕の一つ上の学年に籍を置く先輩だ。一浪しているから年齢的には二つ上になるのだけれど、実年齢よりもずっと、良く言えば大人びて、悪く言えば老けて見えるために一部友人からは『しんかのきせき』などと揶揄されていたらしい。僕の方からは肯定も否定も慎んでおこうと思う。
 僕は先輩と同じ音楽サークルに所属していて、出会ったのは新入生勧誘の騒ぎの中だった。あわや群れバトルとも呼べるだろう勧誘の嵐。押し付けられたチラシの数はもはやカウントするのも馬鹿らしくなっていたのも、カイリキーとガノメデスがビラ配りに重宝されていたのも、そこに現れたモンジャラの圧倒的戦力も、今思えば懐かしい。しかし当時の自分は大学に溢れる人波に揉まれ、ひんし状態に陥っていた。元より僕はからにこもるタイプなのだ、絶えず会話をしなければならない状況はあまりにもキツすぎた。
 押し寄せるサークル勧誘員と、溢れ返る新入生のたいりょうはっせいに、僕はとうとう音を上げてしまった。心なしか具合も悪くなってきて、勧誘バトルが行われている広場から少し離れた所にあるベンチに座って休むことにしたのである。近くに腰掛けている男子生徒とケッキングの煙草の煙に咳き込みつつも、やっと訪れた平穏に僕はほっと一息つく。
「君は、新入生?」
 と、そんな僕に声を掛ける者がいた。その人がどんな感じかを確認するよりも前に、僕の目は一早く彼の手にあるチラシに向く。来たか、と身構えた僕は精神的ひかりのかべを張った。
「……バトサーならもううんざりなんですけど」
「違う違う! そんな怖い顔しないでよ、まあ気持ちはわかるけど……うん、確かにこれは疲れちゃうよね。去年は俺も大変だったよ」
 本当、ちょっとは制限とか設ければいいのに。困ったように笑いながらそう言った彼、恐らくどこかのサークル勧誘員なのであろう男子生徒は僕の隣に腰を下ろす。なんだ馴れ馴れしい人だな、と僕は思ったけれども口にするわけにもいかない。
 心外ながらも黙る僕に、その生徒は世間話など始めている。去年の新歓もすごかっただとか、どこのサークルが過激だとか。あのサークルの歓迎コンパは触法ギリギリで校内でも噂だとか。元気な時ならば聞きたい話題ではあったけれど、疲れ切った僕は適当に受け流す。
「……でさ、君。楽器とか、っていうかピアノ弾けたり、しないよね?」
 半分ほど聞いていなかった会話の途中、男子生徒はおもむろにそんな質問をした。いや、僕が聞き逃しているだけでちゃんと話は繋がっていたのだろうけれど、ともかく僕にとっては唐突な問いだった。
 いきなり話を振られて、僕はやっとまともに彼を見た。にこにこと和やかな、人好きのする表情。優しげな目と視線が合って、それに何故だか安堵を覚えてしまった僕の口は勝手に動いていた。
「弾けますよ」
「なんて、急に何聞いてるんだって感じだよね、あっでもうちは初心者も大歓迎だから楽器に興味あったら……え?」
「いや、受験期に教室やめちゃいましたし、趣味の範疇ですけど」
 そう付け足した僕に向けられた、男子生徒--先輩の笑顔は、さぞかし嬉しそうだった。


「…………傘持ってないな」
 一刻も早くあの練習室から逃げたくて駆け足で廊下を抜けると、窓の外に降る雨が見えた。ただでさえ苛立っているのに不運の連続だ、軽く泣きたいような気持ちになりながら僕は財布の中身を確認する。決して潤沢とは言えない経済事情、しかし購買でビニール傘を買うことくらいは許されそうだった。
 中庭に姿を現し始めたニョロモやニョロゾたちから背を向けて、僕は再び歩き出す。ポンという音が聞こえたと思うと、僕の隣でマグマラシこちらを見上げていた。
「帰ろう、こんごーちゃん」
 勝手にボールから出てきて僕を睨むマグマラシ、コンゴウに僕はムニャムニャと言う。この時間に僕が廊下を歩いているはずはないと彼女は知っている、何があったのかと言いたげに紅い炎が揺れた。それが気まずくて、なるべく見ないようにしながら足を進めた。
