標高275m・比高145mの松茸尾城(鳥取市用瀬町古用瀬家奥)は、古用瀬城の名で呼ばれる…
松茸尾城と号す山名の旧臣用瀬氏代々居城とせりと。応仁記山名宗全の軍勢、因幡武士の内、持瀬某とあるは、此家の先世にて、数代の家柄なる。
以上、因幡誌の記述のように、当城は国侍用瀬氏代々の城であった。用瀬備前入道の時、秀吉が来攻して、景石城に磯部兵部大輔が入るに及んで、戦戈を交え、ついに落城して磯部の持ち城となったが、磯部が山名豊国に攻められ追われた後は、安蔵の荒山城(安蔵城)主が一時この城も預かっていた。しかし再度の秀吉来攻によって田尻も退転した。その後はこの城は廃城となってしまった。
用瀬氏の名が歴史上に見られるのは、応仁元年(1468)てま、因伯大年表に次のように見られる。
「応仁元年、因州智頭郡古用瀬城主用瀬、山名宗全の軍に従い勇戦す。」
ついで天文九年(1540)には
「因州の武田山城守は、伯州橋津にて討死す。靡下南条行松・山森杢充・用瀬亜山田出雲守重直・蓑部等あり…」
とある。天文九年の戦いは、天文の役と言われるもので、橋津川の戦いである。
(中略)
これらによって見ると、用瀬氏は代々用瀬に住んでいた国侍で、山名時氏が興国元年(1340)因幡守となって入国して以来、山名氏に仕え、その重臣の一人であった。
(※用瀬町誌より)
南麓より直登を試み、突入
所々が激しい薮だが、切り開き進む…
支尾根から主尾根へ取り付くと、薮は薄れる…
主郭
主郭の西には土塁
土塁の西下には堀切
主郭の北には、六段の腰曲輪が連なる
東尾根へ連なる曲輪は、北尾根の曲輪群より規模が大きい
東端の曲輪の東には土塁
さらに、離れた位置に出丸のような二段の曲輪が
存在していた
松茸尾城遠望
軌跡ログ
旧八頭郡用瀬町の城
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