標高348m・比高30mの俣野の土居城(江府町俣野)は、城郭大系では俣野古陣屋として記載されている。
尾上原にある中世の方形館跡。「古陣屋」とも呼ぶ。巨大な土塁と空堀によって構築された方形館跡は、居館跡であると同時に、まさしく城構えである。その規模、遺構の残存度から見ても、県内最大級のものといわれている。幅広く、重厚な土塁が周囲を巡り、土塁内の面積は、約1930平方メートルの広さを持つ。
現在でも、縄張りの状況は明確に判断することができ、井戸の跡、小さいながらも畝状堀切も設けられており、防御を目的とした館跡であることを伺わせる。歴史的な背景を探るためにも、詳細な調査が望まれる第一級の城郭文化遺産である。
伝承では、日野山名氏に係わる館跡と言われる。明徳の乱(1391)後、山名師義は、伯耆国内を固めるため、国内の要衝に一族を配置した。『稲葉民談記』の「山名氏系図」によれば、二男氏幸を伯耆守護とし、長子義幸は日野郡、三男義煕は八橋、四男満幸は法勝寺に配置している。日野知行とされた山名義幸の知行所の位置について、『鳥取県史』は「日野郡での本拠は生山」としており、戦国期の『萩藩閥閣録』にも「日野郡生山城主山名義幸」の名が記されている。
しかし、『日本城郭全集』には「俣野の枝村尾上原の俣野古陣屋にはフジユキという人が居住していた。」と述べ、『伯耆誌』も「……土人の口碑に往古フジユキという人が居住していた」と述べている。
(※江府町の文化財探訪より)
北の道路から登ると、畑地となった北七郭~北五郭
こんな所まで開墾されている空堀
西二郭
西二郭の東土塁
主郭の虎口と、空堀に架かる土橋
主郭の西土塁
主郭から見た空堀
主郭
主郭の東土塁
主郭の南土塁
南土塁を乗り越え、下りると、帯曲輪状の南二郭
南二郭の西寄りには、瘤のような切れ切れの土塁が四ヶ所(写真は西から東の順)
そして南二郭の東寄りには五条の畝状堅堀群(写真は西から東の順)
南二郭の南東土塁
南二郭から東へ上がると、井戸曲輪
その東に堅堀
南東二郭
南三郭と南四郭
主郭の東土塁上の、最も幅の厚い部分…
曲輪と言っても良い程の広さがある
空堀の底のような東二郭
東二郭の東土塁
東三郭と東四郭
主郭の分厚い土塁の北東側に連なる帯曲輪状の北東二郭~北東六郭
北側へ回り込み、北二郭と北三郭
俣野の土居城遠望
軌跡ログ
見るべき遺構が至る所に散りばめられた居館跡である
日野郡江府町の城