 もう今日は家に帰ろうと思った。夜まで練習に当てる予定だったから、どうせ授業は入っていない。部室に行って他のサークル員と他の曲、つまりは先輩との連弾以外の練習をするという選択肢もあるにはあるが、今はそれも気が乗らなかった。ピアノを見たくないとか大袈裟な理由じゃなくて、単純に先輩と顔を合わせてしまう可能性を出来るだけ避けておきたかった。
 雨が地面を打つ音が廊下に響く。天気予報はそんなことを言っていなかったはずだ、一日晴れというお天気お姉さんの声を、僕は確かに聞いていた。となるとにわか雨なのだろう、ちょっと待てば晴れるかもしれない。が、それを待つのも嫌だった。
 心配そうな顔のコンゴウに、取り繕ったような笑顔を向ける。勿論それで納得してくれはしなかったが、彼女は何も言わないで僕についてきてくれた。申し訳なさに胸が痛む。
「あれ、守屋?」
 自分を呼ぶ声に振り向いてしまった。間が悪いというのはこのことだろう、サークルでベースをやっている同級生が、デスマスを足元に漂わせながら首を傾げていた。
「どうしたの、今日は連弾で練習室貸し切ってたじゃん。帰んの?」
 素朴な疑問に、僕は答えられない。ここで素早く、それこそ先輩みたいに「お茶を買いに」などと自然に誤魔化せれば良いのだろうが、そんなスキルは持ち合わせていないのだ。俯いた僕に、ベーシストは顔色を変える。
「……もしかして、何かあった?」
 いつものんきなのに、変なところで鋭い奴だとどこか冷静な自分がそんなことを考えた。唇を噛んで黙り込むと、彼はオロオロとした口調で続けた。
「なんでよりによって……守屋と芦田さん、今までそんなこと無かったじゃん。絶対、ケンカなんかしないって俺もみんなも……」
「……ケンカじゃ無いし」
 言い訳じみた僕の返事に、同級生の顔は困惑の色を強くする。「でも、どう見ても」と不安そうな声が言う。
 僕と先輩が知り合ってから半年ほど。彼の言う通り、確かに僕たちの間で揉め事というものが起きたことは一度も無かった。淡白な関係というわけでも無く、むしろ仲が良いと言えると思う。入部して二週間、いきなり出させられた学内のライブでピアノの二重奏をしてから、僕は先輩と何度か本番を迎えてきた。
 それで、今回も。開催まで一ヶ月を切った学祭で、僕たちは演奏する予定なのだ。今日の練習室もそのために貸し切っていて、わずか数十分前までは順調に進んでいたの、だけど。
「……何があったの?」
 主の不安を代弁するように、泣き濡れたデスマスの瞳が僕を射抜く。それでも尚、僕は無言を突き通した。先輩と揉めたということを否定するのはもう無理そうだしそのための話術も持ち合わせていないけど、その理由を言うことは避けたかった。
 理由と呼べるレベルでも無い。些細な言葉が発端になって、険悪な雰囲気まで進化しただけなのだ。本当にくだらない、取るに足らない事の起こり。もしも言ったら呆れられることは確実だし、僕と、それから先輩の名誉のためにも口を噤んでおきたかった。
 黙ったままの僕に、ベーシストはデスマスと顔を見合わせる。学祭までにはどうにかしなよ、という彼の言葉に頷けるほど、僕は器用では無い。視線を彷徨わせる僕に、彼は「明日は俺たちと練習だったよね?」と話題を変える。そちらの問いかけには頷いた。
「あえてみんなに言う気は無いけどさ……早いとこ、どうにかしなよ」
 ベースを抱え直した同級生とデスマスが、そう言い残して去っていく。気の利いた返しの一つも思いつかないまま、彼らの姿は廊下の曲がり角の先に消えていた。
 冷たい床でじっと待っていてくれたコンゴウをボールに戻す。ボールを鞄にしまいざま確認した携帯には、メールも電話も来ていなかった。何か待っていたわけではない。けど。
 すぐに携帯をしまって、購買へと向かう足を再び動かす。窓の外から聞こえてくる雨の音は、さっきよりもさらに強まっているように思えた。


 翌日、翌々日と先輩はサークルに現れなかった。もっともそれは僕を避けているとかいう理由じゃなくて、バイトや他の人たちとの合わせがあるからといった自然なものだ。学年も学部も違う相手、授業で顔を突き合わせるということも無いままに、時間だけが過ぎていく。
