http://chihayafuru-movie.com/sp/
映画 ちはやふる 上の句、下の句を見た。
面白かった。
最近の自分の心の動きに重なる部分が多くて共感出来た。多過ぎでぜんぶ書けるのか心配。ぜんぶ書く必要も能力もないが。
感動した。
マンガ、しかも少女マンガなので登場人物たちはエッジ効きすぎのエキセントリック。
爺ちゃんが亡くなったのでカルタ止めちゃう不可思議センチメンタル。、、、、とかは目をつぶるのが正解。
僕らは、勝負事に伴う心が動くヨロコビ、、ただそれだけのこと、、にココロを合わせて感動していけばいい。
映画のテーマはゆうなれば、FLASH。
ココロ寄せ合う、通じ合う。
FLASHをタイトルにしたパヒユウムによる主題歌もよい。
嫉妬や後悔や高慢やら反省やら…、勝負事に伴う二次的な感情など余計な「エモーション」と位置づけ、ココロがFLASHするそのヨロコビを「ただそれだけなの」と受け入れて構わないと映画はゆってる。
ヒトのアタマは余計にはたらきすぎてる。
それだけ、で済むところを余計に成長しすぎたおかげで「カルタがいちばん楽しかったころのことを」思い出せずにいる。
たとえば、スポーツはしつけや礼儀やら体力がつくやら友情を育てるやら、、、んなことあるところにはある。どーでもいい。
文科相がこしらえた学校教育の一環としての部活存在理由とスポーツをヒトが愛する理由が同じである必要など全くない。
スポーツはたのしい。
それだけでいいことをこの映画は伝えている。
たとえばFLASHの一例。
桜木がシュートカットしたボールをリョータがたまさかキャッチ。
リョータはミドルレーンをドリブル突破。流川は左サイドを走る。
しかし戻る山王。手詰まりに見えたリョータの目の端には右サイドを走る三井。
リョータ、ノールックパスを三井に送る。
とかゆう局面。
リョータと三井の間に通じたFLASH。
バスケやサッカーなどボール競技経験者ならわかると思う。
リョータと三井のFLASHの芽は、リョータがドリブルを仕掛けた時点から出ていたはずだ。
「いくぜ流川」とゆうリョータのセリフはディフェンスをだますための駆け引き。
なぜならリョータはドリブルを右手で始めている。リョータが最後は右サイドにパスを出すことに決めていた。左にパスを出すのに右手でドリブルを始めたらバスを出すのが一動作遅れる。
あそこは右方向へのパスをリョータが想定していたと思ってよい。
マンガの流れは一応、困ったリョータがパスの相手を右サイドの三井を見つけた、的なものとして描かれているが一瞥もせずにノールックパスが成り立つわけがないのだ。
リョータはたまさかリバウンドをゲットした次の瞬間に味方と敵の位置を把握していまはずでもちろん三井の位置も。
ここまで書いたようなリョータの思考の流れは神奈川ナンバーワンガードならずとも県大会レベルのガードなら最低限身につけている「習慣」だろう。
カルタで上の句が読まれる。すかさす下の句を想起するのも同じく習慣だ。
ボールを得る、上の句が読まれる、三井へのラストパスを想起する、下の句の位置に腕が伸びる。
それぞれの刹那、ココロに浮かぶのは繰り返しによる習慣動作。
習慣にまで積み上げるために彼らはどんだけドリルを繰り返したか。その動作をアタマ空っぽでも作動するような習慣を植えるためにどんだけ?
だからアタマん中には何にもない。
シュートを決めてやろう、自慢できる、札がとれてクイーンになれる、、、んな打算的な二次的な発想は雑念に過ぎない。
カラダが反応して動いてしまう行動に美しさを思うのはたんにそれが「それだけ」の純粋な行動だからだろう。
たとえば勝田マラソン40km地点で「自分がやりたかったことはこういうことなんだ」と実感するとき、その人がしていることは「ただそれだけなこと」じゃあなかっただろうか?
40kmでスピードを上げる。それに意味などない。正しいも間違いもない。
やはり、ただそれだけなのだ。