さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正(三楽斎)家臣たちに関する備忘録
その6.小宮山弾正左衛門
~岩付追放後も資正に従った盟友~

※ 加増啓二氏の論文を読み、小宮山弾正左衛門のイメージが大幅に変わりました。それに合わせ加筆を施しました(2015年2月23日)。


・小宮山氏と岩付太田氏の関わりの初出は、永正十四年頃(1517年、資正誕生の5年前)の古河公方・足利政氏による太田資頼(資正の父)への書状。
足利政氏は、足立郡淵江郷(東京都足立区)において小宮山左衛門尉が違乱(勝手な支配)を行っていることを指摘し、小宮山氏の違乱が停止するよう太田資頼からも意見することを求めた。
この書状より、永正十四年の時点で、小宮山氏が岩付太田氏の家臣であり、足立郡淵江付近で、古河公方領を侵していたことが分かる。
(黒田基樹(2013)「総論 岩付太田氏の系譜と動向」、『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(岩田書院))

・長尾景虎(上杉謙信)の第1回越山の際に、資正とともに厩橋に参陣。長尾景虎のもとに参じた関東の武将の目録である『関東幕注文』(永禄四年)に、小宮山弾正左衛門は「岩付衆」の一人として記録されている。(資正、大石石見守に継ぐ三番目)

・永禄七年に資正が岩付城を追放された後はしばらく氏資に仕えた後、永禄八年には、太田下野守と共に資正の岩付城奪還に協力し、内応(ただし岩付城奪還は失敗)。以降、再び資正に従った模様。
(『長楽寺永禄日記』の岩付城奪回失敗を記録する以下の記述「太美シボヘ宿之近マテツメラル処ニ、談合之内一人クミカワリ相違之間、自半途被打返、下野守・小宮山其外談合衆モ無相違、栗橋ヘノケラレケル由」から)

【追記(2015年2月21日)】
・『新編武蔵国風土記稿』には、川口市大字長蔵新田の戸塚城に対して「天正年中、小宮山禅正介忠孝といえる人の塁跡にして」との記述あり。成田氏の家臣とする等、不可解な記述も見えるが、小宮山弾正左衛門と同一人物の可能性あり。

【追記②(2015年2月23日)】
加増啓二(1987)「武蔵小宮山氏の動向」(『戦国期東武藏の戦乱と信仰』(岩田書院))によると、小宮山弾正左衛門のの成田氏への帰属は、成田氏側の一次史料からも確認されるとのこと。
永禄八年の岩付城奪還戦の失敗後、資正は一時成田氏を頼っている。加増氏は小宮山弾正左衛門は、この時資正と別れ、成田氏に仕える道を選んだのではないか、と考察している。


【参考:戸塚城の位置】

戸塚城と小宮山弾正



<小宮山弾正左衛門イメージ>
少なくとも、資正の父・資頼時代からの家臣。

晴れの舞台である長尾景虎(上杉謙信)の厩橋陣への参陣において、当主資正、その姉婿・大石石見守に継ぐ第三位の人物として扱われていることから、岩付太田氏の家臣団の中でも序列上位の存在であったことが伺われる。

岩付を追放された後の資正が企てた岩付城奪還作戦(永禄八年)には、太田下野守とともに岩付城内からの内応を試みており、資正への忠誠心も高い。
太田下野守と双璧をなす、資正の忠臣だったと見なすことができる。
(もちろん、資正追放の後から、その企画者であった恒岡越後守や春日摂津守が氏資に重用されたことへの不満もあったのであろう。)

ただし、岩付城奪還策の失敗後は、資正とともに成田氏を頼って落ち延びた際、そのまま成田氏に仕える道を選んだ模様。
佐竹氏から資正に、片野城に客将として入らないかと誘いがあった際、小宮山弾正左衛門は、資正と別れたのであろう。
領地を捨てて己を支えた忠臣との離別に、資正は引き留め無かったのではないだろうか。

むしろ、忠臣との離別すら乗り越えて、片野入りを決断した資正は、その頃から、
・岩付領主・太田資正ではなく、
・反北条に生涯を費やす鬼将“三楽斎”に、
姿を変えたのではないだろうか。

資正と小宮山弾正左衛門の別れは、資正が三楽斎としての生き方を選んだ瞬間を描く場面となるのかもしれない。
(関連:資正が三楽斎になったのは何時か


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