大崎城 旧気高郡気高町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

気高町水尻の日本海に突き出す丘陵上にあり、北は日本海に接する断崖、その三方は岩肌と急斜面になって険しい代表的名山城である。また、この城は気多・高草の境にあって、いわば毛利軍と尼子軍の最前線の位置で戦略上重要な城であった。
城主は樋土佐右衛門で、因幡の守護山名氏の部将であった。天正の始め、西国の安芸国の毛利元就が山陰地方平定に進出してくると、これに属し無尽の忠勤を尽くした。天正九年(1581)、羽柴秀吉は、鳥取城を包囲するや毛利方の部将の多くは秀吉軍に投降したが、大崎城の樋土佐右衛門は毛利への義を守り節を変えず、鳥取落城後も、毛利方東の最前線として立て籠もった。
その後、秀吉は伯耆国の羽衣石城主・南條元続と松崎城主・小鴨元清を毛利軍から救おうと大軍を率いて、此処を通過しようとした時、樋土佐右衛門は城よりこれ迎え撃たんと弓銃を連ね鳴りを潜めて準備した。これを見た秀吉軍の総帥加藤清正は、『一気に踏み潰して通るべし』と秀吉に進言したが、秀吉はこれを止めて『樋は義を知る武士なり、応戦無用、やがて自滅するであろう』と城の下の谷間を縫って伯耆国に入った。
やがて、樋土佐右衛門は鳥取城主宮部善祥坊を頼り詫言を申し出た。秀吉は、その義心を誉めて恩赦を与え、領地千石を配して宮部の与力として、大崎城に差し置かれた。
天下分け目の関ヶ原が起こると、宮部に従って徳川方の東軍に属し、宮部の変心が発覚したので豊臣方に捕らえられた。樋土佐右衛門は、三河国から密かに大崎城に帰り、妻子を連れて下味野村に隠れ帰農した。その時に姓を樋から懸樋に、その名も孫左衛門と改め、元和二年(1616)四月五日に病死した。土佐右衛門には娘があり、上味野村の美田弥兵衛という豪農の弟の与次郎を養子に迎え弥左衛門と名を改めて、代々栄えたと伝える。
現在の樋、懸樋、筧の姓は、その子孫であると伝える。
(※気高町誌より)

東より踏み込むが、かなり薮が激しい…

東出丸曲輪群東二郭

東出丸曲輪群東一郭

かなり浅いが、東一郭と西一郭間には堀切

東出丸曲輪群西一郭

東出丸曲輪群西二郭

東出丸曲輪群北帯曲輪


さらに進むと城域の中核部へ…
東には堅堀

中核部の南側の通路状の帯曲輪

主曲輪群東八郭~東五郭




東四郭には石垣


東三郭にも石垣


東二郭

階段状に連なる曲輪群の南側には、土塁を備えた通路状の帯曲輪が伸びる


主曲輪群主郭

主郭の土塁

主曲輪群主郭の西には堀切

南西曲輪群北主郭

北主郭と南主郭の間には土橋の架かる堀切


南西曲輪群南主郭

その南斜面には帯曲輪群が多数連なる



大崎城遠望

軌跡ログ



旧気高郡気高町の城