さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正(三楽斎)の家臣たちに関する備忘録
その20.恒岡越後守
~資正の嫡男・氏資に殉じた知性派家臣~


・恒岡家は、岩付太田氏の譜代家臣。
(『太田家譜』の「太田譜代之士」に「経岡源四郎 井伊隼太末流」とある。恒岡氏のことだと考えられる

・永禄六年、太田資正の奉行人・恒岡資宗と佐枝信宗は、牛村助十郎に、井草郷の水損につき、政所免・堤免を工事費として堤防修築を命じる。
永禄六年十二月五日の恒岡資宗・佐枝信宗の奉行人奏書から)

太田資正の代には、奉行人として領国経営をサポートしていたことがわかる。
(恒岡越後守と恒岡資宗は別人ではないかと思われる節も無くはないが、ここでは井上恵一『後北条氏の武蔵支配と地域領主』に従い、同一人物と見なして進める)

・永禄七年には、春日摂津守とともに、太田資正の追放を資正嫡男の氏資に進言。
(『関八州古戦録』)

・永禄十年の三船山合戦で、恒岡越後守は、当主・氏資や多くの重臣達ととももに討死。
(『太田家譜』の「所詮敵二向テ討死セント供セシ広沢尾張守信秀 忠信嫡子・恒岡越前守・河目等ヲ先トシテ五十三騎三舟二至リ大ニ勇ヲ振テ戦ヒ(中略)五十三騎ノ勇士皆枕ヲナラベテ討死ス 」から)

「越後守」→「越前守」は誤記。
恒岡越後守の討死は、下の北条氏政書状からも確認できる。
僅か五十三騎で、負け戦の殿(しんがり)を務めたための全員討死。北条氏政による策謀との指摘する向きも(前島康彦『太田三楽論』など)。
この合戦で討死した太田氏資の重臣は、恒岡越後守、広沢尾張守河目越前守内田兵部丞等。

・永禄十年九月、北条氏政は、平林寺の泰翁宗安に書を送り、宗安の兄の恒岡越後守の討死を賞し、実子無きにより、恒岡の名跡の継承を宗安に伝える。
永禄十年九月十日の北条氏政書状より)

・永禄十年九月、泰翁宗安に足立郡原宿の代官職を命ずる。
永禄十年九月晦日の北条氏書状より)

足立郡原宿は上尾市原市。太田氏資以来の太田氏直轄地。

・永禄十年十二月、北条氏は、原宿の代官・恒岡越後代と百姓に検地書き出しを発し、年貢上納を命ずる。
永禄十年十二月二十三日の北条氏書状より)

・永禄十一年三月、北条氏は、恒岡安首座を比企郡野本鎌倉方の代官職に任命する。
永禄十一年三月二十七日の北条氏書状より)

恒岡安首座は、泰翁宗安のこと。
比企郡野本は、東松山市野本。

・永禄十一年六月、北条氏は、泰翁宗安に、私領の内の埼玉郡加倉十分の一と比企郡野本の代官職を安堵する。
永禄十一年六月二十三日の北条氏書状より)

・天正三年、北条氏は、下総国吉祥寺に、扶持給・香油銭等を岩付衆の佐枝氏・恒岡氏より受け取るよう報ずる。
天正三年十一月十九日の北条氏の書状より)

この天正三年の書状以降、泰翁宗安とは別の恒岡一族の者が、恒岡越後守の職分を継承した模様。
以降、北条氏の滅亡まで、恒岡氏が北条氏配下の岩付衆として働いたことを示す史料が残されている。
その後の恒岡越後守家


恒岡越後守のイメージ
太田資正の嫡男・氏資に仕え、殉じた譜代家臣。春日摂津守とともに、太田氏資に父・資正の追放を進言したことで知られる。

しかし、春日摂津守と恒岡越後守のイメージは大きく異なる。
資正追放の三年後、氏資とその重臣達が三船山合戦で全滅した時、春日摂津守は岩付城に残り生き延びる。春日摂津守はその後北条氏政から岩付城代に任命されており、一時的ながら岩付領の実権を握ることになる。
これにより、北条氏政は要地である岩付を北条氏直轄地とすることに成功し、春日摂津守は北条氏支配下の岩付で、その代理者として権勢を振るうことになった。
その結末から考えると、三船山合戦での太田氏資と重臣達の討死には、北条氏政と春日摂津守や策謀の匂いが漂う。また、そこから逆算すれば、三年前の春日摂津守の資正追放の進言そのものにも、自身が権力を手にすることを主目的とした謀(はかりごと)との疑いが生じる。

一方、恒岡越後守は、氏資とともに討死を遂げている。その死に様を考えれば、三年前の資正追放の進言も、岩付太田氏と氏資のことを思ってのものだったと思える。
傍証として、恒岡越後守は資正追放前から岩付太田氏の奉行人であり、資正追放前後で春日摂津守程の地位の変化があったわけではない。権力を求めての陰謀とするのは、考えにくいのではないか。

資正追放の進言の場面を空想する。
太田資正が北条氏との死闘を繰り広げた永禄四年から七年の三年間は、北条氏との融和を志向する氏資には、辛い時代だった。
父とは意見が合わず、そして恐らくは北条氏康の娘を妻としていることからの内通を懸念されて、対北条氏の戦場で氏資が活躍したとの記録はない。
対して次男・政景は、戦場で活躍し、また長尾景虎(上杉謙信)からも大いに気に入られていた。
資正が家督を継がせるのは次男政景にと思案し始めた。そんな噂も立ち始めていた。

氏資にとっては、針のむしろの日々だったことだろう。
行政官僚として岩付城に内勤していたであろう恒岡越後守は、氏資と接する時間も長かったに違いない。
頭脳明晰な恒岡越後守である。
今は華々しく奮戦しようとも、北条氏と岩付太田氏の実力差を考えれば、やがて岩付太田が圧されることは、読めていたのではないか。
そして、城内で冷遇されていた氏資に同情しつつ、いつかこの若者を主君に担ぎ、北条氏との融和による岩付太田氏安堵の一手を打たねば、と画策していたのではないだろうか。

腐る氏資に、恒岡越後守が資正追放クーデターの秘策を語ったのはいつだったか。
資正が起死回生の一戦である国府台合戦(永禄七年一月)に向けて岩付を出立した、永禄六年暮頃のことであったと想像してみたいところである。

恒岡越後守の弟は、臨済宗の大寺・平林寺の住持・泰翁宗安(安首座)であった。
一族から大寺の住持を出していることから、学問に明るく、頭脳を力とする家系であったことが伺われる。

頭脳明晰にして冷静沈着。
資正による華々しい対北条合戦に危うさを覚え、北条融和派の氏資を担ぎ出すことで状況を打開する“絵”を描いた知性派家臣。同時に、計算だけではなく、心から氏資に仕え、支えようとした忠心を持つ男でもあった。

そんなイメージが湧いてくる人物である。

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