 メールなどの音沙汰も無かった。あんな別れ方をして、何と言えば良いのか迷っているのだろうか。何を言っても僕が怒るだろうと行動を渋っているのか。或いは、先輩の方もまだ僕を許すつもりは無いということか。どの可能性も考えられたし、恐らくどれも正解なのだと思う。そしてそれは、僕も同じだ。
 先輩と気まずくなってから五日経った今日、どちらもアクションを起こさず、あっという間に夕方である。サークルに行くには行けるのだが、今日は誰かとの練習は入っていない。となると別の部員が練習するわけで、部室や楽器は空けた方が良いように思われた。
 今度はちゃんと家から持ってきた傘で、僕は帰り道を歩く。雨に濡らしてはいけないからコンゴウはボールの中だ。ずっと降っているというわけでは無いけれど、五日前から晴れ間はほとんど見えない。じっとりとした冷たい雨は、秋空を覆う雲から度々落とされていた。
「寒いなぁ……」
 バス停から歩くこと十五分ほど、辿り着いた自宅の前でそう呟く。傘を閉じて雨粒を払っていると、ボールから飛び出したコンゴウが小さく鳴いた。濡れた手で頭を撫でる、彼女に宿った炎が僕の上着の袖を乾かした。
 ぽたり、と僕の前髪から水滴が垂れる。先輩は今頃違う誰かと演奏しているのだろうか、それともバイト中だろうか。どちらにしても僕には関係無いし、先輩が何を考えているかもまた然り、だ。頭に浮かんだ湿っぽい考えと雨を振り払うようにして、僕は乱雑に前髪を弾いた。
 くそ、と心の中で一人毒づく。なんで僕がこんなことを考えないといけないんだ、などと勝手な思いが生まれるが、誰に伝えるものでも無い。いくら文句を脳内で言ったところで、先輩にメールを打つ踏ん切りがつくほど僕は簡単に出来ていないようだった。
 渦巻く思いを強引に打ち切って、ポケットから鍵を取り出す。温かいものでも飲んで休もう、と考えながら鍵穴に差し込んでぐるりと回す。
 一回転した鍵を引っこ抜き、ドアノブを捻った、時だった。


「…………へ?」


 僕の口から、ほぼ吐息とも言える声が漏れた。
 無理もないと思う。何度も捻ったドアノブの先にあったのは、見慣れた我が家の玄関では無くて、僕の全く知らない異界の光景だったのだから。
 それだけでは無い。僕は確かに外から中へと入ったはずなのに、その『異界』はどう見ても室内だとは思えなかった。
 未だ僕の後ろでは雨が降り続いているけれど、眼前に広がる空間には明るい陽が射し込んでいた。そよそよと吹く優しい風に揺れるのは淡い緑の草原と木々に繁る若葉、色とりどりの花。姿こそ見えないが、ひこうポケモンのさえずり声が小さく聞こえてくる。
 おかしい。本能的な不安が、ぞわりと背中を這い上がっていった。
 こんな事態は明らかに異常だ、現実的に考えてツッコミどころしか無い。家のドアを開けたら見知らぬ森に通じていましただなんて、物語の中でしか許されないだろう。いつだったか、中学だか高校だかで読まされたシンオウの神話に空間を司るポケモンなどがいた気がするけれども、それがよもや僕の家に現れるはずもない。
 あまりに唐突かつ不可解過ぎる現状に、僕の両腕が粟立った。コンゴウは興味深げにきょろきょろしているけれど、ここは見なかったことにして立ち去るのが正解だろう。エリートトレーナー危うきに近寄らず、理解不能な出来事からはとりあえず逃げるのが一番だ。そう思った僕は「一回出よう」とコンゴウに声をかけて、元来た方向へと振り返る。
「って、……え!?」
 しかし理解不能は終わっていなかった。なんと、恐ろしいことに、僕の入ってきたドアが消え始めていたのだ。森の中にぽっかりと空いた長方形、雨が降る住宅街に続くはずの入り口はその輪郭を瞬く間に狭め、やがてすっかり無くなってしまった。後に残されたのは呆然と立ち竦む僕と、いまいち状況を理解していないコンゴウと、謎に満ちた森だけである。とうとう声も出せなくなった僕の肩から、リュックの紐がずり落ちた。
