標高170m・比高20mの亀山城(江府町佐川)
佐川亀山城は別名、小丸山城とも呼び、『伯耆志』は「村の東三丁許に在り。小丸山と呼ぶ。昔は亀山と云いて天文の頃、馬田源兵衛尉、同四郎五郎在城せしと云う」と述べている。
馬田源兵衛尉は亀山城在城時代に佐川神社へ社領二十五石寄進下記録(鳥取神社誌)も見られる。
佐川城の位置を『日野郡史』は、佐川集落付近の小字名「上屋敷」としている。現在の佐川集落の東にある独立の小丘がそれである。
(※江府町の文化財探訪より)
馬田氏については『伯耆志』に、元亀二年(1571)二月七日、毛利の支配下となった伯耆尾高城奪回のため山中鹿介らの尼子軍が 尾高城へ攻撃をかけた。その尼子軍のなかに「馬田入道慶篤と云う者あり。隠れなき驍勇なりけるか唯一騎馳出、杉原(盛重)の陣を物見して引取らんとす…」と記されている。ここに記されている馬田氏は佐川亀山城の馬田源兵衛尉の子孫友推定される。そうなると亀山城主の馬田源兵衛尉は尼子方の部将となり、永禄八年、尼子方の江美城落城以前に佐川亀山城に在城して居たことになる。
(※江府町誌より)
南から直登すると、堀切
堀切を西へ上がると、主郭東段
主郭中央付近の櫓台?
真ん中に窪みがあり、古墳のように見えなくもない
主郭西段
西二郭
西三郭
西三郭の北土塁
西三郭の南土塁
西四郭と西五郭
城域の南の帯曲輪状の南二郭
さらにその下にも帯曲輪状の南三郭
戻って堀切を東へ登ると、土塁状の東二郭
両脇に腰曲輪のある東三郭
そこから曲輪段が階段状に東へと登って行く
東四郭~東七郭
登り切った先は米子自動車道により、削り取られている…
佐川亀山城遠望
実地踏査を元に作成した概略図
軌跡ログ
日野郡江府町の城