さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正(三楽斎)家臣たちに関する備忘録
その10.平柳蔵人
~国府台合戦で散った平柳の老領主~

・平柳蔵人は、平柳領元郷村(現在の川口市元郷)の領主。
・岩付城主・太田資正の家臣。
・元郷氷川神社は、平柳蔵人の勧進により創建。
・元郷の正覚寺は、平柳蔵人が開基。
・永禄七年の国府台合戦(太田資正・里見義弘連合が北条氏康・氏政と戦った最後の総力戦、鴻之台合戦とも呼ばれる)で討死した。
(『新編武蔵風土記稿』より)

・平柳蔵人が国府台合戦で討死したことは、実相寺(川口市領家)過去帳の「永禄七甲子年正月八日鴻台一戦、千余人に及び討死、平柳蔵人、篠田雅楽介討死」の記述からも確認される。

・川口市元郷には、史跡「平柳蔵人居館跡」が残る。

・天文十六年(河越合戦の二年後)に、関東管領・山内上杉憲政が、家臣の三戸四郎に平柳蔵人佑の指南を認める書状を出している。
天文十六十二月十四日の山内上杉憲政書状より)

・平柳蔵人佑は、国府台合戦で討死した平柳蔵人と同一人物である可能性が指摘されている。
(『岩槻市史 古代中世資料編I 古文書史料(下)』より)


<平柳蔵人のイメージ>
領地(元郷)の寺社仏閣(元郷氷川神社・正覚寺)の創建者として名前が伝わっていることから、力のある領主だったことが伺われる。

以前ネットで国府台合戦で討死した際は老兵だったとの情報を目にし、「太田資正のこと」では、平柳蔵人を資正の遥か年配の老兵として描いたが、今回それを裏付ける史料は見つけられなかった。

しかし、関東管領・山内上杉憲政が関東に健在だった時代の書状に名前が現れることから、永禄七年の国府台合戦時点では年配側の参戦者であったことは間違いない。

国府台合戦で討死したのは、これが主君・太田資正が劣勢を挽回する最後の機会であったためか。

山内上杉氏が関東管領として君臨した時代を知る世代にとって、太田資正は山内上杉氏の家臣団の中で唯一、後北条氏とまともに戦えた武将(里見氏・佐竹氏等も北条氏と対立したが、山内上杉氏の直接の家臣ではない)。

山内上杉時代の最後の残り火となった資正。その資正が仕掛けた乾坤一擲の大勝負だった国府台合戦は、平柳蔵人にとっても、己の命を掛ける価値のある大戦(おおいくさ)だったのではないだろうか。

【加筆:もう一つの視点】
平柳蔵人の所領、元郷は、相模国や武蔵国南部から北関東・東北に向かう街道「奥大道」(後の日光御成街道、岩槻街道)が、荒川(戦国時代は入間川)と交差する渡河点である。

平柳蔵人居館の位置


太田資正の領国は、荒川(入間川)の南側にも広がっていたとは言え、その大半は川の北側。
元郷のあたりは、上杉謙信の越山以降激しさを増したはずの北条方江戸領との角逐の舞台であり、また資正にとっては“絶対防衛圏”のラインだったことであろう。

日々、江戸領側からの侵攻に悩まされていたであろう平柳蔵人にとって、当初江戸領の遠山綱景を当敵とした国府台合戦は、自領を守る上でも、重要な戦いだったのかもしれない。


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