 どうしよう、と全身の血が冷えていく。どうやらチルットのものと思われる可愛らしい鳴き声が風に乗ってきて、森は柔らかな空気を静かに揺らしていたけれど、その和やかさすらも今は恐怖の原因でしか無かった。見渡す限り広がる森。帰り道が消えてしまった今、僕に出来ることなんて何も無かった。
 リュックの中に入っているのは、ノートと筆記用具と半分ほど中身の残ったペットボトル、そして楽譜。携帯をポケットから取り出してみたものの、画面左上には『圏外』という無慈悲な文字列が表示されていた。ここから脱出出来そうな見込みはどこにも見当たらず、僕は地面にぺたりと座り込む。どうか夢であってくれと願ってみるも、ズボンと靴下の間の皮膚をくすぐる草の感触は鮮明だ。まだ危機感を持っていないのであろう、僕を心配するに寄り添ってきてくれたコンゴウだけが救いだった。
 それでも、頭を駆け巡る困惑は強まる一方である。ここは一体どこなのか、僕はこれからどうなってしまうのか。考えてもどうすることも出来なくて、でも考えることすらやめたら本当に終わりだとも思った。頬を撫でるそよ風が、まるで吹雪のように感じられる。
 しかしここで途方に暮れていても仕方無い。森の中を探し回れば、帰る手がかりが見つかるかもしれない。野生ポケモンがいるみたいだから全くの異世界というわけでも無いだろう、と、力の抜けた脚をどうにか動かして立ち上がる。

「巡君」

 そして、立ち上がりかけた僕は、本日何度目かの驚愕に見舞われた。
 聞こえた声は間違い無く彼のものだ。だけどどうしてここにいるのか、それを説明してくれる者は僕の頭に存在していない。もう考える材料すら無くて、僕は鉛のように重くなった気がする首をギギギと動かして声の方向を見た。
「どうしたの、そんな顔して」
 穏やかな語り口、人好きのする微笑。僕の目がおかしくなっていないとすれば、そこに立っていたのは確かに樂先輩だった。
 何と返して良いかわからず口をパクパクさせて中途半端に腰を浮かせた僕を、先輩は首を傾げて眺めていた。実年齢以上に見える落ち着きも、僕より少しばかり高い長身も、ついでに言うなら服装も、樂先輩であることに間違いは無かった。なんでここに、と尋ねたいのはやまやまだけど、驚きの連続で真っ白になった頭は上手く働いてくれない。先輩を見慣れているコンゴウだけが、ぼくを余所に嬉しそうだった。
 何してるの、と言いながら、未だ立ち上がれない僕へと先輩は手を差し出してくる。それに反射で掴まりそうになって、しかしギリギリのところで引っ込めた。
 単純に、これが本当に先輩なのか確証が持てなかったというのもある。だけどそれ以上に、大人気無い理由と言えばそうなのだけど、気まずくなっている最中の相手の手を取る気にはなれなかった。仮に本物の先輩だとしたら、僕と違って普通に笑っているのも気に食わない。下ろした手を再び上げる代わりに、僕はもごもごと問いかける。
「…………先輩」
「ん? 何?」
「……先輩、ですよね?」
 言いながら、当然だろうと思った。先輩の見た目をしている以上は本物にしろ違うにしろ、イエスと答えられるに違いない。本物だったらそれまでだし、偽物ならば僕を騙すために先輩の姿になっているのだろうから、違うと言う理由なんてどこにも無いのだ。
 だが、先輩(仮)の返答は予想外のものだった。尋ねた僕を見下ろした彼は、真面目な顔で「うーん」と考え込む。
「そうだと言えばそうだし、そうじゃないと言えばそうじゃないし……」
「は?」
 曖昧な答えに思わず尋ね返した僕に、彼が「巡君は」と話し出す。
「きっと、この世界のことを信じられない、嘘みたいだと感じているはずだ。夢か何かなんじゃないかと思っているかもしれないね。こんなところにいるだなんてあり得ない、これは多分現実じゃない……そう、思ってるんじゃないかな?」
「それは、まあ……」
