古神道とは何か? | 異界行

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オカルト歴ン10年の著者が、過去に行ってきたミステリースポットの調査内容を報告します。

2017年最初の更新は、異界調査報告ではなく、古神道に対する考察を主に日ユ同祖論に絡めて述べたいと思う。
「古神道」という言葉自体は、江戸時代に発展した「国学」において「記紀などの古典に根拠を置き儒仏の要素を混じえない神道」という意味で用いられた言葉である。一般的には原始神道などとも呼ばれている。
一方、「日ユ同祖論」という言葉がある。これは、日本とユダヤは先祖を同じくする同族という説であり、これに従えば神道=聖書となる。実際、神道とユダヤ教との共通点は以下のように多い。
・偶像崇拝をしない。
・神社の拝殿・本殿の形式が、ユダヤの幕屋の聖所・至聖所に相当する。
・穢れの観念。塩による清め。
・ともに「三種の神器」がある。
等々。伊勢神宮にある石灯籠にユダヤのシンボル「ダビデの星(籠目紋)」が刻まれているのも証拠の一つとされている。

著者が以前から注目している研究家の飛鳥昭雄氏によれば、日本の神道はユダヤ教+原始キリスト教であり、具体的には古神道(物部神道)は旧約聖書(ユダヤ教)、新しい神道(秦氏の神道)は新約聖書(原始キリスト教)であるという。
つまり、神道の最高神・天照大御神はイエス・キリストであると主張している。
聖書の信仰は一神教であり、対して日本の神道は八百万の神々による多神教である。しかし、奈良以前の神道は唯一神教であったという説(籠神社の主張)もあり、八百万の神々は全て唯一の神・天照大御神の分御魂ということらしい。
にわかには信じがたい説だが、詳しくは氏の著作等で確認してもらいたい。著者としても、概ね同意できる内容である。
 
ただ、古神道=ユダヤ教とする説には納得しかねる。
何故なら、古神道の根幹は「自然崇拝」である。律法と契約の神ヤハウェの旧約聖書とは相いれない気がする。
著者は不信心な人間なので宗教については常に否定的だが、中でもユダヤ・キリスト教の聖書の言葉には全く共感できない。
当ブログの最初の記事でも述べたように、著者の異界行の出発点は古史古伝と日本のピラミッドである。多くのピラミッド山を訪れることは、自然に分け入ることでもあった。ピラミッドだけではなく、古い神社もまた自然と共にあるものだった。自然を征服支配する聖書的な考え方とは対極に位置する。
もっとも、ユダヤ・キリスト教は今でこそ白人の宗教であるが、本来ユダヤ人(イスラエル人)は白人ではなくモンゴロイドである。なので、白人によって変容した聖書は本来の教えではなく、こと原始キリスト教というのは神道そのものであったらしい(原始キリスト教徒であった秦氏が神道を完成させた)。
しかし、仮にそうであったとしても、やはり自然崇拝と旧約聖書は相容れないように思う。これは、多くの自然に触れてきた者の実感である。
自然崇拝には以下の要素がある。
・神奈備(かんなび)…神が鎮座する山や神が隠れ住まう森。


・磐座(いわくら)…神が鎮座する岩や山。ピラミッド山に多くある巨石もこれに相当する。


・神籬(ひもろぎ)…神が隠れ住む森や木々。


いずれもアニミズムであり、川や海、湖も含め自然には全て神が宿る。
飛鳥説によれば古神道=物部神道であり、物部氏の祖は秦の始皇帝の命により古代日本にやって来た徐福である。始皇帝も徐福も共にヘブライ人(失われた十支族)で、持っていた宗教は旧約聖書(ユダヤ教)である。なので、古神道=ユダヤ教となるようだが、著者が納得できていないのは先述の通りである。
何故なら、古神道は縄文時代のアニミズムに繋がるからだ。だから、流れとしては以下のようになる。
縄文神道(自然崇拝)⇒物部神道(旧約聖書)⇒秦神道(新約聖書)
原住日本人である縄文人の国へヘブライ人の徐福がやって来て、婿入りして縄文神道と融合した物部神道を興したと考えれば良いのか?
イスラエルのある中東の地は今でこそ砂漠だが、旧約聖書の時代は古代エジプトと同様に森と緑に覆われた地であったともいう。ならば、自然に囲まれた日本の縄文人と同じような信仰を持てたのだろうか?しかし、聖書の神と自然崇拝はやはり相容れない。
飛鳥説ではさらに縄文人までもがヘブライの流れだという。具体的には、古代イスラエルから大西洋経由でアメリカ大陸に渡ったヘブライ人がおり、それがインカ・マヤ文明を興して、やがて太平洋を越えて日本に渡った。つまり、縄文人=インカ、弥生人=マヤということらしい。
確かに、以前から土器等の関係で古代インカと縄文の関連は言われてきた。
しかし、古代アメリカ人がヘブライ人であったとする根拠は薄い。聖書にはそのような記載は無いし、唯一あるのは「モルモン書」のみである。単なるモルモン教徒の一方的な主張と言われても仕方ない。
 
とりとめもない内容になってしまったが、とにかく著者は過去に訪れた多くの異界、つまり日本の自然が好きなのである。観光地と化した人気の神社より、自然の中にひっそりと佇む社の方により強く神を感じるのは、これまでの記事でも主張してきた。
それら自然から畏怖を伴って感じるものと、聖書の世界はやはり一致しない。