「でもさ。夢なら夢で、それでいいとは思わない? これは君が見ている夢で、この森も空も草もここにいるポケモンも、何もかもが非現実。目が醒めれば君は日常に帰っていつも通りに過ごすだけ、ここのことは何も関係無い」
 ぺらぺらと流暢に話す彼はなるほど先輩らしかったが、言っていることの展開が早すぎる。ちょっとついていけていない頭を懸命に働かせる僕と視線を合わせ、彼はくすりと笑ってみせた。
「だから、ね。巡君。現実の俺と君がどんな状況にあったところで……何も気にすることだって、無いんだよ」
 囁くように言われたその言葉を耳にした瞬間、ふっと視界が揺らいだような気がした。軽い目眩を覚えてふらついた僕に再び手が伸ばされていて、気がついた時には、僕はそれに自分の手を預けていた。
 大丈夫、すぐに戻れるから。聞き慣れた声がそんなことを言う。現実離れした世界の癖に五感はやはり鮮明で、掴んだ手の温度はやけに生々しい。「俺がついてるから心配すること無いよ」などとのたまう彼に、先輩はそんなこと言わないんじゃないかという思いと、普段の感じからしてもしかしたら言うかもしれないという思いが交錯して、結局僕は、いつの間にか頷いていた。
「良かった。実はね、君にお願いがあるんだよ」
 満足そうに笑った彼がそんなことを言う。まだ不信感が拭いきれたわけではない、唐突な申し出に僕は胡乱な目を向けた。それに苦笑して、彼は続ける。
「頼みっていうのは……俺、君とやりたいことがあるんだよ」
「…………?」
 穏やかな彼の声が、これまた穏やかな風に流れていく。見渡す限りあるのは木々や草花ばかり、姿は見えないけれども野生ポケモンが何種類か。こんなところで何をしようと言うのだろうか、ポケモンを捕まえるくらいしか思いつかない。厳選の手伝いならば高校時代に友人にやらされて以来、二度とやるものかと決意しているのだけど。
 疑問を沈黙に代えた僕を、彼の瞳が眼鏡越しに捉える。くすり、と口許を歪ませた彼は「見ればわかるよ」と軽い調子で言った。思わせぶりなその口調に僕はムッとする。変なところに来てしまったという焦りも相まって、不満気な台詞を彼に向けてしまった。
「何ですか、こっちはあなたのことすらロクにわかんないんですよ。これ以上意味不明なこと言うなら僕帰り――」
「まあまあ、落ち着いてよ」
 巡君、と、僕を諌めるように彼が言う。見ればわかるからさ、とも。
 その言葉が言い終わるか、言い終わらないかの時だった。
「……っ!?」
 声にならなかった僕の驚き、鋭く息を飲む音がした。それまで黙って会話を聞いていたコンゴウが全身の炎を荒立てて、威嚇と怯えが混じったような声で鳴く。ぼうっ、と燃え盛った赤い炎が暖かい空気を揺らした。
 止まるんじゃないかと不安になるくらいの激しさで跳ねた心臓が、その勢いのままで脈打ち出した。あまりの驚きで腰を抜かすことすら叶わない、硬直した四肢は何も出来ずに震えていて、遠くから聞こえるチルットの囀りがひたすら場違いだった。
「ね、わかったでしょ?」
 彼が呑気に言う。わかった、けど、わからない。とりあえず彼の問いに答えようとしたけれど、乾いた口はぱくぱくと無意味に動くだけでまともに働いてくれなかった。
 僕たちの目の前にあるのは二台のグランドピアノだ。僕の覚え違いで無ければあの練習室にあるのと同じメーカー製である黒い箱たちは、そよそよと揺れる草の上にどっしりと並んでいる。二つの楽器、僕と先輩の関係性。何をするのか、彼の『やりたいこと』が何なのかは大方の想像がついた。
 それでもわからない、というのにはれっきとした理由がある。
 周囲の景色を反射するくらいの光沢を持ったこのピアノたち、勿論だけど最初からここにあったわけではない。なら何故あるのか、それが問題なのだ。
 突然現れたとしか言いようの無い、説明出来ない登場。彼の指が少しだけ虚空を撫でるのに合わせて、二台の楽器は何も無い空間から瞬時に生まれたのだ。
 少しの音も立てず、きらきらした光の粒子を僅かに纏って。
「なに、巡君驚いてるの?」
 そりゃあ当たり前ですよ、と言おうとしたけれどやはり声は出なかった。僕の代わりに答えてくれたのはコンゴウで、唸るような鳴き声で以て彼を見上げる。それに頷いた彼は、「ま、気持ちはわかるけどさぁ」と大袈裟に肩を竦めた。
「そんなこと言ったら、この世界に君がいるのも、俺がいるのもおかしいままでしょ? 所詮不思議な世界の中、何が起こったっていいじゃない」
「それは、まあ……」
 そうですけど、と続けようとした僕の声は溜息に変わる。反論しようとしてるわけでは無いと思ったのだろう、彼が「じゃ、用意も済んだし」と切り出した。落ち着いてきたらしいコンゴウの炎が小さくなる。
「本題に入ろうか。俺のお願いを聞いてくれるかどうかなんだけど……どう?」
「……そりゃあ内容次第ですが」
「内容次第、……まったく、君らしいねぇ」
 先輩なのかどうか不明の、もしかしたら見知らぬ誰かかもしれない彼にそんなことを言われると変な気分になった。黙る僕にまたしても苦笑して、じゃあ勿体ぶらないで言うことにするよ、と彼がピアノの方を見る。
「巡君」
「…………」
「俺と、連弾してくれないかな」

 今彼が言った言葉を、僕は知っている。
 だってその言葉は、

「…………はぁ」
 気の抜けた返事が僕の口から漏れる。どちらかと言えば肯定と受け取れるそれに、彼の顔がぱっと明るくなった。やった、とにこにこと嬉しそうに笑う彼は早くも片方のピアノの方へ移動している。いきなり出現したグランドピアノにはご丁寧なことに椅子もちゃんと揃っていて、見慣れたそれに彼が腰掛けた。
 隣に置かれたもう片方のピアノを、彼が視線と表情で指す。君も早く準備しなよと促すような雰囲気のままに、僕は彼が座っているのと同じ形の椅子に腰を下ろした。目の前にずらりと並ぶ白黒の鍵盤、じっと見ていると目がチカチカしてくる。そのせいで思考がぼやけてしまい、先程浮かびかけたいつかの記憶は再生をストップした。代わりに生まれたのは一種の安堵で、お願いとやらが存外普通の内容で良かったというものだった。
「それで、何を弾くんですか?」
 尋ねる僕の足下、ペダルの傍にコンゴウが蹲る。椅子の高さを調整する彼から告げられた曲名は、学祭でお披露目する予定のもの、つまりは先日先輩と練習していた曲だった。
「…………それは」
「うん。この頃、合わせていないからさ。そろそろ練習しないと駄目だし、それに……俺の方も、寂しかったからね」
 思わず口籠った僕に彼は言う。この頃合わせていない、という言葉に、まさか彼はやっぱり本当の先輩なのでは無いかと思いかけたがすぐに否定した。そんなはずは無い。本物の先輩だったら、優しい先輩だったなら、こんなことが出来るわけ無いだろう。
 二人分の曲を一人で練習し続けるのもねえ、と彼が言う。そうだ、この人は先輩じゃない。それなら僕が今この人と何をしようが先輩に関係無いのだ。そう自分に言い聞かせて、「わかりました」と答える。
じゃあ決まりだね、合図は俺からで良かったんだっけ? との言葉に頷くと、彼の顔がピアノに向き直った。いくよ、という声に指を鍵盤に乗せる。つい先ほど現れたこの楽器は、少しばかりひんやりとしていた。間もなく出された彼の合図に手を動かす。何度か合わせた、軽快なメロディーが森の中に響き出した。

「!!」

 そして、僕は驚愕のあまり息を飲んだ。
 それでも演奏を止めなかったのは、我ながらよくやったと思う。曲が始まって数小節、たったそれだけでもはっきりわかった。必死に鍵盤を叩きながら、僕は思わず、横にいる彼を凝視する。僕の驚きなど知る由もない彼は、僕とは別のパートを弾いているはずだ。
 その、音。旋律も裏メロもリズムも細かな連符も、グリッサンドの一音に至るまで。
 散々聴いてきたそれは、そしてまだそれほどの時が経っているわけでも無いのに久方ぶりに思えるそれは、確かに、僕のよく知っている音だった。
 明るく、激しく、曲が進む。
 互いのパートを入れ替わり立ち替わり、うねるようにして流れていく曲の半分を担っている彼の音は、まさしく先輩のものだった。